第4話 訪問
一時間目の休み時間、僕はノートの整理をしていたらしい矢沢萌に声をかける。
「矢沢さん」
「あ、あゆむくん」
矢沢さんは一、二年の時同じクラスだった。だから今でも僕のことを名前で呼んでいる。
「体大丈夫?すごいね、傷だらけ」
「大丈夫だけど。お風呂入る時、すごい染みた」
「あはは。しばらく大変そうだね」
矢沢萌は、からからとよく笑う。
「篠原さんて、なんで今日休みなの?」
僕のその問いに、矢沢萌は顔を曇らせた。
「うん。昨日のこともあって……あと、少し体調が悪いみたい」
「……そっか」
「あ、あのね。あゆむくん」
僕の表情が歪んだことに気がついたのか、矢沢萌はぱっ、と顔をあげて両手を左右に振った。
「別にね。あゆむくんが気にするようなことじゃないの。ただ、ちょっと、びっくりしちゃったみたいだけど。でも、あゆむくんの責任じゃないから」
矢沢萌はそう言った。
“僕の責任ではない”
果たして本当にそうなのだろうか。
もしも僕が、茂木和義と取っ組み合いの喧嘩をしなかったなら、僕がもっと早く飛び出してあのポーチを取り戻していれば。
こんなことにはならなかったんじゃないのだろうか。
必死にフォローをしてくれる矢沢萌を前にして、僕は肩を落とす。
気にしなくていいよ。と矢沢萌は言った。
それから彼女は、こうも僕に教えてくれた。
「でもね、かなちゃんは感謝してたみたいだよ。ありがとうって言ってた」
彼女がそう言った瞬間チャイムが鳴って、僕たちはざわざわと席に着く。
前のドアから先生が入ってきて、日直が号令をかけた。
頭を下げる時、ちょっとだけ視線をずらして窓際の一番後ろの席を盗み見た。
ほんの少し希望が湧いた。
篠原かなでは次の日もその次の日も学校を休んだ。
二日目の僕はひたすら窓際を眺めて我慢して、三日目の僕はぱたぱたと上履きを鳴らしてうるさいと怒られた。
四日目の昼休みに僕は、窓際の後から二番目の席に座っている矢沢萌に声をかける。
「かなちゃんね、まだちょっと体調がよくないんだって」
彼女は心配そうに眉を潜めた。
「おうちでね、喘息の発作も起きちゃって。夜遅くに病院に行って、点滴受けてきたんだって。昨日、わたしプリント届けに行ったんだけど会えなかった」
大丈夫かな、心配だね。と矢沢萌は口を閉じた。
「代わりにかなちゃんのお母さんが出てね。来週には行けると思うって言ってたよ。だから私、プリントとお菓子だけ渡して帰ったんだ。早く良くなるといいね」
僕は壁に貼ってある時間割表を見て、今日の曜日を確認する。
今日は確か金曜日だ。今日は六時間目まで授業があって、明日は土曜日で午前中。明後日は日曜日だから次に会うのは月曜日だ。
長いな、と僕は思う。
「今日も篠原さんちにお見舞いに行くの?」
矢沢萌はうん、と言って上目使いに僕を見た。
「でも私、今日はピアノのお稽古あるからそんなに長くはいけないんだ。今日、六時間目まであるじゃない?だから、急がなくちゃいけないんだけど……」
どうしよう、と眉を寄せる彼女に僕は、瞬間的にこう言った。
「俺が代わりに行ってくるよ」
矢沢萌はえ?なにいってんの?というようにして目をきょとんとさせると、そのあとに何を察したのか「わかった」と言って、篠原かなでの家までの道のりを説明してくれた。
午後の授業は全然頭の中に入ってこなかった。
サッカーをして帰らないかというノリとツッチーの誘いを断って、帰りの会が終わってすぐに僕はランドセルと給食袋を片手に教室を飛び出した。
あんまりに急ぎすぎて途中で先生に廊下を走っていることを咎められたりしたけれど、それらすべてを振り切って僕は地面を蹴り上げた。
左の手には給食袋、右の手には矢沢萌に書いてもらった簡単な地図を持って。
篠原かなでの家は、僕の家とは全く正反対の場所にあった。
学校から走って十五分ほどか、僕は足が速いから、篠原かなでが歩いて通いとなると、もう少し時間がかかるのかもしれない。
はぁはぁ、と全身で呼吸をしながら上がった息を整えて、今一度手の中にある地図で確認をする。
篠原という表札の出ている、茶色い屋根の、大きな白い家。ここだ、間違いないと確認する。
ちょうど僕の目線辺りにあるインターホンを押そうとして、押そうとするのだが、彼女の家の前まで来た僕の親指はその先を行くことを拒む。
僕は少しばかり、大胆に行動をしすぎじゃないかということに気が付く。
篠原かなでの家まで来て、篠原かなでに宿題やらプリントやら矢沢萌からの手紙やらを渡して、それからどうするのか。
インターホンまであと一センチの距離で指先を止めて、僕は数秒立ち尽くす。ごくり、と乾いた唾液を呑み込んで、僕は覚悟を決めて数センチのその距離を埋めた。
ピーンポーン、という間延びした音が鼓膜の奥を擽った。
すぐに「はーい」という女の人の愛嬌のいい高い声と、ぱたぱたというスリッパの音が聞こえて重たそうな玄関の扉が開かれた。
出てきたのは篠原かなでのお母さんだった。
篠原かなでと同じ色の髪は黒々つやつやとしていて、例えて言うならば洗剤だとか石鹸のCМに出てくるような清潔感のある綺麗な人だった。
僕が驚いた理由は、篠原かなでの母親が稀にみるような美人であったことと、それよりも僕は家の中でもお化粧をしているような、スカートを穿いているような母親と出会ったのは初めてだった。
篠原かなでの母親は僕の顔を一目見ると、「あら」といって、その長い睫毛を瞬かせた。
「かなちゃんのお友達?」
という優しそうな声に僕は何も言えず、真っ赤な顔を隠すこともできずコクコクを上下に首を振った。
それから、ぐっと息を飲み込んでこう言った。
「あっ、あのっ。今日はっ、矢沢さんが用事があってこれなくてっ、だからおれっ…じゃなくて、えっと、ぼくがっ……」
僕が必死になっていったその言葉に対し、彼女はふっと視線を和らげて微笑した。そんな彼女の様子に僕は、ぼっと全身が赤くなる。
――悟られた?悟られたのか?
彼女は口元に綺麗な指先を当てて、くすくすという声を立てた。それから、ああ、と何かに気がついたようにしてこういった。
「ひょっとして、あなた“あゆむくん”?」
僕は思わず姿勢を正して、
「はっ、はいっ!」
と答えた。緊張していたせいもあって、少しだけ声が掠れた。
「いつもかなちゃんから聞いてるの。仲良くして貰ってるみたいね。ありがとう」
――話?
誰が?なんの?
篠原奏が、僕のことを?
僕の全身が紅潮して、顔からぼっという火が出そうになる。
篠原かなでの母親はくるりと踵を後ろに向けると、
「今日はとても調子がいいみたいなの。今、自分の部屋にいるからよかったら上がっていって」
「え、でも…」
「おいしいお菓子があるの」
お菓子につられたというか、断りきれなかったというかなんというか。
篠原かなでの母親に連れられて、僕は玄関に足を踏み入れる。視線だけ動かして周囲を見ると、綺麗な細工の施された靴箱の上には大きな水槽が乗っかっている。二匹の金魚が口をぱくぱくと動かしながらひれを動かしていた。
僕の家の階段とは違う、緩やかで綺麗な階段を上がるとその先には三つの扉があった。
彼女の母親が一番奥の扉をノックすると、「はぁい」という女の子の声が聞こえた。
篠原かなでだ。
その声を聞いて、僕の心臓がびくんと跳ねる。
彼女の母親が数歩僕の先を行って、かわいいプレートのかけられた扉を開ける。
「かなちゃん、お友達がきてるわよ」
「お友達?だれ?萌ちゃん?」
彼女の母親が僕のほうを見て手招きをした。
僕は高鳴る心臓を押さえながら、母親の後ろからひょっこりと顔を出す。
篠原かなでは、ベッドの上にいた。
彼女は不思議そうな眼で僕の顔をみて、その顔がひどく驚いたような表情になり、ぱぁっと明るくなった。
「あゆむくん!」
四日ぶりにあったその顔は、いくらか痩せたようなやつれたような表情になっていた。
それでも、大きな目とちょこんとついた鼻はそのまんまだったし、目の前にいるのは篠原かなで以外の何者でもなかった。
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