第9話 カーテンの

 それからまた二日たって、篠原かなでは登校した。

 あまり体調はよくないらしく、体育の時間に飛んだり跳ねたりしているさまを羨ましそうに眺めていた。

 声をかけようと手を伸ばしても、僕にはそのたった一つの勇気が足りなくて。

 相変わらず僕は彼女と親しげに会話をすることもなく、目を合わせることすらなくて、僕らの時間が歯がゆいほどに穏やかに過ぎて行った。

 帰りの会が終わってから、僕は窓際の後ろの席で几帳面に机の上の整理をしている篠原かなでに声をかけようとする。

 が、篠原かなでは矢沢萌と話していて、そのあまりに楽しそうな光景に僕は少し尻込みをしてしまう。簡単なことなのに。

「この間は、あんなことを言ってごめん」

「体調はもう、大丈夫なの?」

「手術するって本当?」

 聞きたいことはたくさんあった。でも、僕には勇気がなさすぎたんだ。

 そうこうしているうちに、ノリとツッチーの「サッカーをして帰らないか」という誘いが聞こえてきて、僕はちょろちょろと窓際の後ろを気にしながら「うん」と答えてしまう。

 僕の馬鹿野郎。

 僕は教室の隅にあるカレンダーを見て、今日の日付を確認する。

 十月十九日。

 時間が、ない。


 心にもやもやを抱えたまま校庭に出て、すっきりしない気持ちのままノリやツッチーにパスを回し続けた。

 僕が回したはずのパスを土田幸樹が取り損ねて、やけになった畠山康則が奪い返してそのままシュートでゴールイン。ナイッシュー、なんて両手を合わせて声を弾ませる。 校庭の真ん中から、僕らの教室が見える。

 僕らの教室の窓には、薄いベージュのカーテンがひかれていた。

 僕は何の活躍も見せないで、ひとつのゴールもろくに決めないまま時間は過ぎて、赤く染まった夕焼けの空には黄金色のトンボが飛び始めた。

 夕焼け小やけのBGMが聞こえてきて、小学生の僕たちは解散する。つかれたー、だの腹減った―、だの今日やるテレビ番組がどーのこーのだの、色んなことを話しながら、全身についた砂ほこりを振り払って、宿題の沢山入ったランドセルを背負った。少し重い。

 校庭から見える教室の窓はもう、とっくのとうに閉められている。

 重たい足取りのまま校門へ向かう途中、僕の前を歩いていた畠山康則が振り向いた。

「そういやあゆむ、お前って“紙飛行機”のあれ、もう出したの?」

「紙飛行機?……あー、…そういえば、出してないや」

 今日の国語の授業のあとに、僕は大槻先生に呼びとめられて“紙飛行機”に乗せる作文を書いていないのがクラスで僕一人になってしまったという宣告を受けた。

 本来ならば、放課後残って書いていけというところなのだろうが、今日家で頑張って書いてくるということを前提に帰宅を許された。

「あれって、今月中だって言ってたじゃん。国語のときに、あゆむと先生が話してんの聞いてなんだかオレが焦っちゃったよ」

「なんでツッチーが焦るんだよ」

「だって、あと十日しかないんだよ。あゆむ、今日家で書いてくるんでしょ?」

「うん。書けっていわれたから」

「ふーん。あゆむ、なんて書くの?」

 なんて書こう。

 ノリはサッカー選手になりたいと書いた。

 ツッチーは自宅の農家を継ぐと書いた。

 僕は一体、何になればいいのだろう。

 僕はまだ十歳だ。大人になるには、まだ十年くらい時間があるのだから、その間には色々と変化が起こるのかもしれないだろうが。

――絵本作家になりたいの。

 そう言ったのは誰だったのだろうか。


 地面に這わせていた視線を上げて、僕は閉め切られているはずの教室の窓へと顔を向けた。

 誰もいないはずの教室のカーテン越しに、誰かの影が見えた気がして僕は目を見開く。

 思わず足を止めて三階の教室の端を凝視していると、畠山康則の「どうしたんだ」という怪訝な声が聞こえてきた。僕は、「ああ」とか「えっと」とか口を濁すと、

「ごめん、なんか教室に体育袋忘れてきたかもしれない」

 と、適当なことをでっちあげた。

 まじかよー、汚ねーなーという笑い声をあげる二人に、

「ごめん。取ってくるから、先に帰ってて」

 と言って、僕は踵を回転させた。


 赤い光の入る下駄箱にはもう、誰もいなかった。

 昼間に比べてとんでもなく広く見える廊下には、僕以外の誰の足音も響いてくるはずもなくて、時々ぱたぱたという先生たちのゆるい足音が聞こえてくる程度だった。

 どきどきと高鳴る胸を押さえて、僕は閉じられた教室のドアを開けた。

 先ほどまで閉められていたはずの大きな窓は開けられていて、涼しい風に揺られてベージュのカーテンがふわふわと揺れていた。

 僕以外の誰の影もない教室に足を踏み入れて、僕ははぁはぁと乱れた息を整える。

 誰もいない夕方の教室は、それこそ世界の片隅を切り取ったくらいに幻想的で。

 大きな窓から入る真っ赤な太陽の光と、それに照らされる机と椅子と、ワックスの取れた傷ばかりが目立つ茶色い床と。

 ふわふわと波を打つカーテンが泡立った僕の心臓を刺激して。

「なんだよ……」

 立ち止まった足を踏み出して、僕は窓際の席の机を指先で撫でた。

「だれも、いないじゃん……」

 なんで、窓開いてるんだよ。

 誰もいないのに。いるはずもないのに。

「なんで、窓開いてるんだよ――」


 初恋は叶わない。

 生まれて初めて恋をするとき、人はあまりに若すぎて、幼稚すぎて。肉親以外の誰かに芽生えた“愛情”を叶える手段も、伝える手段もそのすべも持たない。

 僕たちはいずれ離れていってしまうから、いつの日か別々の道を歩んでいってしまうから。

 いずれはまた、別々に好きな人を見つけて、全部綺麗な思い出に変わるのだから。

 目の前が眩む。

 窓から差し込む赤い閃光が、体に染みる。

 日の落ちかけた秋の風は僕の肌をひんやりと撫でた。

 少し寒い。窓を閉めて、早く帰ろう。

 ごしごしと瞼をこすり、開け放たれた窓に手をかける。

 と、

「あゆむくん」

 思わぬ呼名に、僕は全身をびくんと跳ねつかせた。

「なにしてるの?もう、とっくの昔にお家に帰ったんじゃなかったの?」

 後ろのドアから顔を覗かせていたのは、篠原かなでだった。

 彼女は、右手に何かファイルのようなものの入った紙袋を持っていて、僕の姿を見つけるとぱたぱたという上履きの音をたてて教室の中に入ってきた。

 怪訝そうに眉を潜めている彼女に、僕は言う。

「あ……体育着、今日使ったのに教室に置いてっちゃって」

「ほんと?」

「あとなんか、教室の窓、開けっぱなしだったから」

 僕はそう言って、手をかけていた窓を閉めて施錠をした。

 篠原かなではどこか不思議そうに長い睫毛をぱちぱちと上下させていたのだが、それからはっ、と気がついたようにして

「ごっ、ごめんねっ!それ、わたし!」

 くるくるとカーテンを纏める僕の手からベージュのそれを奪い取って、篠原かなではこう言った。

「わたしがね。日直が閉めたはずの窓開けて、カーテンもばらしたの。ごめんね。わたしが元に戻すから」

――なんで、閉められてた窓をわざわざ開けたの?

 僕はそう言った素朴な疑問を抱くのだが、開け放たれたその位置からは先ほどまで僕たちがボールを蹴りまわしていたあの場所が見えるということに気がついて、疑問以上のある種の期待を抱く。

 そんな淡い期待を振り払うようにして、僕は机の上に置かれた紙袋を指さしてそれを問う。

「篠原さんこそ、なにしてたの?」

 僕がなるべくなんでもないような口調で問いかけると、彼女は綺麗な水晶玉みたいな黒い目に赤い夕陽の光を移してこう答えた。

「あとかたつけ」

 教室の端と端にぴしっとカーテンを纏めると、彼女は「終わったよ」と言って両手を叩いた。



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