ノーサプライズ・ノーライフ

区院

オロナミン刑事


 ハトを見ると、口の中からおでんのたまごが出てくる。


***


「柳さんって、いっつもおでん買っていきますよね」


 後輩の相川くんが、からかうように半笑いで言った。こんなにも寒い真冬の深夜だからだろうか、仕事終わりだからだろうか、今すぐに黙ってほしい。てか黙れ。


 彼は毎週火曜日に来る、オロナミンCとあんぱんだけ買って帰るサラリーマンに「張り込みオロナミン刑事」なんてあだ名をつけるような男だ。


 そのサラリーマンは、相川くんのようなだらしない腹も、相川くんの特徴であり汚点であるあんぱんのヒーローみたいに大きな顔も持っていない。

 背が高くて、鼻が高くて、目の下のクマがなければモデルみたいに綺麗な人だった。


「やだぁ。そんなに買ってる? あたし」

「買ってますって。オロナミン刑事みたいですよ。あ、そういやあの人、先週も今日も来ませんでしたね」


 お前が先々週、「またオロナミン買ってるよ」なんて言わなければ来てたんだよボケ。

 そう言いかけた自分の口を「お」の形から無理矢理変形させて、「そうだね」と言うことができた。


 コンビニでアルバイトを始めてから、もう6年以上が経つ。始めたころは23だった私も、あと少しで30代の仲間入りだ。別にその事実に悲観するわけではなく、寧ろ卒業式を待つ気分だ。20代だからとあれやこれやを押し付けられる理不尽からの卒業だ。「俺もう若くないからさ、柳さん、相川くんの教育係ね」とか、そういう理不尽。


「そういやめっちゃ昨日驚いたんスけど」

「うん」


 相川くんの「めっちゃ驚いた」話は大抵面白くないので、私はコンビニの制服の裾を弄りながら聞いてた。相川くんもそれに気付いていて、知らないふりをしながら口を動かしていた。所詮そういうもんだ。


 「お疲れ様でした」と言って、おでんのたまごを買って店を後にしても、相川くんへの怒りがボコボコと煮えている。おかげで昨日の晩御飯のシチューがまだ残っていることを思い出したが、感謝する気は毛頭ない。


 自宅であるアパートまでの距離がやけに長い。深夜の道は好きだったはずだ。あの先の見えない暗闇が、何でも許してくれる底なしの優しさに見える。


 全部相川のせいだ。ちょっとかっこいいと思ってたサラリーマンが来なくなったのも、おでんのたまごが何だか買いづらくなったのも、帰り道が何だか長く感じるのも。


 結局自分の部屋に着いて、私はすぐにベットに横になった。シチューにもおでんにも口をつけなかった。


***


 その行動は正解だった。大いに正解と呼べる判断だった。


「ここのビーフシチューめっちゃいいね」

「ね。肉大きいし、柔らかい」


 翌日、彼氏とのデートでお昼にビーフシチューを食べた。随分と上品な味だ。白を基調としたデザインの内観と、やけに高い天井の所為で錯覚しているだけかもしれないけど。


 そのまま2人で手を繋いで、駅の近くで雑貨を見たり、あてもなく歩いたりした。

 手を繋いで歩くというだけで、何故こんなにも心がふわふわと柔く軽くなるのだろう。


 付き合って2年になる彼氏はお世辞にも顔がいいというわけではないけれど、優しい人だ。自分の意見を言わないのではなく、相手の意見を否定するのではなく、自分の考えを持ちつつ相手の意見を尊重してくれる人。縁の厚いメガネが似合う人。きっとこの人となら上手くやっていける。


 何よりも、私の誰にも言えない秘密をこの人は理解してくれた。


「ねぇ、あれなんだろ?」


 興味という言葉を体現したような声が響く。彼の優しげな声はいつもより高い。

 繋いだ手がほんの少し緩む。木から葉が落ちるような、そんな何気ないことだと頭では理解していながら、私は背に冷たさを感じた。


 彼の視線の先には、よくストリートミュージシャンが演奏している小さな広場があった。

 軽快な音楽が流れていく。楽器の生演奏だ。少し前に流行った映画の主題歌をピアノアレンジしている。隣でリズムを刻むドラムも高揚感を与えてくれる。


 以前2人で見に行った映画の曲で、私はどことなく嬉しくなった。


「ほら見て、あれ」


 しかし、彼の興味の先は、映画の「曲」ではなかった。


 道を歩いていた人が急に、楽器を手に取って演奏に加わっていく。サックス、トロンボーン、トランペット、チューバ、仕上げにダンサーたちまで。


 嫌だ。


 血よりも早く、不快感が体を巡った。


「あの、ごめん。あたしあっちにいるね」

「え、ちょっと」


 焦る彼の声を突き放すように、私は息を吐いた。


「ハト、ここ多いでしょ。あたしハト見ると吐きたくなるの」


 自分でもいやな女だと、痛いほど分かっている。


「分かった」


 彼は演奏が終わるのを待たずに、私についてきた。手はもう繋いでいなかった。


***


 そのまま会話も何だか弾まず、流れるように私たちはさよならをした。


 帰りの電車に揺られながら、演奏を見る彼の顔を思い返す。


 以前付き合っていた彼氏と遊園地でデートした時に、フラッシュモブでプロポーズされたのは、3年前のことだ。

 突然なる音楽と、踊り出す見知らぬ人。最後に飛ぶ、白いハト。


 私はそういう類のものがあまり好きではなかったし、何よりハトをはじめとした鳥類が大嫌いだった。子供の頃、親に怒られるといつも鳥小屋に閉じ込められて、あの迫りくる尖ったくちばしと、心臓を狙うような瞳がトラウマになっていた。


 最後に顔面に飛んできたハトのせいで私は気絶し、プロポーズは台無し。そもそも遊園地側に事前に許可を貰っていなかったようで、薄れゆく意識の中で係員の戸惑った声が聞こえたことも苦い思い出である。


 そのまま彼氏とは破局。悔いはなかった。


 しかし、心に傷は残った。


 それ以来ずっと、写真や映像などにもかかわらず、ハトを見るだけで吐きそうになる。

 彼と別れた数日後、動物面白映像というテレビを見ながらおでんのたまごを食べた。ハトの映像が映った数分後に、黄色い吐瀉物をぶちまけた。町中でも、公園で老人に餌を貰うハトの集団を見ただけで吐いてしまう。


 そんな生活がもう4年も続いている。


 あの自己満足でしかないプロポーズの所為で、私は一生こんな思いをしなければならない。

 別れた彼の中では私は悪者のようで、折角のプロポーズを台無しにした悪女と化していた。私の人生を台無しにした彼は、この話をラジオやらなにやらに投稿したらしいと、友人の友人の先輩から聞いた。


 今日、ビーフシチューの美味しさを分かち合った彼とは、この苦い思い出も分かち合っていた。

 彼はひどいねと、涙を浮かべて私の話を聞いてくれた。

 大変だったね。辛かったね。大丈夫だよ。その言葉はまるで太陽のようで、この氷山さえも消し去ってくれそうだった。そう信じていた。


 あの演奏を見る目は、前の彼氏と同じだった。


 どこか羨望を宿しつつ、何かを覚悟したような、そんな目。あの真っ直ぐな瞳の中には私は居なくて、ただ、思い出とかそういうものしかない。

 きっとその思い出の中に、私は居ない。


 2人で見たあの映画の曲だって、気づいて無かったよね。私がああいうの嫌いだって、ずっと忘れてたよね。

 本当は、サプライズやりたいんだよね。


 家でベットに寝転がりながら、小さな雫を目から絞り出すように零した。昨日のおでんのたまごは半分だけ食べた。その後胃が空になるまで吐いて、また少し涙が瞼に溜まる。便器の中にある黄色い吐瀉物の中に、たまごの固い白身の欠片が結構きれいな四角形のまま混ざっていた。


「……誰のせいなのかなぁ」


 消化しきれていない。


 子供の頃の鳥小屋の記憶、苦々しい遊園地の記憶、演奏を見る彼の瞳、みんな、みんな。


 消化しきれていない。


「……はは」


 乾いた笑いを零しながら、ゆっくりと立ち上がった。瞼から雫がまたひとつ、頬を伝った。

 

***


「すみません、栗饅頭って、ありますかね」


 彼氏と別れてから初めてのシフト。あのサラリーマンがやってきた。固い表情の中に何だか意気込みを感じる。圧力というか、何というか。


「はい。あちらのバウムクーヘンとか、ドーナツのコーナーにございます」

「あ、はい。ありがとうございます」


 少し小走りのサラリーマンの背中を見つめながら、今日もクマがすごいなとぼんやり思う。サラリーマンは時折カバンを漁ったり、周りを気にしながらボールペンで何かにメモをしていた。相川が今日仮病で休んでいてよかった。そうでなければ「あの人マジで刑事なんじゃね」とか言いそうだった。


 サラリーマンは栗饅頭を3つとペットボトルのホットココア、そしてオロナミンCを2本、レジに持ってきた。


 手を動かしながら、どこかせわしない様子のサラリーマンをちらちら見る。本当は不快に思われるからやめたほうがいいのだが、また来てくれたことが正直嬉しかった。


「……nanokoでお願いします」

「かしこまりました」


 チャージ式のカードで支払いをスマートに終える。ビニール袋を手渡すと、サラリーマンは小さく頭を下げた。


「あの」


 小さく頭を下げた時点で彼とのやりとりは終わったものだと思っていたのに、彼は会話の糸を手繰り寄せた。


「これ。よかったら飲んでください。その、今日なんだか疲れてるようですので」

「いや、でも」

「いいから」


 そう押し付けられたココアには、黄緑色の付箋が貼ってあった。


「℡000━012━000 峰田空」


 頬を赤らめたサラリーマンの顔は、先日別れた彼氏よりも整っていた。付箋に書かれた名前も、教科書のお手本のように整っていた。


 私はそれが、怖いと思った。


「私、ハトを見ると吐くんです」

「え?」


 きっと、コンビニの店員でこういう発言をするのは世界で私だけだろう。開いた口は止まらず、一度流れはじめた言葉はもう戻っては来なかった。


 赤の他人にこんなことを言う気になった、私の頭はいたって冷静だった。


「ろくに就職もしないし、結婚願望もそんなにないし、もうすぐ30ですけど、今の現状に1つしか不満がありません。その1つは、サプライズという概念がこの世に存在することです」

「えっと」

「私と恋愛したいですか。セックスしたいですか。私は大丈夫です、あなたのことずっとかっこいいと思ってました。でも、驚かすのはやめてください。サプライズの無い、老後みたいな恋愛がしたいんです」


 吸い込んだ息がやけに冷たかった。今日の最低気温はマイナスいくつだっただろう。


 早口で呟く自分が、私はなんだか誇らしかった。


 私はどこかで自分のことを諦めたかったのかもしれない。自分はもうとっくに壊れた人間だから、もう人生どうにでもなれって気持ちで生きていきたい。そう心の端で願う一方で、それが実行できない、これっぽっちの勇気のない自分を見たくないのだ。


 誰の所為だ、誰の所為だ。そう考えていたらきっと、私は驚きの呪いから抜け出せない。

 もう驚きばかりの人生には振り回されたくない。今度は私が、振り回してやる。


 あとで店長に何か言われるだろうか。隣のレジでたばこを出す手を止めてこちらを見ている店長に、心の中で頭を下げた。


 サラリーマンさんも、もうオロナミンCとあんぱんは別のコンビニでお願いします。レジで聞いてもないこと喋りまくる女なんか、ナンパしちゃだめですよ。


「すみません、じゃあ驚かせないように今言っておきます」


 ビニール袋がシャリリと揺れる。


 彼は真っ直ぐな瞳で口を開く。前の彼氏とも、前の前の彼氏とも違う、刺さるような真っ直ぐな瞳。その先にはちゃんと私がいる、真っ直ぐな瞳。


「俺もずっと素敵な人だと思ってました。あなたと恋愛したいです。セックスしたいです。後日、またお話ししますね」


 サラリーマンはそのままスタスタと、早歩きで去っていく。そして店を出た瞬間に、大きく腕を振って全力疾走していった。随分と速かった。


 私はその場で自分だけが時が止まったような気がした。


 フラッシュモブのあの時もそんな感覚がしたけれど、今回のは違う。

 時間に取り残されたのではなく、私が世界を止めたような、何て言ったらいいのだろう。国語辞典で調べても、きっと答えは出ない。


 入口の近くでハトが地面をつついている。それを見て相変わらず吐きそうになったので、休憩室に駆け込んでココアを一気に容器の半分飲んだ。


 血よりも早く、温かさと甘さが全身を駆け巡った。


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