世界の中心で遺灰を投げる

橙田千尋

世界の中心で遺灰を投げる

 遺灰を投げる。

 大きく振りかぶり、力いっぱい右腕を降って投げる。遺灰はスピードをもった状態で散らばっていく。

 一瞬、遺灰が何か美しいものを描いたかのように見えるが、すぐに風に飛ばされ、静けさが場を支配する。しばらくして、観客たちの歓声が聞こえてくる。この時間が好きだからこそ、おれは遺灰を投げているのだ。

 おれが遺灰投げに参加するきっかけは、一年前に起こった。付き合っていた彼女を病気で亡くしたおれは、彼女と交わした、「エアーズロックに私の遺灰を撒いてほしい」という約束を守るためにオーストラリアに向かっていた。



 エアーズロックに辿り着いたおれは、カバンから彼女の遺灰を取り出し、強く握りしめた。どうせなら遠くまで飛ばしてやりたい、そう考えて、大きく振りかぶって撒こうと、いや、正確に言えば投げようとした。その時、

「ちょっと待ってくれ!」

 少し離れたところから大声で呼び止められた。

「投げるのを待ってくれ!!」

 おれは右腕を降ろした。初老の男が息を切らしながら走ってくる。

「き、君は、今な、何をしようとしていたのかね」

「ちょっと待ってください、まずあなたは誰なんですか」

「ああ、す、すまなかった。私はこういうものでね」

 男が名刺を差し出した。


『遺灰投げインストラクター 水田学』


「遺灰投げインストラクター?」

 思わず口に出してしまった。

「そう、私は遺灰投げインストラクターの水田だ。よろしく」

「あ、ああどうも。すいません。遺灰投げインストラクターって何ですか?」

「おっ、興味があるのかい?」

「いや、そうじゃないですけど、何で遺灰投げインストラクターの方が自分に声をかけたのかなって。というか、遺灰投げって一体?」

「君は遺灰投げを知らないのか。知らないであのフォームは相当才能が、ああ、すまんね。遺灰投げっていうのは、文字通り遺灰を投げるスポーツだよ」

「そんな不謹慎なスポーツがあるんですか?」

「不謹慎? 馬鹿言っちゃいけない。遺灰投げこそ、最高の弔いだよ。あ、ちなみに年はいくつだい?」

「二十一です」

「ということは、大学」

「三年です」

「なるほど、じゃあ今から育てれば、大学選手権には間に合うかもしれないな」

 男が勝手に話を進めそうだったので、慌てて話を遮った。

「す、すいません。自分興味ないです」

「えっ? 君は遺灰投げの才能があるんだ。さっき投げるときのフォームを見て分かった。あの力強いフォーム、君はこの道でトップになれるかもしれないんだぞ。才能を捨ててしまってもいいのかい?」

 男は熱く語っている。おれには遺灰投げの才能が有るらしい。しかし、遺灰投げという競技が本当にあるのだろうか。もしかしたら、この男の妄想である可能性もある、いや、おそらく妄想だろう。二十一年間生きてきて、遺灰投げというスポーツを聞いたことは一回もない。

「そういわれましても。そもそも遺灰投げという競技が本当にあるのかもわかりませんし」

「何を言ってるんだ! 遺灰投げは全国大会が開かれるほど立派な、まあ、言いたいことも分からんではない。何しろマイナーなスポーツだからね」

 男はカバンからタブレットを取りだした。

「今年行われた遺灰投げ大学選手権の動画がある。これを見れば君も興味をもつはずだ」

 動画が再生された。

 そこに映し出されたのは、遺灰を投げる大学生らしき人物たちだった。海が見える丘で大会は行われているらしい。意外だったのは観客の多さだった。ざっと見ただけでも百人以上はいるようだった。中には、応援幕を用意している人もいた。

「この男が、今年のチャンピオンだよ」

 男が画面を指さした。そこには腕の筋肉がしっかりとついた、色黒の男が立っていた。右手には何か握っている。おそらく遺灰だろう。男はいきなり走り出すと、大声をあげながら遺灰を投げ、勢い余って地面に倒れこんだ。

 その瞬間、遺灰が風を舞って、海のほうへと運ばれていった。一瞬会場は静まり返ったが、すぐに歓声に変わった。

 少しして、放送が入った。

『九点 十点 九点 十点 八点 九点 九点 九点 合計七十三点です』

 男は雄叫びを上げ、観客は大歓声を男に浴びせた。

 この時、おれは食い入るように動画を見ていた。

「君はこの男に勝つことができる。それくらいの才能があるんだ。遺灰投げをやってみてはくれんかね」

 心が揺れ動いた。しかし、おれは約束を果たさなければならないことがあった。

「お気持ちは嬉しいですけど、果たさなければいけない約束があるんです」

「約束?」

「遺灰をこの場所に撒いてほしいって、彼女と約束したんです」

「なるほど。ますます君を手放したくなくなったよ」

「え?」 

「その遺灰には特に強いメッセージ性がある。そういう遺灰は投げた時に壮大な物語を生み出すことができる。今の選手でそれができるものはほとんどいない。これはスポーツでもあるが、芸術でもあるんだ。君がこの場所に撒けば、それで物語は終わってしまう。だが、君が遺灰投げを始めれば、物語は再び始まるんだ。そうすれば、彼女さんもきっと喜んでくれるはずだよ」

 滅茶苦茶な説得だと思ったが、とにかく熱量があった。確かにここに撒いてしまえば、それで終わる。だが、遺灰投げに参加すれば、まだ彼女と一緒に行動できる時間が増えるのではないか。遺灰にはなってしまっているが。

 その後も男からの説得は止まらず、最終的に熱意に押されるような形で、おれは遺灰投げという競技を始めることになった。

 

 日本に戻り、水田による指導が始まった。相手の遺族には、遺灰を撒いてきたと嘘をついた。遺灰を撒かないどころか、よく分からない競技に使うなど言った日には、袋叩きに遭うに決まっているからだ。まず、最初に始めたのはルールを理解することだった。おれは水田からルールを教わった。


『遺灰投げのルール』

①一対一で戦う。

②合図が出されてから一分以内に投げなければならない。なお、競技フィールドのどこから投げても構わない

③投げた遺灰の散らばり方、美しさ、力強さ、メッセージ性を判定し、八人の審査員が十点満点で審査する。

④同点の場合はもう一度遺灰を投げる。


 

 想像していたよりもかなり簡単だったので、すぐに把握することができた。

 その後、投げ込みを行うようにと言われた。フォームに関してはスムーズで綺麗とのことだった。おれは自分のフォームが綺麗だとは全く思わなかったが。おれは中学の時まで野球をやっていたことがあったので、素人の投げ方ではないだろう。しかし、フォームが綺麗とは一言も言われたことがないし、何しろ外野手だったため、投手がバッターに向かって投げるときとは異なった投げ方だっただろう。もしかしたら、野球と遺灰投げでは理想のフォームが違うのかもしれない。フォームの綺麗さとは裏腹に、投げる瞬間に無駄な力が入ってしまうため、灰の散らばり方が汚くなってしまうとのことだった。

おれは力の抜けた投げ方を身に着けるため、砂を使って毎日三、四時間ひたすら砂を投げ込んだ。友人からなぜ砂を投げているのかと尋ねられたり、大学で砂を投げているところを見られて、通りすがりの人に怪訝な顔をされたりすることもあった。しかし、おれは何も言わなかった。遺灰投げの練習をしていると言えば、こいつは大切な人を亡くして頭がおかしくなってしまったと言われかねない。 休日には水田も駆けつけ、付きっきりで指導をしてもらった。一日五時間以上指導されることもあった。しかし、なかなか投げる瞬間に無駄な力を入れないという感覚が掴めなかった。

 ある日、練習をしているところに水田がやってきた。

「今から二千回、砂を撒くんだ」

「二千回って、そんなに投げたら肩が……」

「いいから二千回投げるんだ!」

 水田の表情は真剣だった。多い日でも一日三百投くらいだった投げ込みを、二千回も行う。気の遠くなる数だ。しかも、そんなに多く投げ込みをすれば、肩を壊す可能性も高くなる。真意を掴めず、立ちすくんでいるおれに水田は声を荒げた。

「いいから早く投げろ!」

  声に背中を無理やり押され、おれは投げ込みを始めた。百、二百、三百。普段ならこれくらいで終わりにする。しかし、今日は違う。四百、五百、六百。肩が張り始めた。七百、八百、九百。千回を超えたあたりから、腕の感覚がなくなってきた。途中からおれは数えることをやめてしまったが、代わりに水田が数えていた。千五百回を超えたあたりで握力が限界を迎え、砂を握るのもやっとだった。

 なぜ、こんな思いをしてまで遺灰を投げているのだろうか。二千回投げた先で何か劇的に状況が良くなるとでもいうのだろうか。水田は回数以外何も言わない。もし、投げ切った後にただ疲労感と肩の痛みだけしか残らなければ、おれは遺灰投げを辞めよう。高校球児やプロ野球選手も、猛練習の間、こんなことを考えているのだろうか。地獄のような練習の果てに、何か残るものはあるのか。

 そんなことを考えながら投げた千八百三投目、途中で握力を失い、腕が一番高い所を通過した瞬間に砂を離してしまった。砂は真上に舞い、おれの顔に降ってきた。

 こんなみっともない投げ方をすれば、水田に怒鳴られるに違いない。そう思っておれは身構えた。

「それだよ」

 返ってきたのは予想もしていない答えだった。おれの聞き間違いかもしれない。

「それくらいの力が理想なんだよ」

 聞き間違いなどしていなかった。あのみっともない投げ方が理想なのか。おれは水田の言葉の真意を呑み込めずにいた。

「今みたいにな、握っているかどうかわからないくらいの力で握るんだ。フォームに関してお前はかなり綺麗だと俺は思う。オーバースローで投げている選手の中でもトップクラスだ。でもリリースの時は別だ。変に力を入れているから、汚く砂が舞うことになる。お前の遺灰は確かにメッセージ性があるが、散らばり方が汚ければ伝わらない。二千回投げろとお前に指示したのは、お前を極限まで疲れさせて力が入らない状態にするためだ。今、お前は力の抜けた理想的なリリースができた。この状態を忘れるなよ」

 おれは息を切らしながら、水田の言葉を聞いていた。あれが理想のリリースなのか。おれは、力を込めて投げればいいと思い込んでいた。二千回を目指して投げ込みをしていたときもそうだった。今までの常識だけで遺灰投げに挑んでいた。これは野球ではない、遺灰投げだ。おれは勘違いをしていた。

 こうしておれは理想のリリースにたどり着くことができたが、そこから体に覚えさせるのに更に時間を要した。水田から灰の散らばり方に関してOKを貰う頃には、大学選手権まで残り二か月を切っていた。

 もうあまり時間は残されていないというのに、おれはまだ投げ込みだけをしていた。練習では砂しか投げることができず、まだ遺灰を投げたことは一度もない。本当にこれで大学選手権を勝ち上がるはできるのだろうか。

 おれは水田に相談することにした。

「このまま投げ込みだけ続けていて、大学選手権で勝つことはできるんですか?」

「大丈夫だ。俺を信じろ」

「でも、実戦で遺灰を投げたこともないんですよ。ぶっつけで勝てるとは思えません」

「大丈夫だ」

「大丈夫とだけ言われても納得できません! 一回試合をやらせてください!」

 水田はしばらく黙っていた。その間もおれは水田から目をそらさなかった。数分後、水田が口を開いた。

「分かった。来月東京でオープン大会があるから、それに参加しよう」

「あ、ありがとうございます!」

 こうしておれは大会に出ることが決まった。大学選手権まで一か月を切る時期なので、最終調整としてもうってつけの場所だろう。喜ぶおれとは裏腹に、水田の表情は冴えなかった。

 その後も投げ込みを続け、とうとうオープン大会の日がやってきた。おれは会場であるグラウンドに向かい、グラウンドのすぐ外で行われていたエントリー登録の列に並んだ今年で三回目らしく、大会参加者は年々増加しているらしい。とはいってもおれを含めて四人だったが。

 登録の時、遺灰をチェックされた。どうやら遺灰を持っていない選手が、遺灰に見えるように加工した砂や小麦粉で競技を行うことが問題になっているらしい。昨年は三人参加者がいたとのことだったが、二人が偽造遺灰で引っかかったため、結局不戦勝で終わったとのことだった。結構違反には厳しく、事前に尿検査も行われた。別の大会では以前、ドーピングを用いたため、優勝を剥奪されたらしい。ドーピング問題は遺灰投げというマイナーと言えるほどまだ流行っていないスポーツをも蝕んでいるらしい。

 トーナメントの組み合わせが発表された。おれは第一試合だった。一回戦(事実上の準決勝だが)で前回大会の優勝者と当たることになった。そして、別の組には動画で見た、大学選手権のチャンピオンがいた。色黒の男は実物よりも体格がよく、円盤投げかハンマー投げの選手だといわれてもおかしくないほどだった。まさかここで出会うことになるとは。おれは身震いした。

 試合開始が近づき、おれはグラウンドの中に入った。観客は三十人程度で、大体が選手関係者だった。見たところ、大学選手権のチャンピオンの応援団だった。遺灰投げ部でもあるのだろうか。

 その後相手もゆっくりとグラウンドに現れた。四十代くらいの、少し髪の薄い男だった。とてもチャンピオンには見えなかった。

 試合が始まった。まず、審判が握手を促し、おれと中年男は握手をした。フィールドは思ったよりかなり狭く、バスケットコートの半分くらいだった。

 審査員は四人だった。どうやら八人集まらなかったらしい。小さなオープン大会と大学選手権ではかなり規模に差があるようだった。おれはいささか拍子抜けした。

 先攻は中年男からだった。フィールドに中年男が入り、合図の笛が鳴る。約十秒経ってから、どたばたと勢いをつけ、遺灰を投げた。お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 まばらな拍手の後、審査員が点数札を挙げた。

『一点 二点 二点 一点』

「計六点です」

 審判が合計点数を告げた。中年男は納得のいかない顔をしながら、フィールドを出た。

 次はおれの番だった。久しぶりに彼女の遺灰を握りしめた。フィールドに入ると、すぐに笛が鳴った。

 おれは水田から教わった通りに遺灰を投げた。遺灰は斜め上へと散らばった。中年男よりは綺麗に撒けたはずだ。その証拠に、観客たちは少しざわついた。

 遺灰が見えなくなると同時に、その場にいた観客が大きな拍手をした。水田も驚いていた。

『七点 八点 七点 七点』

「計二十九点です」

 圧倒的な差をつけての勝利だった。審判が再び握手を促し、一回戦第一試合は終わった。

「見込み通り、良い遺灰投げだったよ」

 試合を終えたおれに、水田が声をかけた。

「ありがとうございます」

「でもな、決勝はおそらく負けることになる」

 おれは水田の言葉に少し苛立ちを覚えた。

「そんなのやってみないと分からないじゃないですか」

「分かった。もうこれ以上俺は何も言わない」

 せっかく気持ちよく勝利したのに、水を差されてしまい不愉快だった。

 その後、二回戦が行われた。大学選手権のチャンピオンは三十七対九という圧倒的大差で決勝へと進んだとのことだった。

 そして、休憩をはさみ、決勝戦が行われた。

「さっきの試合見てたけど、なかなかいい投げっぷりだね」

 握手をするときに、チャンピオンの男が話しかけてきた。

「俺の名前は灰村って言うんだ。お手柔らかに頼むよ」

「黒野です。そちらこそ、おれ初心者なんで」

 お互いに言葉を交わし、所定の位置についた。

 先攻はおれだった。フィールド内に入り、笛の合図とともに灰を投げた。角度、飛距離ともに完璧だった。しかし、さっきの試合より拍手は少なかった。少しして、審査員が点数を提示した

『六点 六点 四点 七点』

「計二十三点です」

 一回戦より点数が下がっていた。なぜ。おれは納得がいかなかった。一回戦よりも遺灰は綺麗に撒けたとおれは思っていたからだ。

 次にチャンピオンが投げる番だった。笛が鳴り、男はしばらく目を閉じた。そして、おもむろに雄叫びを上げながら、真上に向かって遺灰を投げた。

 明らかにおれの遺灰よりも迫力があった、遺灰は真っすぐ上に飛んでいき、風に乗っていく。それはまるで、龍をみているかのようだった。

『九点 九点 八点 八点』

「計三十四点です」

  おれは灰村を見て愕然とした。灰村は首をかしげながら、しきりにフォームを確認していたのだ。おそらく、理想の投げ方ではなかったのだろう。

 力の差を思い知らされた。その後閉会式があったが、あまり覚えていない。それほどにショックが強かった。

 帰り道、ようやく思考力が戻ってきたおれは水田の運転する車に揺られながら、今日の敗因を必死に分析していた。フォームに関して問題はなかった。いや、おれのほうが優れていたと思う。灰村のフォームは確かに勢いがあったが、綺麗とは言い難かった。灰の散り方に問題があったのだろか、確かに灰村の散り方は龍を思わせるような迫力があった。対しておれの散り方は灰村よりは劣っていたのだろう。おそらく、それが拍手や点数の差となったのだ。これなら負けたのも納得できる。しかし、おれが付けられた点数に関しては、納得できなかった。なぜ、一回戦より点数が六点も下がってしまったのか。おれの中では一回戦よりも決勝のほうがフォームも灰の散らばり方も良かった。しかし、結果としては六点も点数を下げてしまった。

「なんで、点数が下がったんですかね」

 おれは水田に話しかけた。水田は黙っている。

「おれはほぼ理想的な投げ方をしたと思ってます。灰の散り方も確かに灰村に比べれば劣っているかもしれません。でも、悪くはなかったはずです。それなのにどうして」

 水田はまだ黙っていた。

「黙ってないで何か言ってくださいよ!」

 しばらくの沈黙の後、水田がようやく口を開いた。

「お前が投げていたのは砂と変わらないからだ」

「え?」

「確かに投げ方は良かった。灰の散り方も決して奴に負けていなかった。だがな、お前は投げる瞬間何も考えていなかった。特に決勝戦はそれが顕著に出た。何も考えずに投げた遺灰はな、砂と変わらないんだよ。お前の持っている遺灰には確かにメッセージ性がある。若くして亡くなった彼女の遺灰。観客の心を掴むには十分だ。でもあの試合の時はただの砂だった。反対に奴の投げ方はあまり綺麗だとは言えない。でも奴の投げた遺灰には確かにメッセージ性がこもっていた。遺灰が龍のように見えた。今回の大会、審査員は少なかったがしっかりと遺灰にこめたメッセージ性も点数に反映させていた。遺灰にこめたメッセージ性。そこがお前の点数が伸びなかった理由、お前が奴に負けた理由だ」

 おれは何も言い返せなかった。確かに決勝の試合、おれは笛の合図と同時に遺灰を投げようとした。そこには何もメッセージ性は無かった。おれは遺灰を投げていなかった。

 その大会の後、おれは家に引きこもった。遺灰投げをしばらく忘れ、亡くなった彼女との思い出をひたすら反芻した。来る日も来る日も反芻した。

 遺灰投げの練習を止めてしばらく経ち、気が付けば大学選手権まであと三日に迫っていた。おれは何かを探し求めるかのように、彼女の墓へ向かった。

 昼過ぎに霊園に辿り着き、おれは彼女の墓の前に立った。おれは遺灰投げをしていていいのだろうか。おれはお前の分も生きなければならないのに、ただ遺灰を投げているばかりだった。前に進んでいない。ただ、お前の遺灰を使って過去にしがみついているだけじゃないのか。

 気が付くと、日も沈みかけていた。大学選手権に出るのは止めよう。そう思い、帰ろうとしたが、なぜかおれは遺灰を握りしめていた。そして、誰かに体を操られるかのように遺灰を投げていた。おれは目を疑った。手から放たれた遺灰は宙をゆっくりと舞い、輝きだしたのだ。輝いてみえたのはおれの錯覚かもしれない。しかし、あの時、確かに、確かに輝いているように見えたのだ。それはまるで、彼女との思い出を映し出しているかのようだった。気が付くとおれは嗚咽をあげながら泣いていた。

 もしかしたら、彼女がおれに遺灰を投げさせたのかもしれない。

 大学選手権当日、おれは会場である、海が見える丘に立っていた。エントリー登録を済ませたおれに、水田が近づいてきた。

「お久しぶりです」

「気持ちの整理はついたのか」

「はい」

「確かに、一か月前とは佇まいが変わった気がするな」

「見ていてください」

 おれはフィールドへと向かった。

 大学選手権の参加者は八人だった。去年は四人とのことだったので、倍の参加者だ。観客も百人以上はいるだろう。ほとんどが選手関係者だったが。おれも家族や友人、彼女の遺族を呼ぼうと考えたが、遺灰投げをしていることに関しては誰にも言わなかった手前、今更遺灰投げについて打ち明けても混乱させるばかりなので思いとどまった。アナウンスによると今日は一回戦と準決勝を行い、決勝は明日行われるとのことだった。最大三試合しか行わないにも関わらず、二日に分けるということは、それだけ選手の体力、精神の消耗が激しいのかもしれない。

 組み合わせが発表された。去年のチャンピオン、灰村とは順調にいけば準決勝で戦うことになる。まず、一回戦で勝たなければ、灰村へのリベンジを果たすことはおろか、試合をすることすらできない。おれは自分の頬を叩いた。

 とうとうおれの出番になった。フィールドへと向かう。相手は眼鏡をかけた、背の高い男だった。

 先行は眼鏡からだった。眼鏡は合図とともに、遺灰を投げた。あまり運動をしたことがない人の投げ方だった。灰が放たれた角度は良かったが、メッセージ性は乏しかった。

『四点 六点 六点 五点 四点 三点 三点 四点』

「計三十五点です」

 点数は低かったが、油断していると足元をすくわれる。次はおれの番だった。合図の笛が鳴ったが、おれは三十秒ほど、彼女について祈りを捧げた。

 そして静かに腕を振った。遺灰は斜め上へと放たれた。一瞬場の空気が、水を打つように静まり返った。少しして、まばらな拍手が起こった。しかしおれは動じなかった。

『九点 十点 八点 十点 九点 九点 八点 十点』

「計七十三点です」

 七十三点。前の大学選手権で出した灰村と同じ点数だ

 観客はどよめいた。離れたところで見ていた水田も、驚きが隠せないようだった。

 こうしておれは一回戦を圧倒的大差で勝利することができた。

 試合後、水田が駆け寄ってきた。

「どうしたんだ。見違えるようにメッセージ性がこめられてるじゃないか」

「特に何もしてないですよ。ただ彼女に向かって祈りをささげただけです」

「お前、この一か月で遺灰投げの本質を理解したな」

「そうですかね」

「奴にも勝てるかも、いや、勝てるはずだ!」

「そうなるように、次も全力を尽くしますよ」

 灰村も大差で一回戦を勝ち上がった。これで、リベンジを果たすことが、いや違う、とにかくおれは彼女に向かって祈りをささげるだけだ。そう言い聞かせて、試合の準備を行った。

 準決勝が始まった。お互いに強く握手を交わす。

「前とは面構えが違うな」

「それはありがとう」

「良い試合をしよう」

「こちらこそ」

 先行は灰村からだった。合図の笛とともに、精神を集中させている。そして、目を見開き、灰村は声をあげながら上に向かって遺灰を投げた。遺灰からはやはり龍が見えた。

 審査員が点数を付け終わり、審判が点数を発表した

「計七十四点です」

 さすがとしか言いようがなかった。おれは一回戦の記録を超えなければならなかった。 おれの番になった。合図の笛が鳴り響く。彼女との思い出が頭を駆け巡っていく。

 遺灰を投げることが、お前にできる精一杯の祈りだ!

 おれは目を開けて、さっきよりも少し強く遺灰を投げた。遺灰が宙を舞う。そして、静かに見えなくなった。

 しばらくして、審判の声が会場に響いた。

「計七十四点です」

 同点。これでお互いにもう一回投げることになった。ここからは精神力が試される。

 投げる順番が入れ替わり、今度はおれが先行になった。おれは祈りをこめ、遺灰を投げた。遺灰が静かに空を漂っていく。

「計七十四点です」

 審判が点数を告げた。点数は変わらなかった。おれは静かに、灰村の番を待った。

 灰村が二投目を投げた。相変わらずの力強さだった。観客は歓声をあげた。

 おれは審判が点数を告げるのを待った。

「計七十四点です」

 再び同点。観客がただ事ではない雰囲気を感じ取り、静まり返る。次の一投で勝負が決まる。おれはそう直感した。

 三投目。再び灰村が先行になる。灰村は息を切らしながら、合図とともに目を閉じた。さすがの前大会チャンピオンとはいえども、体力、精神を大きく消耗しているようだった。

 笛が鳴ってから少し時間がたち、もう少しで時間切れというところで、灰村は全身の力を振り絞り、悲鳴にも似た雄叫びをあげながら遺灰を投げた。

 遺灰が空へ登っていく姿は、龍だ。しかし、先ほどとは違う。龍は傷だらけに見えた。まるで今の状態を映し出しているような、満身創痍の龍。しかし、目は死んでいなかった。遺灰は灰村と一つになったのだ。これほどまでに自分の意思を映し出す遺灰は見たことがなかった。

「計七十六点です」

 審判の言葉に誰も声をあげなかった。それほどまで、圧倒的な光景だった。

 いよいよおれの番だ。確かに灰村は強い。あれほどまで遺灰に自分を投影できる人間はいないだろう。しかし、灰村には欠けているものが一つあった。それは、遺灰そのもののメッセージだ。

 笛が鳴った。

 おれは祈る。そして、彼女も祈る。二つの祈りを遺灰にこめる。おれは彼女へ、彼女はおれに向かって祈る。そして、宙を舞う遺灰を見た全ての人々にも祈る。世界が祈りで満ち溢れるように、おれは、ゆっくりと遺灰を離した。

 深い慈しみをたたえた遺灰が空を舞う。海の青にも、空の青にも染まらない遺灰が目の前に広がっていく、世界が遺灰で覆われていく、そう思ったと同時に目の前から遺灰は消えた。

 しばらく沈黙が続いた。世界から音が消えたように、会場は静かだった。

 何分経っただろうか。審査員が我に返り、点数を付ける。そして点数が表示された。

『十点 十点 十点 十点 九点 十点 十点 十点』

「け、計七十九点です」

 再び会場は静まり返った。しかし、その後一人、二人と少しずつ拍手が起こり、気がつくと割れんばかり拍手に変わっていた。

 勝った。勝ったのだ。勝利したことにようやく気づいたおれに、灰村が近づいてくる。

「今まで見た中で一番感動的な遺灰だった。完敗だ」

「そちらこそ、見事な龍だった」

「え、龍?」

 灰村は龍のつもりで投げていなかったらしい。恐ろしい才能だ。

 こうしておれは、翌日の決勝に駒を進めることになった。明日に備え、早めに宿泊先で休むことにした。しかし、おれは恐ろしい事実に気が付いてしまった。

 遺灰が、ほとんど無くなってしまったのだ。もはや投げるほどの量も残っていなかった。

 目の前が真っ白になった。試合に出ることができない。

 おれは慌てて水田を電話で呼び出し、事実を打ち明けた。

「それは俺も危惧していたよ。二度の延長で、遺灰もかなりの量を使うことになる、オープン大会の参加に俺が当初反対していたのも、こういう事態に備えて、遺灰の消費をできるだけ少なくしておきたかったからだ」

「お、おれ、ど、ど、どうすれば」

 水田は考えていた。おれも様々な方法を考えたが、どれも解決には至りそうにない。万策尽きたかと思われたとき、ゆっくりと水田が口を開いた。 

「俺に考えがある。お前は部屋で待ってろ。決して動くなよ」

「水田先生」

「初めて俺のことを先生って言ってくれたな。ありがとよ。絶対にどうにかする。お前を遺灰投げに誘った男として、責任があるからな」

そう言って、水田先生は部屋を飛び出した。おれはいてもたってもいられなかったが、水田先生との約束を守ることにした。

 あまり眠れないまま、決勝戦当日を迎えた。おれは部屋で待っていた。試合開始一時間前になったが、まだ水田先生は現れなかった。

 もう駄目か、そう思った矢先、ドアをノックする音が聞こえた。帰ってきた! そう思いドアを開けたが、そこにいたのは水田先生ではなく、ホテルのスタッフだった。

「黒野様に届けるよう、荷物を預かっています」

 小さな紙袋だった。おれはスタッフから荷物を預かると、さっそく中を開けた。そこには遺灰と手紙が入っていた。おれは手紙を読み始めた。


『黒野君 君は遺灰投げを代表する選手になるべき人間だ。こんなところで立ち止まっている場合じゃない。準決勝の第三投目を見て、俺は気が付いたら涙を流していた。そして、もう君に教えることは何も無いと確信した。どうか俺を投げて、今まで一番高い点数を出してくれ。絶対に優勝できるはずだ。決勝戦でお前とともに戦うことができるなんて、なんて俺は幸せなのだろう。俺に夢を見せてくれてありがとう。そして、これからもよろしく。 水田学』

 

おれは泣いた。ひたすら泣き続けた。そして泣きながら、会場に向かって歩いていた。先生が背中を押してくれている気がした。会場につき、フィールドに立ち、決勝が始まり、対戦相手と握手を交わし、自分の番になって、合図の笛が鳴ってもまだ涙は止まらなかった。おれなんかのために、水田先生は死んでしまった。おれはまだまだ先生に教わりたいことが沢山あったのに。

 おれは、先生のためにも絶対に勝たなければならない。勝たなければ、先生がおれのために死んだ意味が無くなってしまう。どんな投げ方でも散り方でもいい。ここで腕がちぎれてもいい。もう遺灰を投げられなくなったってかまわない。おれの全てを賭けてでも、絶対に優勝しなければならない。

 先生。お願いします。

 おれが祈りをこめると、少し遺灰が熱くなったような気がした。

 涙でぼやけた視界の中、おれは遺灰をありったけの力で、空に向かって投げた。



「それはおれも危惧していたよ。試合経験を積みたいといって、お前が多くの大会に参加しようとしたとき、おれは反対しただろ。こういう事態に備えて、遺灰の消費をできるだけ少なくしておきたかったからだ」

「わ、わたし、ど、ど、どうすればいいんですか」

「大丈夫だ。おれに考えがある。お前は部屋で待ってろ。絶対に動くなよ」

「黒野先生」

「初めて俺のことを先生って言ってくれたな。ありがとよ。絶対にどうにかする。お前を遺灰投げに誘った男として、責任があるからな」

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