第234話 閑話:狩り暮らし

 静寂に包まれていた森が唐突に騒ぎ出した。木々の梢から無数の鳥が飛び立ち、獣達が叫ぶ鳴き声がこだまする。

 特殊な生態から天敵を持たない『忌み猿マレディクシミア』までもが、枝を伝って逃げ去っていく。

 山火事などに見られる動物達の緊急避難。しかし、森の何処を見ても煙一筋として立ち上ってはいなかった。


 森の弱者達が恐慌状態に陥っているなか、絶対的強者たる彼はお気に入りの『ヌタ場』で泥浴びをしていた。

 『ヌタ場』とは猪や鹿などが、体表についた汚れやダニなどの寄生虫を落とすために、泥を体にこすり付ける場所を指す。

 往々にして小さな水溜りや浅い湖などだが、稀に自然に出来た沼に土が流れ込み、深い泥沼を形成することがあった。

 彼のお気に入りの『ヌタ場』もそうした泥沼だった。彼の巨体が転がっても、はみ出さない程に広く、全身を沈めることが出来る。


 しかし、その利点がこの時ばかりは悪い方へと働いた。彼は迫り来る異常な気配に気付いていたが、深い泥濘に足を取られて抜け出すことが叶わなかった。

 余談だが、この世界に於いてはダニなどの吸血性動物は軒並み大型化しており、大型動物を狙うのではなく、植物に寄生する方向へと進化していた。

 それでもヒルに代表される環形動物は変わらず大型動物から吸血するため、泥浴びは必要な習慣であった。

 彼がやっとのことで泥から重たい体を引き抜いて、固い台地へと足を下したとき、彼の目前には死が迫っていた。


 低木の枝に止まり、こちらを睥睨する緋色の王は、大きく左右に翼を広げ金色に輝く瞳で彼を射すくめる。

 彼我の体格差はバスケットボールとピンポン玉ほどもあった。しかし体格など物ともしない圧倒的な生命体としての格差がそこにはあった。

 硬直して動けない彼の分厚い毛皮に鋭い矢が突き立った。しかし、彼の体を覆った分厚い泥と毛皮の層、巨体を動かす発達した筋肉の層で止まり、心臓まで達しなかった。

 彼は痛みを感じるよりも先に、緋色の王の注意が逸れた幸運に飛びついた。素早く身を翻すと、脱兎の如く駆け出した。


「セオリー通り心臓を狙ったのですが、この距離からでも射抜けないようですね」


 緋色の王ことスカーレットの足元にある茂みで膝立ちの姿勢となったウィルマが呟いた。

 スカーレットは小首を傾げるようにして、ウィルマに行動の判断を委ねる。


「手負いの獣を野に放つと危険です。追いましょう」


 彼女がそう応えると、一つ頷いてスカーレットが先行して飛翔した。

 ウィルマは先導する緋色の光に導かれるまま、昼でもなお暗い森の中を必死で駆けた。

 今回彼女達が狙った獲物、それは当地で『手長熊』と呼ばれる猛獣だ。名前通り手に当たる前肢が非常に長く、反面後肢が非常に短い。

 両腕を地面に突っ張り、体を持ち上げて振り子のように駆ける姿はユーモラスだが、その移動速度は決して侮ることが出来ない。

 長い腕で木立を掴み、立体的に駆け回る『手長熊』を視界に捉え続けることすら難しい。


 彼女達が見つけた『手長熊』は大物だった。目測だが、肩から指先までが3メートルはあろうかと言うサイズだ。

 頭頂部から踵までのサイズも同じく3メートルほどなので、如何に腕が長いかが良く判る。


 その長い腕を生かし、雲梯うんていを渡るようにして懸命に逃げる『手長熊』。


 逃げ続ける彼の目に、滔々と流れる川が飛び込んできた。空からの追跡者に対して、水中へと逃げるのは非常に有効だ。

 彼は夢中で川を目指して移動する。両腕で最後の枝を掴むと、ブランコのように勢い良く空中へと自分の体をはじき出した。

 その瞬間、障害物など何も無い開けた川原が闇に呑まれた。次いで迸った深紅の輝線。

 極限まで細く絞り込まれた糸のような光線が、彼の頭上を通りすぎた。


 ジャッ! という擦過音にも似た異音と共に、空中でバランスを崩した彼が川原へと墜落する。

 地面に叩きつけられる寸前に彼が見たものは、対岸で翼を広げた姿勢でこちらへと嘴を突き出した緋色の王の姿だった。

 ドシャリと言う重い音と共に、彼がバランスを崩した原因が落下した。それは全長にも匹敵する彼の両腕だった。

 全身に乾いた泥を纏っていたことが幸いして、炎上することは無かったものの、肩口の断面は炭化してしまっていた。

 移動の要でもあり、最大の武器でもあった両腕を失った彼は、眼窩を貫かんと迫る矢が脳へと達する刹那の間、泥浴びを中断して逃げなかった事を悔いていた。


「こちらの生物は無駄に頑丈ですね。頭骨も異常に硬いので、目以外は矢が弾かれてしまいます」


 びくびくと最期の痙攣をする『手長熊』へと慎重に歩みより、獲物が息絶えた事を確認してから放った矢へと手を伸ばす。

 力を込めて矢を引き抜くと、ズルリと射抜かれた眼球と視神経の束がついてきた。

 こちらへと飛んできたスカーレットは、自分が切断した『手長熊』の腕に止まり、その切断面をじっと眺めている。


 彼女は自分の放った一撃に満足していなかった。かつて一度だけ見た彼女が敬愛する父の光輪ならば、この程度の小物は真っ二つの唐竹割りになっているはずなのだ。

 周囲の空間から熱を奪い、体内で沸騰させた鉄を超高圧で打ち出した熱線。摂氏2800度にも達する緋色の死線。

 魔法と見紛う超常現象を当たり前のように行使する。彼女もまた超常の存在たる龍なのだ、その身ひとつで世界を改変し、望む現象を出現させる。


 落ち込むスカーレットを他所に、ウィルマは川原を利用して早速獲物を解体していた。

 泥を洗い流しながら放血し、腹を切り裂いて内臓を掻き出す。目指すは生命の象徴たる心臓のみ、他の臓物は必要ない。

 目当ての臓器を周囲から切り離しつつ、ウィルマはさきの光景を思い出していた。

 『手長熊』を追跡しつつ、前方へと目をやれば、対岸に翼を広げたスカーレットの姿が見えた。

 透き通るような深紅の姿が漆黒へと変化したかと思うと、凄まじい範囲が闇に呑まれた。闇の中で周囲の光を吸収したかのように唯一輝く深紅の王は、闇を切り裂く緋色の輝線を描いた。

 なんと言う美しさ、そしてなんと言う圧倒的な強さ。ウィルマが求めてやまない溢れんばかりの生命の輝きがそこにはあった。


 考え事をしながらも的確に心臓を取り出したウィルマは、それを彼女の主へと恭しく差し出した。

 恒例のやり取りなのだが、スカーレットは毎回丁寧に頭を下げてから、その供物へと嘴をつける。

 スカーレットが心臓を啄ばんでいるのを眺めながら、彼女はPDAでシュウへと肉の回収を依頼し、迎えが来るまでの間に枝肉へと切り分ける作業に没頭した。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 ウィルマから荷物の回収依頼を受けた俺は、指定された座標へと転移した。最果ての森と呼ばれる鬱蒼とした森の中にあって、大きく開けた広大な空間。

 依頼主の姿を探して周囲を見渡していると、水浴びをしていたスカーレットが水滴を払ってこちらへと飛んできた。彼女に向かって右腕を差し出すと、がっちりと爪で抱え込んで姿勢を安定させた。

 彼女の定位置たる俺の肩へと腕を引いてエスコートすると、右肩の上へ移動して体を摺り寄せ甘えてきた。艶やかな羽毛を撫でながらウィルマの姿を探すと、水辺に沈めた獲物を引き上げようとしているところだった。


「お疲れ様です、ウィルマ。これは熊ですか? 大物ですね」


「ありがとう、シュウ。ええ、スカーレットがこいつ最大の武器を奪ってくれたので、簡単に仕留められました」


 そう言って彼女が指さした辺りを見ると、何やら巨大な腕らしきものが転がっている。だまし絵じみて見える巨大過ぎる腕を見て、絶句しながら問いかける。


「なんかアンバランスに腕が長くないですか? 頭の大きさと違いすぎている気がするんですけど……」


「そうですね『手長熊』ですから。スカーレットが存在感を隠さずに森へ入ると、『忌み猿』や小動物たちが逃げ出すので、安心して狩りが出来るので助かります」


「あー、そんなの居ましたねえ……」


 かつて食用可能な植物を求めて分け入った際に、コンラドゥスを襲った奇妙な猿を思い出す。音もなく樹上から襲撃してくる猿には手を焼いたものだが、スカーレットが居れば遭遇しなくて済むらしい。

 大手柄を立てた娘を撫でながら、切断された腕を眺めると鋭利な断面は炭化して白い骨が覗いている。何をどうすればこれほど太い腕を切断できるのか判らないが、スカーレットは見事やってのけたらしい。

 ウィルマの作業を手伝って、水中に沈められたネットで包んだ枝肉を引き上げる。ウィルマの指示で切断された腕ともども、『カローン』の傍へと先に転送した。


「良く動く部位は美味しいと言われますし、あの巨大な腕を動かす広背筋辺りは上物なんじゃないですかね?」


 俺がウィルマへと問いかけると、彼女は少し考えながら答えてくれる。


「捌いた感じだと、首から肩にかけての僧帽筋と肩を覆う三角筋、あまり動かさない後肢の腿辺りも良さそうでしたよ。臭いもそれなりに強いでしょうから、煮込み料理なんかが良さそうです」


 俺は地妖精に貰ったトマトをスカーレットに与えながら、ウィルマと熊肉のシチューの味付けについて雑談し、残渣を埋めて片付けを終えると砦へと帰宅した。

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