春と桜と猫
中山皐月
第1話 雨上がりとアスファルト
春山直人は雨上がりのアスファルトの匂いが好きだった。
今日も先日満開になったばかりの桜を散らしたであろう午前中の雨が上がった頃、雲の間から陽の光が射し始めたのを確認した直人はいつものように雨上がりの散歩へと出かけることにした。大勢に踏まれてぐちゃぐちゃになる前の、桜の絨毯が見られるだろうことに彼は少しウキウキしていた。
「んん〜…ハアァ。」
家の玄関の鍵を閉め、直人はまずひとつ深呼吸をした。鼻腔をくすぐるこの香りは、干したての布団と同列に並ぶであろうと彼はいつも思う。家を出る前、彼は布団を干していた。家に帰ればその香りも嗅ぐことができるだろうことから、彼はさらに機嫌が良かった。
歩き始めた彼の栗色の猫っ毛は射し始めた光に反射し、雨上がりの日以外はあまり長時間の外出を好まない直人の白い肌は、太陽のもとではほんの少し不釣り合いに見えた。髪と同じく色素の薄い瞳と、高い鼻梁に薄い唇、整っていると言える彼の容姿は大学の女子達から人気がそこそこあったが、図書室にこもり本を読みふけっている彼はそれに気付いていない。またそんなところも良いと言われていたが彼の知る由もなかった。
「さて、公園に行こうかな。」
どうも一人暮らしをすると独り言が増えていけないな、と直人は再び独り言ちる。
大学に進学して実家を出た直人は、祖父が所有しているマンションの一室で一人暮らしを始めたばかりだった。今日は講義もなくバイトもしていないので、絶好の散歩日和というわけだった。
そして公園までの道のり中、ずっと深呼吸を続けていたい気持ちを抑え、不審者にならないよう努めながらようやく彼の家の近所にある小さな公園にたどり着いた。
公園は桜の木が周りを囲むように植えられており、雨で散った花びらが公園一面に広がりまさに絨毯のようだった。
「まだ誰も踏んでないみたいだ。」
桜色の地面には足跡ひとつなかった。
小学校が終わる前に来られて良かったと直人は安堵する。学校が終わる頃になれば小学生たちが公園に押し寄せ、あっという間に桜の絨毯は見る影もなくなってしまうだろう。
新雪に足を踏み入れるように、直人はそっと桜の絨毯に足を乗せた。柔らかい花びらが靴の裏に触れる。ワクワクする。童心に戻ったような気分だ。
香り立つ桜、誰もいない公園。
「いやぁ、控えめに言って最高…。」
桜の絨毯を優しく踏みしめ、そっとそっと公園の真ん中まで来ると、そこで初めて先客がいるらしいことに直人は気付いた。
にゃぁ〜。
「猫?」
どこかから、猫の鳴く声がかすかに聞こえる。直人は犬派か猫派かといわれたら猫派だった。
辺りを見回してもいない。
鳴き声のする方向をよく見ると、公園のど真ん中にある滑り台のてっぺんに、ダンボール箱が一つ置いてあった。どうも鳴き声はそこからするらしかった。
「うわ、雨の日に猫捨てるとか最低だろ…。」
晴れててももちろん駄目だけど、と自分でツッコミながら直人はダンボール箱に近づく。猫が怯えないようにさらにそろそろと歩いていく。
「ほーれ大丈夫だぞー。チッチッチ。」
そばまで来ると児童用の滑り台は、180近い直人にはわざわざ上らなくともダンボールに届く高さだった。寝転がればてっぺんから地面まで容易に届くだろう。雨上がりでベチャベチャなので実際やりはしないが。
にゃぁ〜。
やはり箱の中から声がしているらしかった。
ダンボール箱を開けようと縁を掴むと、直人は箱が全く濡れていないことに気がついた。彼が来る前までは公園には足跡はなかったのだから、当然捨てられたのは絨毯ができる前ーつまり雨の降る前か降っている間。箱が濡れないはずはない。
だがそんなものは雨で凍えているかもしれない猫の前ではどうでもいい小さなことだった。直人はゆっくりと箱を開く。
「かかったな。」
そんな声がしたのはその時だった。
猫と目があう。利口そうな金の瞳で、少しばかりデブ…ふっくらと…栄養の行き過ぎている健康そうな三毛猫が箱の中で直人を見上げていた。
「え、なんだ今の…。」
急に聞こえたダンディーな低い声に、直人は驚いた。
慌ててキョロキョロと周りを見ても人影らしきものは見当たらないうえ、先程の声は相当近くで発せられたものらしかった。
直人の近くで音のするものなんて、目の前の段ボール箱しかない。
「おい。無視をするな。」
再び聞こえたその声は箱の中から聞こえる。
「いやいやそんなはずは…。」
「わざわざそっちに合わせて喋ってやっているのに、無視するとは失礼な野郎だ。」
明らかに猫の口はその声に合わせてパクパクと動いていた。
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