第七十三話 エルネスティーネの亡霊 4/4
「いや、ちょっと待ってえな」
それまでダーレとエイルのやりとりを黙って聞いていたエルデが初めて口を開いた。
「訳あってウチらは色々と情報を掴んでる。今の話、聞いとったら、あんたら、そのサミュエル・ミドオーバに填められたっちゅう事やろ?」
そうだ、とエイルもうなずいた。
サミュエルは自らがバードを統べる立場を得る為に、一番の障害となるであろうダーレを「売った」と考えるのが妥当であろう。
ダーレが言うように力が拮抗していたというのであれば、アルヴの国と言われるシルフィードはデュナンのサミュエルではなくアルヴのダーレを選んだに違いない。サミュエルもそれをわかっていたから、ダーレをどうやって失脚させるか虎視眈々と狙っていたのではないのか?
もちろん証拠はない。だがエイル達が知り得たいくつかの情報、アプサラス三世の変死の件、ザルカバード文書によるル=キリア抹殺計画、本物の王女であるエルネスティーネを王宮から追い出し、自らのそばには変わり身を置く計画をずいぶん以前から練っていた件、ハイデルーヴェンに現れ、エルネスティーネ達を確保しようとした「息子」カテナの存在。それは新教会とのつながりを示すものでもあった。
そして今だ。
エッダ政府を正式なものとし、ノッダの玉座にあるイエナ三世を「代わり身」と糾弾する者こそ、サミュエル・ミドオーバその人だからだ。
だが、ダーレとロトラ夫妻はエルデの指摘にも穏やかに微笑んで顔を見合わせただけであった。
「おそらく、あなたの仰る通りでしょうな」
「どういうことや?」
全てを知っていてなお、彼らはサミュエルに感謝し、彼の行動を認めるという。デュナンではない、他ならぬアルヴである彼らがだ。
「この件についてサミュエルと語り合う機会はありませんでした。これまでも、そしてこれからもそんな機会は訪れないでしょうな。だが我々には彼が悪い事をするとは思えないのですよ、瞳髪黒色のやんごとなき姫よ」
エイルとエルデは顔を見合わせた。
それはもちろんダーレがエルデを「やんごとなき姫」と、ある意味見破っていることに対して驚いたのではない。自分達を「売った」サミュエルを高く評価している事についてである。
「彼には理想がある。その理想を現実の物とする為には全ては必要な行動だったのでしょう」
「全て……って、前王暗殺の嫌疑もか?」
エルデの質問にダーレは当然のようにうなずいた。
「アプサラス三世陛下は、サミュエルが求める理想の国を任せる器としては役に立たなかったのでしょうな。そんな事はサミュエルは最初からわかっていたでしょう。アプサラス三世陛下は偉大な王であらせられる。それもサミュエルはよくわかっていた。だがそれはアルヴの王としてであって、サミュエルが理想とするファランドールの王としてではなかったのですよ」
ダーレはそう言うと、初めて寂しそうな顔をした。
「とは言え、アプサラス三世陛下とはもう一度食事を共にして語り合いとうございました」
「ちょっと待ってくれ」
何もかも受け入れてしまっているようなダーレに対して、エイルはある種の憤りを覚えていた。
理屈ではない。何かが違う。何が違うかはわからないが、それでもダーレの考え方に共感は出来なかった。
だが、共感できない最たる理由の一つはわかっていた。
「だったらネスティも、いやエルネスティーネ王女が死んだのも仕方がなかったって言うのか? サミュエルってやつが陰謀を働かせなければ死ぬことはなかったんだぞ? なのにあんた達はネスティの遺体を黙って受け取って、墓をつくって、それでもよかったって思っているのか?」
理屈が通っているとは言い難いエイルの言葉には、しかしながら強い一本の思いがあった。言葉の一つ一つを貫く思いだ。
「なぜエルネスティーネは死なねばならなかったのか?」
結果としてではあるが、直接手をかけてしまったのはアキラ・エウテルペである。それはエイルもわかっていた。だがそれは事故であって、エイルの中ではそこに至る経路を作ったのはサミュエル・ミドオーバその人に違いないのだ。
今聞いたダーレの口調からは、前王アプサラス三世とダーレの仲は、単なる国王とその守護にあたる上級バードという間柄を越えた繋がりがあると知れた。それはエルネスティーネとエイルの間にも当てはまる関係だ。
だがエイルはダーレと違ってその原因を作ったサミュエルを「大義の人」だという目で見ることなどできなかった。
アキラにさえ……この次会った時に自分がどんな反応をとるか、想像もできないのだ。理屈ではわかっていても、感情がそれを受け入れる事を拒否している。それが「若さ」であり「大人ではない」というのならば、大人を嫌悪するしかないとエイルは思った。
だがそんなエイルの思いさえ、老神父とその妻は受け入れた。
「そうですね。でも一つだけ確かな事があります」
神父の妻ロトラはエイルを優しく見つめるとそう言った。
「確かな事?」
「ええ。死んだ者は生き返らない、という事です」
穏やかだが、それはきっぱりとした口調だった。
「まだ息がおありであったなら、我々はもちろん、自らの命を捧げてもエリー王女をお助けするべく手を尽くしたでしょう」
エルネスティーネを王宮時代の愛称で呼ぶロトラはそう言うとそっと目を伏せた。
「王女の生誕時には既に我々はこの森の住民となっており、私達はエリー王女には直接お会いしたことはございませんが、前王陛下の王女となれば我らの思いは一つです。ですが……」
初めて対面した王女エルネスティーネは、既に息がなく、彼らに残されたのは篤く弔い、生涯かけてその墓を守る事だけであった。
ロトラとダーレの言葉に嘘はなかった。少なくともエイルはそう思った。エルデの表情をみやったが、その黒い瞳に疑惑の色は見えなかった。
それはつまり、彼らが見たエルネスティーネが幻であったという事を肯定しなければならないという事である。
あれほど生々しい存在が幻だとは未だに思えなかった。それが毒の霧による幻影効果に依るものであったとしても。
話はようやくミリア・ペトルウシュカに移った。
「あの男は王女の亡骸を、他の誰にも利用させてはならないと考えたのです。だからこそこんな老いぼれ夫婦の元に運んできたのでしょう」
ダーレの言葉にロトラがうなずく。
「ここならば、静かに眠る事ができます。少なくとも我々の命が尽きるまではその墓の周りに花は絶やしませんし、退屈でしょうが我らの話を聞いてももらえましょう。この戦争が終わり、もしその後の世界が穏やかなものであるならば、ふさわしい場所へお移りになるべきでしょうが、それまではここが王女の居場所です」
食事が終わるとロトラは墓に供えるものを用意するとかで後から行くと言うので、エイルとエルデは、ダーレに誘われて先にエルネスティーネが埋葬されているという場所へ向かった。
教会から少し歩くと森になった。だが迷いの森特有の薄暗くてじめじめした不快な森ではない。木もまばらで、だから昼星の光が地面に届いている。
緩やかな上り勾配を少し歩くと小川があった。石伝いにその小川を渡った先に、ちょっとした草地があり、そこにはキンポウゲの花が咲き乱れていた。
エイルとエルデはキンポウゲ畑の中心に丸い石が埋め込まれているのを見つけた。石の表面は平らで滑らかに磨かれており、そこには見覚えのある桜花のクレストが刻まれていた。
エイルはそれを見て体中の力が抜けたようにその場に両膝を突くと無意識に空を見上げた。迷いの森とは思えぬような清涼な光が、そんなエイルに降り注ぎ、両頬を伝う涙に反射した。
「ネスティ……」
その名をつぶやくと、エルデはクレストが刻まれた石にそっと掌を当てて目を閉じた。そしてゆっくりと手を離すと肩を落とし、その場に突っ伏すようにして泣き声を上げた。
その石の下に一人の少女が確かに眠っていることを、エルデは確認したのである。そして亜神としての驚くべき感覚が、エルデにその少女が誰であるのかを教えてしまったのだ。
それはすなわち二人が見たエルネスティーネが幻であった事が、疑いようのない事実になった瞬間であった。
「どうされました?」
少し離れたところで声がした。
キンポウゲ畑に座り込むエイルとエルデの様子を眺めていたロトラが、となりの少女に声をかけたのだ。
「私は……行きたい」
アルヴのロトラと並ぶ少女は小柄で、頭の先がロトラの胸に届くかどうかであった。緑の瞳と少し尖った耳先からアルヴィンだとわかる。
そのアルヴィンの少女のくぐもった声を聞いたロトラは顔を曇らせた。
「ここで穏やかに時が来るのを待つ事を、我々はお勧めいたしますが」
ロトラは少女に敬語を使っていた。それは二人の関係を示す一つの手がかりではあった。
「かならず争いが起きます。それは大勢の人々が死ぬという事なのですよ」
悲しそうなロトラの声に、しかし少女は意見を変えなかった。
先ほどより少しだけ明瞭な声でこう答えた。
「それでも……私は……彼と……彼らと……行きたい」
ロトラはため息をついた。それは優しいため息で、批難が混ざった苛立ちのため息ではなかった。
「生きている人間は、歩み出す力があるから生きていると言えるのでしたね」
少女は既に旅装束を身に纏っていた。つまりロトラは彼女の答えを聞くまでもなく、その決心を知っていたのだ。だがロトラはそれでも、ここに留まっていて欲しいと願ったのだろう。
「そのままのお姿で行かれますか? それとも」
「元に……戻して……ほしい」
ロトラはうなずくと、少女の長い金髪を後で一つに束ねた。
そして既に用意していた黒い面を手渡し、少女がそれを顔につけるのを合図に、頭にそっと手を置くと小さな声でルーンを唱えた。
ロトラと少女の話し声は誰の耳にも届いていなかった。ルーンがかけられていたからだ。だがロトラがその場で使ったルーンには、エルデが即座に反応した。
ハッとしたように後ろを振り向いたエルデが、そのまま息を呑む音が聞こえた。
「どうした?」
異変に気付き、エルデの視線を追って首をひねった。そうして同じ視界を捉えたエイルも、エルデと同様に息を呑んだ。
二人の視線の先……そこには身長が相当に違う二人の人間がいた。
背が高いアルヴの老女はロトラ。そしてもう一人の小柄な人物は、アルヴィンかダークアルヴか……。
だがエイルとエルデはその人物がアルヴィンであると知っていた。
声を失った二人が、自らの声を取り戻し、異口同音に叫んだ名前は、折りからの風が草を撫でる音に混じり、その旅装束のアルヴィンの元へ確かに届いた。
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