第八十三話 ツゥレフ上陸 1/3

 アプリリアージェは今まで感じた事のない不思議な感覚に戸惑っていた。それはスノウの首筋に当てた懐剣を通して伝わってくるように思えたが、そうではないことを確信していた。

 背後から抱きつかれ、その首筋に懐剣を当てられたモテアの少女が動揺しているのは懐剣など介するまでもなく体全体でそれとわかる。だがスノウは動揺し、体を強ばらせつつも暴れることはなかった。アルヴのスノウとダーク・アルヴのアプリリアージェでは体格差が大きすぎる為に抱きつくというよりは背中にしがみついていると言った方がわかりやすい。こう言った状況下では非戦闘員、つまり普通の人間では反射的にもがいて背中の「敵」をふりほどこうとするのが常だ。アプリリアージェはそれを想定してスノウが多少暴れてもその際に相手の首を傷つける事のないように注意は払っていた。だがその準備はスノウには不必要であったのだ。筋肉が強ばるような動きはあったものの、突然の事に我を失って暴れ出したりはせず、「動かないで下さい」と言ったアプリリアージェに素直に従っていた。鼓動が速くなってはいるが、早鐘を打つほどではない。これは相当に落ち着いていると見ていいだろう。アプリリアージェはそう判断した。

 だが不思議な感覚の出所はスノウではない。


 スノウを左右から守るようにしているクシャナとイブキに緊張が走っているのもエーテルの動きでそれとわかる。だが緊張しながらも、同時に彼らがそれなりに落ち着いている事もアプリリアージェにはわかるのだ。

 これも原因ではないだろう。

 スノウ達が落ち着いているのはアプリリアージェの懸念である精霊陣で自分達が優位に立っているのか、あるいは強化ルーンを纏った上でアプリリアージェに対峙したからなのか?

 おそらくそのどちらかであろうとアプリリアージェは考えていた。だがそれでもその場の雰囲気はアプリリアージェにとって未知のものであるという違和感は拭えなかった。スノウ達がルーンで守られて居るであろう事は織り込み済みだからだ。


 ほんの一瞬の間にアプリリアージェの頭の中ではそんな考えが高速度で展開していった。

 そして一切動きのないまま一秒程度が経過した頃に、アプリリアージェの鼻腔を花の香りがくすぐった。そしてこちらは既知のものであった。

(これはモクセイ?)

 独特の甘い香りがスノウのものだとすぐに気付いたアプリリアージェは、香りの記憶を辿り始めた。三人の動きにほとんど全ての注意を払っているにもかかわらず、それは無意識、そして高速に行われた。

 アプリリアージェがその香りに出会った場所を思い出すのに要した時間はほんの数秒であっただろう。無意識が見つけ出した答えに意識の一部が介入しようとした時、視界に白い雪のようなものが掠めた。

 もちろん雪ではないことは感覚が先に結論を出した。そして目を懲らすまでもなく、それが花びら……街道の脇に自生する針葉樹からの落花である事を認識した。今まで落花には気付かなかったことから、風が吹いた為だろうと、アプリリアージェはこれもほとんど意識の外で自動的に納得していた。

 意識が向かなかったのは、スノウのモクセイの香りも、アプリリアージェが名も知らぬ木の豆粒のような花弁の落花も、違和感の原因ではないと判断していたからだ。


「おい。絶対に動くんじゃないぞ、スノウ」

 イブキのその言葉が、スノウが右腕を上げようとした事に対する制止であることはもちろんアプリリアージェは理解していた。スノウはイブキの言葉に素直に従い、動きを止めた。

 それを確認したクシャナがアプリリアージェに声をかけた。それはアプリリアージェの予想通り極めて落ち着いたものであった。

「できればこの場で我々は血を一滴も流さずに収めたいと思っています。この願いは共通のものだと私は認識しているのですが?」

「言っときますが、ホントに俺達丸腰なんですよ、司令。だからここで司令がスノウの喉を掻き切りつつ水平の雷でも打とうものなら俺達は一瞬であの世行きですよ」

 イブキはクシャナの後を継ぐようにそう言ってお手上げだという風に腕を少し上げると両掌をひらひらと振って見せた。

 目を細めてそんなイブキを見つめるアプリリアージェにクシャナが続けた。

「我々の考えが甘いとおっしゃるのなら覚悟はできています。ですが我々はともかく、スノウの命だけは助けてもらえませんか? 五体満足でお返ししないとさすがに格好がつかないもので。いちおう、護衛をすると言ってミリア様に啖呵を切ったもので。その辺り、お察し下さい」


 クシャナもイブキも、共にアプリリアージェがよく知る男達である。だからその二人の今の言葉には、何も裏などない事もよくわかっていた。

 つまりどうしてもアプリリアージェが行くというのなら、丸腰の我々二人を倒してから行けという事である。だが彼らは元上官であるアプリリアージェと命のやりとりをする事は放棄するというのである。それは彼らにとってのアプリリアージェが、まともに戦って勝てる相手ではないという意味ではなく、絶対に戦いたくない相手なのだと叫んでいるのと同義であった。少なくともアプリリアージェにはそうとしか思えなかった。

「さらにお叱りを覚悟で付け加えるなら、我々は司令には長生きしていただきたいと思っています」


「ふふふ」

 ややあって力ない笑いがアプリリアージェの口から漏れてきた。クシャナとイブキはハッとして小柄なダークアルヴの表情を読もうと試みたが、アプリリアージェは顔を伏せたままであった。

「私はいったい何をやっているのでしょうね」

 クシャナには、そう言うアプリリアージェの口元に歪んだ笑いが見えたような気がした。そしてそれは彼が知る限り、苦悩による自嘲によって引き起こされる表情であり、少なくともアプリリアージェのそんな表情を見るのは初めてであった。

「ついこの間も同じような事をして叱られたばかりだというのにね」

 アプリリアージェはそうつぶやくと顔を上げ、スノウの背中をポンっと押し出すようにしてその反動で高々と跳躍し、元いた位置まで戻った。スノウの首筋に当てられていたはずの懐剣は既に手にはない。つまりつい今し方牙を剥いた猛禽は、もうどこにもいなかった。彼らの前にいたのは、微笑を湛えて頼りなげに立つ小柄なダークアルヴの娘であった。


「見苦しい所をお見せしました」

 そう言うとアプリリアージェは空を見上げた。

「司令……」

 たまらずクシャナが声をかけた。

「これほど惨めな道化を演じるのは生まれて初めてです。穴があったら入りたいとはまさにこういうことを言うのでしょうね」

 そう言って自嘲する元上官に、クシャナもイブキもかける言葉が見つからなかった。

 アプリリアージェはそんな二人に優しく微笑みかけた。

 わかっていたのだ。

 クシャナにもイブキにも、殺意いや敵意など全くないことを。

 そして同様に彼らもわかっていた。スノウを殺める気など、アプリリアージェには毛頭無かったことを。

 だからこそあの一見すると緊迫した場面にも関わらず、そこに流れる空気が妙に穏やかだったのだ。それもそのはず、絵面的にどうであれ、そもそもそこには命のやりとりに関する出来事など存在しなかったのだから。

 不思議な感覚の正体はそれであろうと思われた。

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