都会に呑まれた少女
藍沢篠
都会に呑まれた少女
生まれ育った土地を離れ、都会という魔物の胃袋の中に呑み込まれようとしているその時、ひとはなにを考えて逝くことになるのだろうと、僕は時折考える。
僕のかつての彼女も、故郷の町を離れて東京へとでていったきり、還ってこなかった。
東京という町の持つ、得体の知れない底の深さというものに毒され、ずいぶんと頭の中をいじくり回されてしまった結果として、彼女はあの町の餌食になった。
その報せを聞いた時、こころの底で、
「ああ、やっぱりそうなるのか」
と感じていた僕がいたことも、まぎれのない現実だ。
彼女は僕にとって、初めて恋をした相手だった。
まだ僕たちが幼かったころからともに歩み、寄り添い、時に笑いあい、時に涙しあい、そして複雑な経緯を経た末に別れてしまったいまでも、僕は彼女のことを思っている。あんな未来は望んでなどいなかったというのに、運命という奴は残酷だった。
だけど、そのおかげで、僕は彼女の思いを知り、少しだけ大人になり、前へと進めた。
これから僕が歌うのは、そんな彼女の歌なのだ。
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昔から、音楽を聴き、歌っている時間が至福の時だった僕に対して、彼女は本を読んでいる時間がいちばん幸せなように見えた。たまにお互いの好きな音楽や本の話題を交換しあっては、新しい世界に触れ、その時ばかりは、世界はとてもきらきらと輝いていたような、そんな気がしている。
彼女の家は少しだけ貧乏で、彼女には新しい本を買うようなお金の余裕はなかったため、僕と彼女が待ちあわせをするのは、いつでも地元の公民館の小さな図書室だった。図書館といっても、片田舎の町の、うらぶれた印象が否めないこぢんまりとしたものであったために、蔵書数もそれほど多くはなかったし、僕が借りてゆくようなCDの類もさほど品揃えは豊富ではなかった。
だけど、それでも僕と彼女は、頻繁に図書館でお互いの話をしていた。
ある時には、僕のはまっているアーティストの話を。
またある時には、彼女が好きこのんでいた作家の話を。
そして、お互いの好きなそれらを、共有するかのように重ねあわせたこともある。
たとえば、ある日の僕たちの会話に、こんなものがあった。
その日、彼女はなぜか少しだけ不機嫌そうな様子で、待ちあわせの時間に少しだけ遅れて図書館へとやってきた。 笑顔がきらきらとしていて可愛らしかった彼女にしては、珍しいことだ。なにか事情があるのだろうとは思ったけれど、最初はそのことについて言及することはせずに、僕はいつものように、最近聴いてはまっていたアーティストの話を切りだす。
「それでさ、アコースティックギターの演奏がすごく上手で、聴いていて飽きないんだ! 歌声も澄んでいてきれいだし、こんなにいいアーティストを見つけたのは、久しぶりのような気がするよ!」
短い時間で大好きになったそのアーティストの話を、やや鼻息も荒く喋り続ける僕。これはいつものことだったし、いつもだったらここで、彼女も一緒になってテンションを上げて、
「そうなんだ! 私も今度聴いてみる! 楽しみ!」
なんて具合に僕に接してくれるような、そんな時間だった。
だが、その日は彼女からの相槌も笑顔も返ってこない。いつも通りなら微笑みのひとつくらいは返してくれる彼女が、まったくなにも喋ろうとせずに、ただただ淡々と僕の話を聞いている。なにか、様子がおかしくはないだろうか。
そう感じた僕は、いったん音楽の話をするのをやめて、彼女に問いかける。
「……どうしたの? きみ、なんだかいつもよりおとなしいけれど……なにかあったの?」
すると、彼女は僕から視線を逸らし、太陽のヒカリの溢れる窓の外を眺めながら、ぽつりといった。
「……ねえ、前から思っていたけれど、都会に憧れることって、そんなにいいことかな」
予想していなかったひと言に、なぜか心臓が跳ねたような気がした。
僕は昔から、いつの日にか、この片田舎の町をでて、都会でミュージシャンになりたいと思っていた。そんな僕の夢を知っていながら、僕に不思議な言葉を投げかけてきた彼女。彼女がその時なにを思っていたのか、最初はまったくわからなかった。
彼女の淡々とした言葉は続く。
「なんていうのかな……若いひとってみんな、都会の空気とかに憧れるっていうけれど……本当にそれは、夢にまで見るような素敵な生活なのかな」
彼女の思いが読めない。突然のように語りだしたその言葉の意味もそうだったけれども、彼女がその時、少し不安げな表情を浮かべていたことだけは、忘れられないでいる。
「やっぱりなんだか様子がおかしいよね……どうかしたの?」
いまだに真意の掴めない僕は、そう訊ねるのが精一杯だった。
そんな僕に、不意に彼女は視線を戻すと、残酷すぎるその言葉を口にした。
「私ね……今度、東京に引っ越すことになったの」
一瞬、彼女がなにをいっているのかがわからない錯覚に囚われた。
東京は、僕が夢にまで思っていた、いうまでもなく大きくて立派な都会の町だ。そんな東京に行けるというだけで、夢のようなことだというのに、なぜか彼女の表情は暗い。
「パパの転勤でね……私、パパとふたり暮らしだし、パパはひとりだとお料理も家事もできないようなひとだから、私もついていって面倒を見てあげなくちゃ、って、そう思うの……」
そこまで喋ったと思った途端、彼女の大きな両の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「でも、でもね……私はこの町を離れたくない……あなたが傍にいてくれて、一緒に笑いあえて、貧乏でも落ち着いた生活ができるこの町を、でたくなんかないの……」
そんなものなのかな、と思わされた。
僕にとって、東京という大都会は、憧れの的でしかなかった。田舎にはないたくさんのものに溢れていて、ひとびとの往来も交流も活発で、なにもかもが魅力的に映っていた、そんな町こそが、東京だった。
そんな東京に引っ越すことになったという、彼女。
僕はそのことについて、とてもうらやましく思った。
「きっと大丈夫だよ」
僕は努めて明るくいう。
「少しくらい距離ができたって、メールも電話もできるし、がんばれば僕の方から逢いに行くことだってできるんだから……きみが不安に思うようなことなんて、ひとつもないよ」
でも、彼女の表情は晴れなかった。
「そうじゃないの……あなたと離ればなれになってしまうのも、確かに嫌だけど……それ以上に私は、この田舎の町の、ゆったりしていて穏やかな暮らしが好きなの……東京みたいな大都会に放り込まれて、毎日を忙しく生きないといけないことは、きっと私にはできないよ……」
確かに、東京という町は片田舎のこの町と比べ、格段に忙しさのレベルが違っている。僕たちの暮らす田舎の町は、酪農が主産業ということもあり、日々がのんびりとしていて、非常に穏やかで牧歌的なものだ。そんな田舎の町の暮らしを好んでいた彼女にとって、東京という、せわしなくて大変な未知の世界に放り込まれることは、ただただ単純に恐怖でしかなかったのだろう。
「……少しくらい貧乏だってかまわないから、私はこの町で生きていたい……だけど、もう決まってしまったことだから、変えることはできないんだ、って……私のわがままなんだってことくらい、わかっているけれど……私は、この町を離れたくなんかないよ……」
なぜ彼女がここまで田舎の暮らしに固執していたのか、僕はのちに理由をなんとなく知ることになったけれど、この時の僕は、そんなことには気づけもしなかった。
そして、その言葉を口にしてしまったのだ。
「きみは。こんな片田舎の町で終わるようなひとじゃないよ」
彼女は僕の言葉に、驚いたように泣くのをやめて、僕のことを見つめてきた。僕は言葉を続ける。
「東京には、この町にはないものがたくさんあるんだから……きみは、そういったものたちに触れて、もっともっと大きくて広い世界を知るといいよ……僕には、それはきっと叶わない夢なんだろうって、そう思うからさ」
彼女のおとうさんはとある小さな商社のサラリーマンだったため、転勤などの事情で住む場所が変わることは、ある意味避けられないけれど、それは逆にいえば、新しい世界を知ることができる可能性がある、ということにも置き換えることができる。
対して、僕の家はこの町ではごくありふれた仕事である所の酪農家だ。酪農家のほとんどの子どもは、家業を継いで酪農家になることがほぼ決まっているため、転勤などといった、外の世界へ出てゆく機会はほとんど皆無に等しい。つまる所、そんな酪農家生まれの僕は、東京という都会に憧れをいだくことはできても、実際にその世界へと飛び込んで行ける可能性は、ほぼないも同然なのだ。
だからこそ、都会で新たな生活を始めることになる彼女の背中を、押してあげたかった。僕には得られないであろう暮らしを、彼女はこれから手にすることができるのだから。
「確かに、この町じゃないとできないような暮らし方があることも、わかってはいるけれどさ……きみがこの町で生きることを望んでいても、きみのおとうさんは東京へ行かないといけないんだから……おとうさんのことが心配なら、きみもちゃんとついていってあげるべきだよ」
そして、この町では手にすることの叶わないような、新しい生活を手に入れてほしい、とまでは、僕はあえて口にはださなかった。それは、僕が手に入れたくても叶わない、そんな夢物語なのだから。彼女の前ではせめて、田舎で生きるさだめを受け入れている僕を、演じきっていたかった。強がりだとはわかっていたはずだった。
本当は僕だって、行けるものなら東京のような都会にでてみたい。そして、ミュージシャンになるという夢を叶えて、新しい生活を始めるのだ。
だけど、それが叶うことのない夢だと知っている以上、僕は僕の代わりみたいな形で東京へと発つことになる彼女を、応援してあげたかった。
不意に、温かいものが僕の唇に触れた。
それが彼女の唇だったと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
「……約束して……絶対に、いつか私の所に逢いにくる、って……」
それは、きっと彼女なりの精一杯の強がりだったのだろう。
彼女が大好きだった、田舎の町の暮らしや、僕という存在からは離れてしまうことになっても、こころは常に寄り添っているのだという、そんな思いを感じる行動だったから。
唇を離した僕は、彼女に向かって、大きく笑顔を作って、応えた。
「……絶対に、いつか逢いに行くよ!」
その言葉と、その中に込めた真ごころに、嘘がなかったことはいまでもわかっている。実際に、僕はいつの日にか、彼女のもとへと逢いに行く決意を固めていたのだから。
その日がいつになるのかまではわからなかったけれど、間違いなくそう思ったのだ。
だけど、これが最初で最後の約束になってしまうという、残酷な運命が降りかかった。
~~~
約束の日からしばらくの時を経て、彼女はおとうさんとともに東京へと引っ越していった。彼女の見送りに訪れたのは、僕ひとりだけだ。
もともと学校でも浮き気味だった彼女のことだったから、そのことについて不思議は感じなかったけれども、少し寂しい別れになってしまったのは仕方ないとも思った。
その別れの間際、彼女は僕に、ひとつの小さな鍵と、手紙を渡してきた。
鍵は、よく見ると、地元の小さな駅のコインロッカーのものだ。
別れ際、彼女は僕にだけ聞こえるような小さな声で、いってくれた。
「もし、あなたがいつか都会にでるような時がきたら、この手紙のことを思いだして……そして、この鍵のことを思いだして」
そして、ほんの少しだけだったけれども、僕に笑顔を向けてくれたのだ。
僕は頷いて鍵と手紙を受け取り、そのまま新幹線に乗って旅立っていった彼女を見送った。いつになるかはわからないけれど、東京に行くという誓いを、新たに胸に誓う。
だが、それが彼女の笑顔を見た、最後のできごとになった。
~~~
春風がいくつも廻り、小さな子どもだった僕が、青年になろうとしていたころだった。
僕はその日、家のすぐ隣にある牛舎で、飼っている牛たちに餌を与えながら、いつもと変わらない、特になにごともない時間をすごしていた。
あの別れの日以来、彼女からの連絡は、いちどたりともきていない。便りがないのはいい便り、という言葉があるけれど、その言葉を信じるならば、彼女は新たに引っ越していった東京で、昔と変わらない澄んだ笑顔を振りまきながら、それなりに幸せに暮らせているのだろうと、僕は信じていた。
僕の方は、両親が早くに急な病で亡くなってしまったのをきっかけに、高校を中途退学して家業を継ぎ、毎日牛たちの面倒を見ながら暮らしている。
この暮らしが寂しくないといえば、嘘になる。だけど、僕にはまだ友達だっているし、同じ酪農家の仲間もいるのだから、ひとりぼっちというわけではない。退屈で、大きな変化もないような、そんな生活だったけれど、これといって不満に感じるようなものでもなかったので、僕はその生き方を許容し、なんとなく受け入れていた。
唯一、昔からまったく変化がなかったどころか、むしろこじれてしまったのは、音楽というただひとつの趣味のことだけだ。彼女と聴いていたアーティストに憧れて、安物だったけれど、アコースティックギターを買い、酪農家としての一日が終わったあとに、毎日のように練習を重ねるようになった。
下手の横好きというレベルでしかなかったけれども、ギターを弾いている時間は楽しい。まるで、なりたくてもなることの叶わなかった、ミュージシャンという夢を、模擬体験しているような気にさせられたから。
その一方で、募らせていた思いがひとつ、僕には存在した。
それは、彼女と最初で最後の約束を交わした、あの日に彼女の方からしてくれたキスに端を発する、僕から彼女への恋ごころだ。
この町にいたころ、目立った友達が僕以外にいなかった彼女にとって、僕はいったいどんな存在であったのだろうか、と、しばしば考えた。答えはでていない。逆の答えである所の、僕にとっての彼女は、とても大切な存在だったということは、まぎれもない事実だったというのに。
そしてもうひとつ、気になっていたこと。それは、彼女との別れ際に受け取った、コインロッカーの鍵と手紙のことだ。
彼女に逢いに行く機会にはまだ恵まれていないので、鍵も手紙も、まだ使っていないし読んでいない。彼女はいったいなにを思って、僕に鍵と手紙を託したのだろうか。その答えが知りたかったけれども、まだその時ではない。答えが明らかになるのは、僕が彼女に逢いに行く、その日がきたらだ。それまでは彼女への恋ごころを温めつつ、静かに変わらない日々をすごしてゆこうと、僕は決めていた。
ギターを両手で抱え、ゆっくりとアルペジオをひとつ鳴らす。
少しずつではあったけれど、僕は自分でオリジナルの曲を作るようになっていた。たまに友達の前でそれを披露することはあったけれど、評価はいまの所は芳しくない。才能があるひとがうらやましく思えはしたけれど、だいたい才能というものは、天から与えられたものを自分の手で見つけだして、初めて才能といえるようなものだ。要するに、僕には与えられたものはないのだろう。
少しだけ苦笑いを浮かべ、ギターをいつものようにじゃかじゃかとかき鳴らしていた、その時だった。
不意に、いちばん細い弦が、ビッと音を立ててちぎれる。僕は演奏をやめ、替えの弦はどこにしまっておいたっけ、と考えながら、立ち上がった。
その時、懐にしまっていた携帯電話が、初期設定のシンプルなメロディを奏でる。
僕は親しいひとからの着信には別の着信音を設定していたので、誰からかわからないその着信に、奇妙な胸騒ぎを覚えた。恐る恐る、電話を繋ぎ、耳に押し当てる。
伝えられたメッセージは、残酷だった。
東京にいるはずの彼女のおとうさんからの着信は、彼女に起こった悲劇を告げてくる。
僕は大急ぎで荷物をまとめると、いちばん近くの大きな町からでている新幹線の最終便に間にあうように、家を飛びだした。
新幹線に乗って辿り着いた初めての東京の町は、生憎の雨模様だった。まるで、彼女と約束を交わしたあの日、彼女が別れを嫌がって泣いていた時みたいな、大粒の水の滴が、空から次々と降り注いでは、僕の服を濡らしてゆく。
見慣れない路線案内を頼りに、電車を何本も乗り継ぎ、やがて彼女の暮らしているという町に到着した。そこでタクシーを呼び止め、彼女のおとうさんから名前を聞いていた建物に向かってくれと頼み、震える身体をいなすようにしながらタクシーの後部座席へと乗り込む。
つい数時間前、電話で彼女のおとうさんから聞いた事実は、きっと嘘だと信じたかった。
やがて、その建物に着いた僕は、受付で彼女のおとうさんと合流し、彼女のもとへ向かう。
部屋のドアを開けた僕の目に飛び込んできた光景は、にわかには信じがたいものだった。
僕の大好きな彼女が、無数の機械に繋がれ、白いベッドの上で静かに目を閉じていた。
彼女のおとうさんから聞いた所によると、彼女はこちらの町に引っ越してきて以降、田舎者と周りから散々バカにされた挙句、いじめに遭い、それがきっかけで鬱病を発症してしまったとのことだった。最初のころは、夜に眠れなくなるという、比較的軽微な症状だけのようだったが、彼女のおとうさんの仕事が忙しくなるにつれて彼女の様子を見ている時間がなくなってしまい、気がついた時には、彼女は自ら死ぬことを選びそうになる所まで追い詰められてしまったそうだ。
彼女のおとうさんが見ているわずかな時間の間だけは、表面上は昔と変わらない笑顔で明るく振る舞っていた彼女だったそうだが、それは本当に一瞬だけのことで、彼女の精神は環境に押し潰されて徐々に蝕まれてゆき、そして彼女は最悪の選択をしてしまった。
彼女は、通っていた高校の屋上から飛び降りて自殺を図り、一命は取り留めたものの、植物状態に陥ったのだ。
植物状態。
言葉だけは聞いたことがあったけれど、いざ実際にそうなった彼女を目にしてみても、実感がまったく湧かなくて、僕はしばらくの間、呆けていた。やがて時間がすぎ、ようやく事態が飲み込め始めた所で、僕は恐る恐るベッドの上の彼女に近づき、その手を握る。
まだ、温もりは残っている。
だけど、彼女はもう、二度と目を覚ますことはない。このままずっと、機械に繋がれたまま、一生をこの無機質な部屋の中ですごさないといけなくなってしまったのだ。ひとつでも繋がれたチューブが外れた瞬間、彼女はこの世からいなくなってしまう。
嘘だと信じたかった。しかしながら、目の前の光景がそれを許してくれない。
そしてさらに、彼女のおとうさんは、残酷すぎる宣告を僕へと下してくる。
それは、彼女をこのまま、安らかに死なせてやれないかという、終わりの決断だった。
仕事が忙しくなったとはいえ、一介の中間管理職にすぎない彼女のおとうさんの収入では、彼女の生命維持装置をずっと繋いだままにしておけるほどの余裕はないらしかった。彼女のおとうさん自身も、相当に迷ったそうだが、もう二度と目を覚まして笑ってくれることのなくなった彼女を見ているのが、あまりにもつらすぎたらしい。それよりはせめて、彼女を静かに眠らせてあげたいと願い、僕は彼女のおとうさんの決断を受け入れることにした。
彼女のおとうさんが呼んだ医師の手により、彼女に繋がれていた生命維持装置のチューブが外され、彼女の心臓が完全に止まったことを報せる無機質な電子音が部屋に響き渡る。
彼女のおとうさんが泣き崩れた。
対して、僕は泣くことができなかった。
代わりに、すべての機械を取り外され、静かに永眠っている彼女の唇に、そっと自分の唇を重ねて、別れの言葉に代えさせてもらった。その時の彼女の唇の冷たさは、一生忘れることはないだろう。
彼女の葬式の手伝いをするために、遺品を集めることになり、昔暮らしていた田舎の町からもなにか見つからないかということで、僕はいちど地元に戻った。当然のことだが、彼女が昔住んでいた家はもうないわけなので、それ以外の所から遺品になりうるものを探したが、当然のごとく見つからない。
だが、最後に残された唯一のあてとして、僕にはひとつ思い当たる場所があった。それは、東京に旅立つ日に彼女が渡してくれた鍵がかけられたコインロッカーのある、地元の小さな駅だった。
鍵に記された番号を頼りに、駅のコインロッカーの場所を探しだし、目的のコインロッカーを見つける。彼女から渡された鍵をコインロッカーに差し込み、ひねり、扉を開けた。
その中には、ふたつのものが残されていた。
ひとつは、彼女がいつも僕の前でつけていた、宝物だと語っていたはずのブローチ。
そしてもうひとつは、なにか音楽の楽譜のようだった。
楽譜の方を手に取り、よく読んでみると、それはかつて僕が彼女にその魅力を存分に語らせてもらった、アコースティックギターの弾き語りを得意とするアーティストの曲だった。
覚えていてくれたのか。
貧乏だったはずの彼女にとって、楽譜はとても高い買いものになったはずだ。なのに、僕なんかのために、彼女は楽譜を残してくれていた。それはまるで、僕がいまそうしているように、いずれは音楽の道を志すと知っていたからなのだろうか。
答えについてはいまでも知らないままだが、彼女の遺品は見つかったので、僕はブローチと楽譜をコインロッカーから取りだして、荷物にしまったのち、新たに持ってきたとあるものを代わりにコインロッカーに預け、鍵をかけてその駅を立ち去った。
葬式のためにもういちど東京へ向かう新幹線の中で、彼女が東京へ発った日にくれたもうひとつのものである、彼女からの手紙を開いて、読んだ。
昔の印象とまったく変わらない、丸っこくて可愛らしい字で、短い文面が綴られている。
『いつか、私が東京っていう名前のモンスターに呑み込まれる日がきたら、思いだして。
あなたの憧れた都会という場所は、そんなにきれいなものばかりなんかじゃない、って。
だけど、あなたの憧れを、私は絶対に笑ったりしない。
あなたが本当に都会で生きたいと思うなら、遠くからになるけれど、応援する。
だから、私のことを絶対に、忘れないで』
この時になって初めて、彼女が死んでからまったく流れなかった涙が、零れ落ちた。
彼女からの最初で最後の願いなのだ、叶えてみせようじゃないか、と、僕は誓った。
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彼女の葬式が終わったのち、僕はそれまで住んでいた田舎町の家を売り払い、わずかな財産とアコースティックギターだけを持って、近くにある比較的大きな町に引っ越した。それ以来、今度は最初の夢であった、ミュージシャンとしての道を歩んでいる。
前に思った通り、才能にはお世辞にも恵まれているとはいえないし、結果として何者にもなることができないのだとわかってしまったような気がするけれど、ひとつ決めたこともある。
僕は僕の人生を「こんな人生だから」って、受け入れて生きると決めた。
これから先も、彼女との別れのように、悲しいできごともあるのかもしれないけれど。この先ずっと、ひとりぼっちで虚しい人生を送るのかもしれないけれど。不器用にでもいいから、僕は僕を生きてゆくのだと、そう決めたのだ。
今夜は久々に、駅外の路上でストリートライヴを行う予定がある。新しい曲がいくつか思いついたので、その中から何曲か歌おうと思うけれど、その中で絶対に外せない曲がひとつだけ存在する。
それは、彼女のことを歌った、ひどく静かで染み渡るようなバラードだ。
タイトルは「ハー・ネーム・イズ・ラヴ」。
彼女はまっすぐな愛情をそのまま形にしたような、そんなひとだったから。この歌が、誰かのこころに残るものになればいいと思いながら、僕は歌う。
天国の彼女の所にも、一緒に届けばいいと、そんな願いを込めながら。
<了>
都会に呑まれた少女 藍沢篠 @shinoa40
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