第175話 最果ての森
アマデウス・マラキアはこの世に生を受けて以来、初めて味わう感覚に戸惑っていた。
彼にとって未知の感覚。それは『飢え』。王都にて神殿騎士団長を務めるマラキア伯爵の嫡子として産まれ、何一つ不自由なく育てられた。
欲しいものは望めば何でも手に入った。故に彼は自分が飲食物に対して執着がないと考えていた。
しかし、それは間違いであった。来訪者の齎した数々の美食、中でも彼を魅了してやまないのが『紅茶』であった。
最初は酒でもないし、甘くもない風変りな飲み物という印象だった。
土産として持たされたため、礼を言うためにも飲んでみるという程度だった。やがて食事の度に口にするようになり、茶葉が底をついた今となっては欠かせぬ存在となっていた。
ただの水では味気なく、果汁入り飲料では甘くべたつく感覚が不快になる。あの馥郁たる香りと頭が澄み渡る感覚、僅かな酸味と程よい渋みが恋しい。
その状態で来訪者の昼食に招かれ、再び紅茶を供された。紅茶と共に取る食事は素晴らしく、甘みの強い菓子の後味を雪ぐ爽やかさに、己が何を欲しているのか強く印象付けられた。
何としてでも紅茶を手に入れたい。可能ならば製法を聞き出し、自領で栽培させたいとすら思う。出し殻を見れば、何かの葉を乾燥させたものだというのは一目瞭然だ。
しかし何の葉なのかが判らない。出入りの商人にも見せたが、見た事がないと言う始末。来訪者は『魔術師』が暮らす島で作られるようになったと言っていたが、その島が何処にあるか判らない。
これほどの飲み物だ。王都の王侯貴族たちにも幅広く受け入れられるとみて間違いない。これを独占できればマラキア家の福音となろう。
アマデウスは次の訪問を心待ちにしていたのだが、なかなかその機会は巡ってこなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
割り箸を纏めてへし折ったかのような乾いた音とともに、水風船が破裂したかのような奇妙な音が響いた。
「大丈夫ですか? コンラドゥスさん」
俺の呼びかけに革鎧姿の青年が無言で何度も頷く。余程恐ろしかったのだろう、無理もない。
ここは『最果ての森』と呼ばれる原生林。今も樹上から妙に手の長い猿のような動物が青年に襲い掛かり、柔道経験から踏み込み速度だけは褒められる俺が、咄嗟に猿を引き剥がし空高く放り投げたところだ。
比較的人型に近い生き物であるため、一本背負いの要領で投げ飛ばしたのだが、思いのほかよく飛んだ。高く打ち上げられ、地面に叩きつけられた死体は比較的近くに落ちている。
「シュウ。この仕留め方では肉も皮も得られません。命を奪うからには無駄にしてはいけません」
ウィルマの厳しい声が耳朶を打つ。確かに打ち上げ中か落下中か判らないが、枝に引っ掛けた毛皮はボロボロになっている。あちらこちらから表皮を突き破った骨が覗いており、肉も内臓と混じって悲惨な状態だ。
怒られて悄然としているとコンラドゥス青年が慌てて庇ってくれた。
「いえ、本当に危ういところを助かりました。こいつは『
こいつが『忌み猿』だったのか。この森に入るにあたって教えられた危険な動物の上位に位置する生物だ。その体には呪いが満ちており、傷を負わされればそこから腐り落ち、肉を喰らえば狂人となると説明されていた。
恐らく爪や牙に危険な雑菌が繁殖しており、肉には脳や中枢神経を侵す寄生虫でも飼っているのだろうと推測している。
誰も欲しがらないのなら処分してしまうのが良いだろう。ウィルマを見ると彼女も頷いていた。
「スカーレット、頼めるかい?」
俺の肩にとまったスカーレットに声を掛けると、腕先まで下りてきて『忌み猿』に向けて口から火炎弾を吐いた。
瞬時に炭化した『忌み猿』の死骸は灰となり、やがて森の養分になるだろう。スカーレットを撫でてやって肩に戻し、持ってきたチェリーを放り投げてやると嬉しそうに食べている。
「え!? 今のは何ですか!? それは魔鳥なんですか?」
あ、しまった。コンラドゥス青年はスカーレットの正体を知らない。そう言えば大陸に来てからは誰にも話していないことを思い出した。
正直に龍だと言うと狙われそうだし、ここは一つとぼけておくことにしよう。
「実は良く判っていないんです。偶然見つけた卵から孵ったのがこの子で、近くに親鳥も居なかったので。でも人懐っこくて賢いんですよ?」
俺がそう言ってスカーレットを撫でると、
俺たちが『最果ての森』に入ったのは生態系の観察もあるが、食料採取も兼ねている。既にいくつかの食料となりそうな植物を入手し、砦へと転送してある。
いくつも茸を見つけてはいるのだが、PDAで図鑑を調べても似たような茸が見つからない。未知の毒物もあり得るので、茸については随伴している兵士たちが食べたことがあるもののみを採取している。
「シュウ、あれはどうでしょう?」
ウィルマの指さす先を見ると、キウイに似た毛むくじゃらの果実が蔓からぶら下がっているのが見える。
スカーレットにお願いして蔓の先端を引っ張って貰い、俺が引き継いで強引に引き剥がす。恐ろしく長い蔓性植物で、巻き取っても巻き取っても終わりが見えない。
一本の蔓からかなりの果実が採れるので、食べられるのなら良い食料となるかもしれない。そして蔓を手繰り寄せていると別の細い蔓植物が絡まっていることに気づく。
そちらも引き寄せてみると、梢の間に姿を現したのは鮮やかな紫色の果実。外殻が割れて中身の種子を守る胎座が覗いていた。
「あ、これはアケビだ! うわあ懐かしい。子供の頃食べたなあ」
田舎育ちの俺にはこの植物に心当たりがあった。特徴的な色合いと外観に甘い香り、幼き日に山で食べたアケビのバナナに似た味を思い出す。
ウィルマは見た事がないのか、不思議そうに眺めている。まず間違いはないと思うが、調べて貰うに越したことはないので、まとめて砦へと転送した。
「意外と食料豊富じゃないですか、何故皆さんは森に入られないんですか?」
俺がコンラドゥス青年に訊ねると、彼は苦笑しつつ答えてくれる。
「それは皆さんほど強くないし、知識もないからです。命懸けで森に入り、挙句手に入れた茸を食べて一家全滅というのも良くあるので」
なるほど、リスクとリターンが釣り合っていない。それは判る気がした。村人の衣服を見る限り、例の『忌み猿』に襲われれば容易に怪我をするだろう。
そうなれば薬の無いこの世界では、患部を抉るか焼くぐらいしか治療法がない。確かに厳しいなと思っていると、遠くを見ていたウィルマが矢を放った。
何かが倒れる音がして「ピィィィ!」と言う甲高い音とともに何かが走り去る音がした。
ウィルマが向かう先についていくと、立派な角を持った雄鹿が木に縫い止められていた。首を貫く矢が、背後にある樹木に突き刺さり、逃げることが出来ない。
ウィルマはそのまま二の矢を放ち、恐らく心臓の位置を的確に射抜いた。びくりと痙攣した雄鹿は膝から頽れると息絶えた。
俺たちには何処に獲物が居たのか見つけられないが、彼女が言うには雌鹿は恐らく子持ちだから雄のみを仕留めたとのことだ。先ほどの鳴き声は鹿の警告音らしい。
彼女はマチェットを振るい、放血しつつ腹を捌いて臓物を掻き出す。中から心臓を選び出すと、スカーレットに捧げるようにして差し出す。
既に恒例のやり取りなのか、スカーレットも頷いて謝意を伝えると心臓を頂いていた。割と大きな肉の塊が、小さな体に飲み込まれていく光景はいつ見ても不思議な気がする。
そろそろ採集に狩猟とそこそこ成果があったので、鹿を砦へと転送すると帰り支度をし、ぞろぞろと連なって砦に向かって歩き始めた。
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