第8話 本当のこと
何日かおいて、正式に篠原かなでが転校をするという話が朝の会で発表された。
突然の発表にクラスが騒めいて、あの矢沢萌が泣き出したというから驚きだ。
それからクラスの学級委員を中心に、プレゼント作りやら色紙制作やら篠原かなで本人の知らないところで「お別れ会」の準備が進められていくのだが(いや、本人はきっと気が付いているのだろうが)、あの日以来僕は、篠原かなでと会話をするどころか視線のひとつも合わせていない。
謝るべきなのかな、と思う。
あの時はあんなこと言ってごめんって。
本当はあんなこと、全然思っていないんだって。
でも僕には、今更そんなことを言って彼女の気を引こうだとか、自分の汚名を返上しようだとか、そんな気持ちは出てこなかった。
初恋は実らない。
十年後二十年後、僕らが大きく成長した時に美しい思い出として記憶に残っていればいい。
ノリやツッチーと馬鹿騒ぎを繰り返しながら、僕はそんなことを思っていた。
休み時間、僕の周りに集まってカードゲームをしているとき、矢沢萌が色紙を抱えてやってきた。
「これ。書いておいて」
四角い色紙の真ん中には、「かなちゃん大好き」と可愛らしいカラフルな文字で書かれていた。矢沢萌の字ではない――勇士の女子によって書かれたのだろう。
その周りには、もう、目も痛くなるような鮮やかな文字でいくつものメッセージが書かれていた。
「女子はほとんど書いたんだよ。あとは男子と、女子の何人か」
ふぅん、と僕は思う。その日、篠原かなでは休んでいて、みんなは急ピッチでお別れ会の準備を進めていた。
ツッチーとノリは、もう、めんどくさいなーとか言いながらもカードをしまいこんで、近くにいた女子からペンを借りて四方八方から書き込んでいる。僕はその様子を眺めながら、ああ、なんて書こう、と考える。考えてみるけど、いい案が浮かんでこない。
近くで書き終わることを待っていた矢沢萌が、ああ、そう言えば。と、言葉を発した。
「あゆむくん、まだ“紙飛行機”の作文だしてないんだってね」
彼女の言葉に、僕は少し考える。それから、記憶の底に埋まったそれを思い出して、ぽん、と両手を叩いた。
「うん。書いてない」
「あれ、今月中だって。先生が嘆いてたよ」
「え、そうだっけ?」
けらけらけらと、僕らの間で笑いが起きる。
「あゆむ、そういうの苦手だもんな」
「うん。それで、今回のテーマってなに?去年は確か、未来の勅使河原市だったよね」
「今年もそんな変わんないよー」
「いや、いくらか書きやすいと思うけどねー。おれは」
「で、今年のテーマはなに?」
きゅきゅきゅきゅ、とカラフルなマーカーを動かしながら、土田幸樹が答えた。
「将来の夢だってよ」
できた、と言って、マーカーのふたをきゅぽんと閉めた。
篠原かなでは、三日間連続して学校を休んだ。
可哀そうに。また喘息の発作を起こして、病院に担ぎ込まれたのだという。
――僕のせいかな。
そんなことあるはずがないのに、あの、誰もいない窓際の一番後ろの席を見てしまうと、あの日の罪悪感だとか心臓の痛みだとかが蘇って、僕の良心を刺激した。
矢沢萌との関係は相も変わらず良好のようで、矢沢萌は篠原かなでのためにノートをとったりお別れ会の準備をしたりと甲斐甲斐しく働いていた。
土田幸樹は、彼女のあのような所が好きなのかもしれないな、ということに気が付く。うん。僕も、彼女のことは嫌いではない。
それは、体育の後だった。
その日の体育は持久走で、校舎の周り約三キロを完走したものから教室へ戻っていいというものだった。
前にも言ったが、僕は足が速い。
今のところ、短距離ではクラスで二、三番くらい。長距離では一番早い。
ダントツトップで三キロを走り抜けた僕は、教室へ戻る前に校舎の隅にある水道で水分を補給していた。ついでに顔を洗って、手の届く場所にかけておいたフェイスタオルを手探りで探す。
目を瞑ったままもぞもぞと手を動かしていると、全く見当違いな所を探していたらしい僕の手の中に、誰かがタオルを差し出してくれた。
「あ、ありがとう」
だれだろう、ノリ? ツッチーかな。と僕は思う。わしわしと顔を拭いて、差し出してくれた誰かの顔を確認する。
「あれ?」
意外な人物で、僕は目を開ける。矢沢萌だ。そういえば、彼女はクラスの女子の中で一番足が速いんだ。
彼女は僕の隣の水道の蛇口を捻ると、ざーと両手を擦り合わせた。転んだのかなんなのか、彼女の手にはやたらと泥が付いていた。
彼女はレモン石鹸を使い丁寧にそれを洗い流すと、僕のフェイスタオルを勝手に使って濡れた両手を綺麗に拭いた。
「あのね、あゆむくん」
「うん」
「かなちゃん、お父さんの都合で転校するっていってたじゃない?」
彼女の言葉に、僕は少し間を置いて、小さく「うん」と返事をした。
「あれね、本当は違うんだよ」
え、と僕は思う。
「ほんとはね。お父さんの仕事の都合じゃなくてね。かなちゃん、大きな病院で手術するんだって」
僕は、僕自身の耳を疑う。
「嘘じゃないよ。ほんとだよ。今、喘息がすごくひどくなっちゃっててね。この辺りの病院じゃできないんだって。東京の、大きな病院に行って手術しなくちゃいけないんだって」
淡々としゃべっていた矢沢萌の声が、次第に震えてくる。
「でも……空気のいいところで暮らすって……」
「それは、手術が終わって退院したらだよ。かなちゃん、嘘ついたんだ。みんなに心配かけたくないから。笑ってお別れしたいから」
――秘密にしてたわけじゃないの
ここを離れたいわけじゃないの。みんなと離れるのはね、すごく、すごく辛いことなの。でも、やっぱり、わたしももっと、体、丈夫にしたいの。
僕は、段々と表情を曇らせていく矢沢萌を前にして、あの時の篠原かなでの言葉と苦しそうな表情を思い浮かべる。
僕はあのとき、何を言った?
彼女は僕に、何の言葉を求めていたんだ?
「どうしよう、どうしよう……かわいそうだよ……かなちゃん、あんなに小さいのに、あんなに体が弱いのに。大丈夫かなぁ……。もしも、なにかあったらどうしよう…もしも声が出なくなったりしたらどうしよう……」
耐えきれなくなったらしい矢沢萌が、ついに僕の前で泣きだした。
わっ、という彼女の涙で僕ははっ、と我に返る。後ろから、走り終わったらしい他のクラスメイト達もやってきて、僕たちの周りを囲み始めた。
ぐずぐずと涙の止まらない矢沢萌は、クラスの女子に連れられて保健室へ向かった。
僕は「なにがあった」ということを先生に聞かれたが、それ以上は特に何も言われることもなく、咎められることもなく、他の連中と一緒に教室へ戻る。
「何があったんだよ」
ひどい顔でこう言ったのは、水面下の恋のメロディーを奏でる土田幸樹だ。
なんでもないよ、と僕は言った。
給食の時間を挟み、五時間目の授業を終えて、六時間目の半ばくらいに、後ろの席から折り畳んだノートの切れ端が届いた。
先生の目を盗んでそれを開くと、「さっきはごめんね」と、小奇麗な文字で書かれていた。
少しだけ首を動かして後ろを振り向くと、窓際の後ろから二番目の席に座っている矢沢萌がこちらを見ていた。
僕の姉ちゃんに彼氏ができたと言ってたのは確か、二年くらい前だ。
中学校の、同じ年で同じクラスの人だといっていた。
顔は、見たことがない。会ってみたいと僕は言ったのだが、恥ずかしい、あんたなんかに合わせるのはもったいないととんでもなく酷いことを言われて断られた。
それから暫くの間は、こまめに携帯を弄っていたり休みの日には頻繁に出かけたりと細々と動いていたのだが、それらの動きは次第に穏やかになっていった。
付き合い始めて半年ほどしたある日の夕方、当時中学三年生だった姉が目元を真っ赤に腫らせた状態で帰ってきたことがあった。
すごい形相で勢いよく玄関の戸を閉めると、わっ、と声をあげてまるで怪獣のような声で泣き出した。
玄関先で泣きわめく姉ちゃんの元には、夕飯の支度をしていた母さんがガスコンロの火を止めてすぐにすっ飛んできた。それから二人で居間にこもり、二時間だか三時間だかずっと何かを話していた。
僕は、普段見たこともない実姉の醜態を恐れると同時にものすごく恥ずかしくなって、二人が居間に引きこもっている間自分の部屋で空腹の腹を押さえながら漫画本を読んでいた。
もういい加減、お腹と背中がくっつきそうになったころに、階段の下から「ごはんだよー」と僕の名前を呼ぶ母さんの声が聞こえてきた。
大分遅めの夕飯を食べて、いつもよりも大分早めに姉ちゃんが自分の部屋に籠った後に、僕は母に「姉ちゃんは、どこか体の具合でも悪いのか」と聞いてみた。すると、母さんは少しだけ困ったような顔でこう言った。
「体の具合は、どこも悪くないのよ。悪いのは、どちらかというと、心の方」
「心?」
その言葉の真意が読みとれず、僕は首を傾げた。
「そうだよ。心」
――人の心というものは、電気屋さんに売っている機械よりも、もっともっと精密にできている。すごく性能がいいのだけれど、その分テレビのリモコンや洗濯機よりももっともっと壊れやすいのだという。
当時まだ九歳だった僕は、心とか命だとか僕のすべてを司るものは全部胸の中にあると思っていた。
僕は自分の胸を押さえ、心臓の音を確認する。
とくん、とくん、とくん……
僕は抑えていた辺りのシャツを握りしめて、母に問う。
「姉ちゃんの心は壊れちゃったの?」
僕の言葉に、母さんは「違うわよ」と笑った。
「壊れる前に、母さんが直したから大丈夫」
信頼感溢れるその言葉に、僕はほっと安心する。それから僕は、もう一つ浮かび上がった疑問を母に問いた。
「おれの心もいつか、壊れちゃうの?」
母さんは少しだけ考えて、
「男の子のほうが、女の子よりも丈夫だから。あゆむは壊れないよ」
女の子の方が、男の子よりも壊れやすいのか、ともう一度問う。
「そうだね。男の子よりも、少しだけね」
「なんで?」
僕のしつこい質問攻めに、「あゆむってば今日はなんだかしつこいなぁー」といって僕の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「あゆむはまだ小さいから、そのうちわかるようになるわよ」
僕はまだ、色々と聞きたいことがあったのだけれど、「もう、部屋に戻りなさい」と僕の両肩をつかむ母の手を振り払うことなんてできず、それらの疑問を胸の中にしまいこんだ。
あれからはもう、二年の月日がたった。
中学生だった姉ちゃんは高校生になり、新しい彼氏ができた。
僕が母のその言葉を本当に理解するのはまだもう少し先のことで、今だってそんなこと全然わかるはずがないのだけれど、あのとき、ぼんやりとした輪郭しか掴めなかった母の言葉をなんとなくだけど解り始めていた。
女の子は壊れやすく、傷つきやすい。
それはきっと、僕とか土田とか、畠山なんかよりもずっとずっと。
あの時、僕は傷ついていた。
傷ついてたのかもしれないけれど、篠原かなでは僕なんかよりもずっとずっとずたずたに傷ついていたのかもしれない。
僕は、彼女に傷をつけたままお別れをしたくない。
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