春場所・初日【登山】
彼の趣味はトレッキングである。
冬山登山も春スキーも、もちろん山開きシーズンも、彼は季節を問わず、山を目指す。
かつて『史上最強の横綱』と謳われた男・西山
70を過ぎて尚衰えを知らぬその肉体と精神は、まさに力士の鑑とも呼べる賜物である。であるにもかかわらず、彼はもう40年近く、相撲から遠ざかっている。いや、自ら遠のけているように見える。
締め込み以外の衣類を身につけず、相手をおよそ4メートル半の土俵の外に出すか、足の裏以外を地面に付ければ勝ち。そんな男らしさ溢れる舞台とは真逆にあるのが、用心を重ねてウェアを着込み、万が一に備えた装備を携え、ピッケル、アイゼン、ストックなどの道具を使い分け、全身で斜面に立つ『登山』ではないかと考え着いて、彼は趣味の欄に『トレッキング』と書くようになった。
『登山』ではなく、あえて『トレッキング』と書くのも、『登山』という字面が『相撲』と近いような気がしてわざわざカタカナ表記にしている。それくらい彼は自らを相撲から遠いところへ追いやりたいと思っている。
「確かに力士の趣味で『登山』は聞いたことないわね」
「そうですね…力士の趣味というとカラオケ、ゴルフが定番ですからね」
しきりちゃんはここまで静かにぼくが読み上げるレポートを聞いていた。
ぼくは元横綱・
しきりちゃんの祖父はその西強山が現役時代、唯一勝てなかった宿敵・力東。しかし、その力東は十両昇進後、ひと場所で引退している。当時のどの報道を見ても、理由は体調不良としか説明されておらず、いつ、どこを痛めて角界を去ったのかは謎のまま。同期で十両に昇進した西強山はその後、順調に横綱まで出世し、これといって力東との因縁が取りざたされた形跡もない。
国民栄誉賞を受賞することとなる『ウルフ』こと千代の富士に敗れて引退してからは、親方には就かず、大学に進学し、今ぼくらが通う、この『土俵学園高校』を設立することになる。
『ワシはもう、相撲から足を洗った』
『力東の孫よ、まだワシを憎んでおるのか』
校長がしきりちゃんに言ったこれらの言葉の意味はまだわからない。
しきりちゃんにも心当たりはないらしい。
「アタシはただ、おじいちゃんのライバルだったって関取が校長やってるって聞いて入学しただけだもん」
隣町にあるという強豪相撲部を擁する高校ではなく、もと横綱に指導してもらえるかもしれないこの高校を選んで入学してきたという。
ぼくは相撲への未練を断ち切るために、あえて相撲部のない高校を選んだんだけど。
「孫のアタシに話してくれるのはこれくらいよ。引退したのは若手に敗れたからだし、親方にならなかったのは入門前から教師を目指していたからだって、それ以外なーんにも教えてくれないわ」
西山カイナは腕を組みながら吐き捨てた。
彼女こそ、西山校長の孫であり、しきりちゃんの幼なじみ、人呼んで『魁皇ちゃん』。
わざわざぼくの家まで、このレポートを持ってきてくれた。優しいんだか、厳しいんだか。
「トレッキングのことは話してくれたんだね」
「小さい頃山に連れてってくれたこともあったからね」
「魁皇ちゃん、小さい時、すごい小さかったよねー」
「うるさいわね東十両しきり!アンタだって小さかったでしょうよ!」
「小さい頃のしきりちゃん可愛かっただろうなぁ」
「バカじゃないの?マエミツって!今可愛くないヤツが小さい頃可愛かったわけないでしょ!」
「マエミツくんはバカじゃないわ!ちょっと人よりヒョロヒョロで相撲バカではあるけど、私の将来の夫なのよ!」
「はぁ?いくらマエミツが世間知らずで根性なしでもアンタみたいな女を嫁にするわけないじゃないの!」
「なんでよ!アンタにマエミツくんの何がわかるつわてのよ!」
「ちょ、ちょっと待って!これ以上話してるといろんな意味で泣いちゃいそうだから、もうやめよう!」
「アンタがあのひとについて調べたいっていうから協力してあげたんだからね!さっさと相撲部作りなさいよね!」
そうだった。
校長に相撲部を認めてもらうには、あと20日足らずで部員を集めなくちゃならないんだった。
ぼくらが越えなければならない山は、史上最強といわれた横綱。
「明日からさっそく一年生への勧誘はじめるわよ!いい?マエミツくん!魁皇ちゃん!」
「はい!」
「勝手に混ぜてんじゃないわよバカ!」
つづく
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