Banisher

雷電

地球編

第1話 発端

「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」


 真っ白い制服を着た男が一声かけた後、車輪のロック機構を解除する音が響く。

 両開きの扉が開かれ段差に乗り上げると、ガタンと大きな音を立てて室内へと搬入される。

 ストレッチャーが僅かに軋んで方向を変えると、室内に白衣を着た数人の男女が居るのが目に入った。

 ふと足元を見ると主治医の男性が不敵な笑みを浮かべながら語りかけてくる。


「今回で6回目だ、経過が良ければ退院できるぞ。もう少し我慢しろ」


 患者と主治医という関係性から見ると、やや気やすすぎる物言いだが、彼は主治医と言う以前に親友でもある。

 高校時代から共にバカをやり、社会人になった後も頻繁に連絡を取り合う仲である。


「では、これより第6回目のECTを始めます。呼吸器装着」


 主治医の指示を受け口元に酸素吸入器があてがわれた。呼吸器を支持する看護師が吸引を促す。

 数度の呼吸を経て麻酔科医が声を発する。もはや慣れてしまったいつも通りの手順。


「イソゾール入ります」


 ポンピングと呼ばれる麻酔液入りバッグを押しつぶす姿を横目に、耳元で血流が流れるようなゴウゴウという音が聞こえる。

 いつも通り恐ろしい勢いで視界が狭まり、少しの息苦しさと、かすれゆく耳鳴りを聴きながら意識を手放した。


 ――おかしい……

 麻酔は確実に効果を発揮し、意識を手放したはずなのに思考が消えない。それどころか周囲の声すら聞こえてくる。


「意識レベル安定しました。サクシニルコリン入ります」


 筋弛緩剤が投入される! 何とかして意識があることを医師に伝えなくてはと焦る。

 が、既に指一本として動かすことが叶わない。必死に目を開けようと意識を凝らすが、身体は応じてくれない。

 現在行われている作業は電気痙攣療法と呼ばれ、麻酔を施し意識を失わせた状態で、更に筋弛緩剤を投与し脱力させる。

 その状態で頭の特定部位に通電する事で、人為的に癲癇てんかんの発作を発生させる治療法である。


 なぜ意識を落とすのか? 当然激しい苦痛があるからである。

 なぜ筋弛緩剤を投与するのか? 激しい痙攣による筋肉の損傷や、食いしばりによる歯へのダメージを防ぐためである。

 つまり意識のある状態で頭に通電なんてことをされようものなら、想像を絶する苦痛を味わうはずである。


 焦りと共に意識は加速するが、それは脳波計や心電図には影響を与えないらしい。

 主治医による執行開始の指示が無慈悲に下された。


「それでは始めます」


 ――閃光――


 それは火花と呼ぶにはあまりにも激しい光の形で訪れた。

 若い頃に数々の無茶をした結果、骨折も数度経験しているが、そんなものとは比較にならない激痛が走る。

 目は閉じたままであるにも関わらず、万華鏡のように妙に色彩豊かな模様が、黒一色のはずの視界に踊る。

 一過性の痛みならば耐えられるが、引き伸ばされた時間感覚の中で延々と与え続けられる苦痛。

 声が出せるなら絶叫を上げ、身体をのたうたせて転げまわるであろう痛みが休みなくさいなむ。

 こんな痛みは人間には耐えられない。真っ白に漂白されていく視界のなか、更なる絶望が耳に届いた。


「はい、それじゃもう一回行ってみよう」


 死刑宣告にも等しい声と共に、更なる苦痛が押し寄せた。既に時間の感覚はなく音も途絶えた。

 漂白された世界には苦痛以外何も存在せず、視界は透明に――



◇◆◇◆◇◆◇◆



 ポーン。


 ザッという一瞬のノイズの後に女性看護師の声がする。


「今から多目的室にてレクレーションを行います。参加される患者さんはお集まり下さい」


 その放送を切っ掛けに意識が浮上した。ぼやける意識を必死にかき集めて目を開く。

 見慣れた病室の天井が見えた。カーテンで仕切られただけの大部屋である。

 身体に異常がないことを確かめつつ起き上がる。痛みは既になく、あれは夢だったのかとも思う。

 自分が病室に戻されている上に、周囲には誰もいない。つまりいつも通り施術は行われ、正常に終了したと言うことだ。


 ECTを行うための入院は2回目であり、既に通算18回もの施術を受けているが、一度として夢を見たことはなかった。

 いつもは耳鳴りと共に意識を手放し、目が覚めると病室に戻っているという状態だった。

 体感時間的には1分も掛かっていないと思うほど、あっけない治療のはずだったが今回だけは異なっていた。

 未だ夢である可能性は否定できないが、あれほどまでに鮮烈な痛みを伴う夢というものは、38年に及ぶ人生で一度も見たことがない。


 とは言え、これ以上考えても答えが出る事はないと思い、身なりを整えようとベッドから降りた。

 病室備え付けのクローゼットから着替えの入った鞄を取り出し、おもむろに『とある衣類』を取り出す。

 勿体ぶったが取り出したのは何の変哲もない黒の男性用下着、いわゆるトランクスと呼ばれる下着である。

 次に病衣の前をはだけると内側で固定している紐をほどき、脱いだ病衣をハンガーに架ける。

 その下から現れたのは、通常であれば中年に差し掛かる男性が身に着ける衣類ではありえないもの。

 そう『成人用紙おむつ』である。全裸に紙おむつ、このファッションが許されるのは乳幼児か老人だけであろう。


 自分の考えに苦笑しつつも紙おむつを取り外し、失禁も脱糞もしていないことを確認した後、トランクスに履き替えた。

 紙おむつを畳むとゴミ箱に捨て、普段着を身に着けていく。何回やってもこれには慣れないなとぼやきながら。


 良い年をしたおっさんが何故『成人用紙おむつ』を装着していたのかと言うと、前述のECT治療のためである。

 麻酔を施し、筋弛緩させた上での電気刺激という手順上、どうしても無意識の排尿・排便が起こりうるのである。


 このため施術前日に排便が無い場合は、下剤や浣腸をも用いて強制排便させ、その上で前日夜よりの絶飲食で施術に臨むのである。

 ここまでやっても不随意排便・排尿の可能性は排除できないため、『成人用紙おむつ』の登場と相成るわけである。


 病室備え付けの洗面台に向かい、鏡を前に軽く身なりを整えると、ECT施術後の恒例となった作業に取り掛かる。

 ECT治療は劇的な効果がある反面、記憶障害が発生しやすく、稀に記憶が戻らない事もあるらしい。大抵は数週間程度で戻るとのことだが……。

 事前に医師から説明を受けたため、それに備えて自分の半生をノートに書き留めたものを用意していた。自分の辿った人生を思い返しノートの内容と突き合わせて確認することで、記憶の欠如の発見及びその補完を試みる事を習慣としていた。

 自分のロッカーからカバンを取り出し、A4の大学ノートを取り出すとページを開くことなく目を瞑る。そして自身に対する記憶を思い出していく。


 俺の名前は、小崎こさき秀相しゅうすけ。現在38歳の中年男性である。しかも無職期間を日々更新中。

 身長178センチメートル、体重85キロ少々。だらしなく腹の出た、立派なメタボ体型である。薬の副作用という面も否めないが、自堕落な生活のツケとも言えた。


 こんな俺だが、生まれながらメタボ無職だった訳ではない。罹病前の体重は15キロほども少なかったし、大学卒業と同時に大手のメーカー系SE会社に就職してもいた。

 自分で言うのもなんだが、大学時代に電子計算機研究会という仰々しいサークルの会長を務めた経験もあってか、入社と同時にメキメキと頭角を現し、一躍若手期待の星として注目を集めた。

 今となっては懐かしい2000年問題特需があり、資金繰りに余裕のあった会社は俺に期待した。新しい事業創出としてプロジェクトを興し、そのプロジェクトのリーダーを任せるという、新人にはあり得ない大抜擢を受けた。

 俺はその期待に応えて、次々とプロジェクトを成功させていった。


 数年も経つと俺と、俺が率いるプロジェクトメンバーだけで会社の売上の4割を占め、利益に至っては5割に手が届くかという状況になっていた。

 絵に描いたようなサクセスストーリーであり、立志伝中の人物と持てはやされた俺は調子に乗っていた。足元が見えていなかったのだ。

 ただ誠実に、懸命に努力さえすれば、全ての物事は上手く運ぶ。そして仲間やお客さまにも感謝され、自身も更なる栄達が果たせると考えていた。


 未来はバラ色に見えていた。しかし、そうは問屋が卸さない。世の中は、他人の成功を我がことのように喜ぶ善人だけで構成されてはいないのだ。

 入社8年目にして社長から直々に課長昇進の打診があった。30歳を目前にして管理職入り。今思えば、これが運命の分岐点だったのだろう。


 『出る杭は打たれる』の言葉通り、女性管理職として登用されていた女性課長からの執拗な嫌がらせが始まった。

 予算は削られ、人員を引き抜かれ、プロジェクトは万年人手不足のデスマーチが常態となった。メンバーは櫛の歯が欠けるように、一人また一人と倒れていき、その悪循環に歯止めが利かなくなっていた。

 如何に努力しようとも改善できない状況と、心と体を壊し、虚ろな目で辞めていく部下を救えなかった無力感から、心が折れて不眠を患った。

 最終的には仕事中に血を吐いて倒れ、病院へと緊急搬送されるまでに至った。


 会社に多大なる貢献をしていたためか、暫く休職して回復を図り、その後復帰して欲しいと慰留されたが、最早会社を自身の居場所と思えなくなり職を辞した。

 一時はうつ病から失声症にもなり、薬の副作用か肥満、ED、対人恐怖症の治療に8年を要して今に至っている。


 かつて付き合っていた女性にも職を失った途端に振られ、女性不信が加速した。

 今となっては復帰の目処が立たない男に付き合って、人生の最盛期を棒に振るのを嫌った彼女の気持ちも分かるようになった。


 その後は近場の病院でうつ病の治療に通院するも、投薬のみで一向に変化がないまま、6年が無為に過ぎた。

 生きる屍と化していた俺を救ってくれたのは、高校時代の悪友だった。


 患者を奪う行為は決して歓迎されないと知りつつ、裏から手を回して穏便に主治医になってくれた。

 その後は入退院を繰り返しつつも、目に見えて快方に向かっている。

 人生で最も脂が乗っている30台を棒に振ったが、田舎に帰って農業でも継ごうかと思っているのが現状だ。


 自身の現状認識とノートとを照らし合わせ、記憶の欠落がないことを確認していく。程なく問題ないと納得してノートを仕舞い、洗顔しようと鏡に向かった。


 ――ズキンッ――


 突然目も眩むような凄まじい頭痛が走った。立っていられなくなり、洗面台にもたれ掛かり激しく嘔吐する。何回もECTを受けたが、こんな症状は初めてだった。

 ナースコールの紐を引くべきかと考え、顔を上げた。


 最初に覚えたのは違和感。先ほどまでの自分の顔と何かが違った。すっかり輪郭が丸くなってはいるが、毎日見慣れたはずの顔に異常があった。


 黒。


 それもまるで闇を凝縮させたかのような、底の見えない黒い穴が、左目の辺りに存在した。

 いつも見慣れた黒瞳の眼球が存在せず、全く光を反射しない完全なる漆黒で眼窩が塗りつぶされていた。


 にも関わらず視界は明瞭であり、右目を瞑っても左目を瞑ってもしっかり見える。

 そしてあろうことか、両目を閉じても左目の視界が閉ざされず、鏡に映った『両目を閉じた自身の顔』が見えた。

 いよいよ脳がおかしくなったのかと思い、ナースコールの紐を引きながら意識を手放した。

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