ロッドユール

第1話

 ―――ここに私がいるということの記憶が分からない。

 女がいる。うっすらとした水色と桃色の淡く透き通る白い肌を全身に浮かべ、薄暗い畳の部屋に浮き立つように立つ。その突然の存在におぼろげながら私は確たる必然を感じた。

 古い昭和、いやもっと前、明治か大正時代の造りの部屋。そしてその時代の空気があった。私はその時代を生きたこともないのになぜかその空気を知っていた。そして、私はこの部屋から出たことがないにも関わらず、この建物の外観が見えていた。それはこじんまりした古い木造校舎のような二階建ての日本家屋だった。重厚な黒光りの瓦が乗せられ、焼き板が外観を覆っていた。

 女の肩まで伸びた黒髪が、妙に黒く奇麗だった。顔はよく分からないが、美人であることは確かだった。しかし、私の好みではなかった。


 ―――私がここにいることの疑問を疑問に感じなくなった頃だった。

 女の乳房の感触が私の背中を下って行く。私の意識はその温かさを追って行く。

 ぬくもりとやわらかい心地よさが私の芯を通り過ぎていく。快楽というよりも幼少期の追体験のような女の体だった。

 涙が出るほどの懐かしいあの感覚。あの、もう完全に忘れ去っていたあの熱い胸の塊。


 女が横に立っている。

 いつの間にか、白を基調とした原色の浮かぶ着物を羽織っていた。それは、派手過ぎずそれでいて古臭くもなく、その時その場の女に最もふさわしい色柄だった。

 愛想は良いが決して口数は多くなく、どこかいつも憂いを湛えた女の目が私を惹きつけた。やさしく細やかで、それでいて冷たく突き放す。男を知っているそんな目だった。

 女がその目で、古い木枠で出来た窓の外を遠く見つめていた。私も彼女の横で少し身を屈めて低い窓の向こうを覗き込んだ。白と黒の横縞の不思議な山々が遠くのようにすぐ目の前に連なっている。

「あの黒いのはお墓よ」

 彼女がそう言った隣りで、そう言った彼女の全てに私は惹かれていた。再び長い年月のうちに忘れてしまっていた胸の奥の熱い塊が私を堪らなく恋焦がした。

 彼女はしかし、全ての男に対してこうであり、彼女に対して他の男たちも同じことを思うのだろうと思った。

彼女はまだ窓の外を見ていた。

 彼女の肉体はもはやどうでもよかった。彼女そのものの本当にどうしても触れたかった。形の無い実態の無い彼女の本当を私は見たかった。私の熱い塊が熱く息づき鼓動を打った。

 愛想の良い、それでいて油断のない婆さまがいつの間にか襖を開けている。

 こういったことには慣れているのだろう。今まで搔い潜って来たであろう人間の鬼畜を奥に宿した鋭い視線を私に向ける。

「旦那さま。およしになったがようござんすよ」

 やはり愛想の良い、それでいて突き刺すような言い方だった。

 私はかまわず、彼女への熱い思いを味わった。それはやはりまだ私の胸の奥の下の方に塊りとして熱を帯びていた―――。


 ―――突然、私は私に返った。胸の底にはまだ熱い塊が仄白く残っていた。私は徐々に薄れていく切ないそれを一人感じた。

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ロッドユール @rod0yuuru

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