第235話 北の地にて

 王都から遠く離れた人類生存圏の北限、アエスタース公ヒエロニムス公爵の領地は周囲を山に囲まれた盆地に存在した。

 ヒエロニムスとは英語で言うところのジェロームであり、キリスト教の聖人の名でもある。『聖なる名と共にあるもの』という意味を持つ。

 王の信任厚い縁戚であり、病床の王に代わって宰相を務め、王都に於いて比類なき権勢を誇っていた。そう、過去形だ。彼は窮地にあった。


 彼が敬虔なる楽園教の信徒であることは有名であり、グレゴリウス枢機卿の後援者としても知られていた。

 彼は国教である楽園教の枢機卿を擁することで派閥の長となり、宰相まで上り詰めたことに満足しており、今回の王都騒乱は寝耳に水の出来事だった。

 彼が王都に残してきた子飼いの部下からは、王の帰還とグレゴリウス枢機卿の破門、枢機卿を匿うアエスタース公領への派兵という急転直下の報告が齎されていた。

 ことがここに至っては、彼に残された方策は二つしかない。即ち、王を敵に回して戦って、万に一つの勝ちを拾うか、グレゴリウス枢機卿一派の身柄を差し出して助命を嘆願するかである。


 アエスタース公領は天然の要害であり、領内に籠って防戦を続けるのならば、万の軍を相手取ったとしても容易に負けはしない。

 しかし、負けないことが勝利に繋がらないのは自明の理。救援の当てもなく籠城などしようものなら、いずれ干上がるのは火を見るよりも明らかだった。

 ヒエロニムスからすればグレゴリウスを法王に据え、自身は新たな王を補佐することで、政治と宗教の両面から国を牛耳ろうと考えていた。

 唯一の誤算は、グレゴリウスが過ぎた野心を抱き、最早取り返しのつかない大事件を引き起こしてしまった事だった。


「今からでもグレゴリウスを差し出せば、公爵家は騒動に関与していないと申し開きは出来るだろうか……」


 彼は苦悩しつつ絞り出すようにひとりごちた。


「それは出来ない相談ですな、閣下。そして既に手遅れです」


 誰も居ないはずの自室に、彼以外の声が響く。


「まさかこの期に及んで私を裏切ろうとなさるとは、公爵閣下ともあろうお方が実に情けない」


 いつの間に室内に入り込んだのか、緋色の法衣を纏ったグレゴリウス枢機卿が応接椅子に腰かけていた。


「貴様、グレゴリウス! どうやって入り込んだ! 私が窮地に陥っているのも、全て貴様の失態が招いたことではないか!」


「なるほど、ごもっとも。しかし、他者はそうは思いません。そして先ほど当地を訪れた降伏勧告の使者を殺して、死体を王都へと送りつけたところです」


「なっ!」


 余りの事に絶句して二の句が継げない公爵に対して、尚もグレゴリウスが言い募る。


「閣下、覚悟をお決め頂きたい。公爵領にて王軍を退け、余勢を駆って王都へと攻め上り、王位を簒奪する以外に我らの勝利はありません」


「グレゴリウス…… 貴様の行動は目に余る。妙な男を拾って以来、その傾向が酷くなった。貴様には付き合い切れぬ。誰か! こやつを捕縛せよ!!」


 公爵の号令と共に、けたたましい音を立てて扉が蹴り開けられ、警備の兵士が駆けつけると公爵の周囲を固め、グレゴリウスに刃を向けた。

 敵意を向けられていながらも、グレゴリウスは一切動じることなく公爵へと問いかける。


「これが閣下のお答えですかな? 非常に残念です、貴方の政治的手腕には期待していたのですがね。仕方ない、身の内に敵を飼う訳にもいきません。名残惜しくもないですが、これにておさらばです公爵閣下」


「ふん、何を言っている。貴様を殺しはせぬ、生きたまま王へと引き渡して和睦を申し入れるとしよう。やれ!」


 公爵の声と同時に抜剣していた兵士が剣を納めた。そのまま幽鬼のような緩慢な動作で振り返り、焦点の合わない目で公爵を見つめる。

 背筋に走る悪寒から背後へと倒れ込んだ公爵が目にしたのは、公爵を守るように周囲を固めた兵士が、公爵の居た場所へと剣を振り下ろした姿だった。

 見覚えどころか、家族の顔まで知っている部下の裏切りにヒエロニムス公爵は絶叫する。


「グレゴリウス!! 貴様、何をした!?」


「何を? 決まっているでしょう。私の傀儡くぐつになって貰ったのですよ。せめて苦しまずに送って差し上げようと思ったのですが、本当に間の悪いお方だ……」


 椅子ごと背後にこけた姿勢のまま、壁際まで後退った公爵に、かつて部下だった幽鬼たちが抜き身の剣を構えて歩みよる。


「貴様! 今までの恩を忘れたのか!? この私を手に掛けると言うのか!!」


「それはお互い様でしょう、閣下。私は受けた御恩に報いるため、閣下に選択を委ねたのです。これは貴方が選んだ結果でしかない、やれ!」


 グレゴリウスの掛け声とともに、兵士が公爵へと殺到し、その刃が彼の体を貫いて壁に縫い止めた。

 栄耀栄華を極めた宰相の最期としては余りにも呆気ない幕引きであった。グレゴリウスは兵士に命じて、死体を片付けさせると公爵の執務机に腰を下ろす。

 そしてタイミングを見計らったかのように、黒い僧衣の男――フレデリクス司教――が入室し、グレゴリウスへと声を掛けた。


「公爵家一族の主要人物に対する処置が終わりました。公爵家は完全に掌握したと言えます、領民は如何しますか?」


「領民にはまだ働いて貰わねばならない。差し当たっては収穫だな。我らが来訪者殿はどうしている?」


 怜悧なフレデリクス司教の表情にはっきりとした嫌悪が滲み、苦々しい様子で報告を続ける。


「相変わらずです。騒動の際に攫った女子供を虐待し、酒浸りの生活を続けています。繰り返し申し上げますが、奴は危険です。奴には自制がありません、傲慢で貪欲かつ利己主義の権化のような男です」


「とは言え、敵方の来訪者に対抗しようと思えば、奴の手を借りざるを得ない。しかも奴自身がかの来訪者に敵意を抱いている。ぶつけあって精々共倒れになってくれれば良し、生き残るようなら処分すれば良い。監視は付けているな?」


「はい。ですが、マラキア卿亡き今では、確実に奴を止められる手練てだれが居りません」


「奴の事は一旦捨て置け。それよりも王軍に備える方が先決だ。其方そなたの読みでは、来訪者は遠征に関与しないと見たのであろう?」


「彼らは故郷への帰還を第一に動いていました。その為に王都で何かをするつもりだったようですが、政治に口を突っ込もうとはしないでしょう」


「ならば、この遠征で完膚なきまでに王軍を叩きのめし、返す刀で王都を奪って奴らと交渉しても良いと言う訳だ」


 首都を魔境へと変える程の戦力をつぎ込みながら、たった数人の来訪者にそれを覆された。これ以上ない程の完敗を喫していながらも、これほどの楽観視を続ける枢機卿の先見性の無さにフレデリクスは眩暈がする思いだった。

 しかし、実務を握っているのは自分であり、担ぐ神輿みこしは軽い方が良いと思い直したフレデリクスは、恭しい仕草で控えながら彼に話しかけた。


「私はこれより軍備の確認をしてまいります。領民への布告も含めて、早急に対処しないといけない仕事がありますので、これにて失礼いたします。また夕餉の折にご報告に参ります」


 フレデリクスは枢機卿にそう告げると公爵の執務室を辞し、足早に与えられた自室へと向かう。

 聖鎧せいがいを纏った吸血鬼ですらを下す相手だ、更なる手札を得る必要があった。楽園教で禁忌とされた経典と、来訪者の齎した外道の知識、それらを合わせて生み出した禁断魔術フォービドゥンマジックの精髄。

 最後の切り札の封印を解くべく、フレデリクス元司教は自室に設けられた隠し通路へと手を掛けた。

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