第七十三話 エルネスティーネの亡霊 3/4

「あの金目男!」

 エルデの目は大きく吊り上がっていた。もちろん怒りの表情である。

「やっぱり罠を仕込んでたっちゅうんか」

「わっはっは」

 エルデの怒りもどこ吹く風といった風に、神父は機嫌良さそうな笑い声を上げた。

「なに、勝手に開こうとするととんでもない臭気が発生して、ちょっとした霧が発生するだけですよ」

 神父はおかしそうにそれだけ言うとまたもやわっはっはと声を上げて笑った。

「霧の成分を吸いこんだら、体中の筋肉がしばらく弛緩してその場でうごけなくなるところでしたよ。あなたたちは約束を守れる信頼の置ける人達だということです」

 笑う夫の代わりに、神父の妻がそう捕捉した。

「いやいやいやいや」

 エイルは背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 とんでもない臭気だけでも想像するだけで悶絶死しそうなのに、全身の筋肉が弛緩などしたらそれこそとんでもない状態になる事は想像に難くない。

 言葉などしゃべれないのは当然で、上も下もいわゆる垂れ流し状態になるのはまだマシなほうだ。そもそもその言葉が本当なら心臓が動かなくなるはずなのだ。つまり、その霧を吸いこんだら死ぬということである。強化ルーンをかけていれば防げる可能性はあるが、そもそも迷いの森では常時ルーンが使えるわけではない。かけていたつもりで剥がれていたりすればそれで終わりである。何しろ頼みの綱のエルデもセッカも、筋肉が弛緩していてはそもそもルーンを唱えられないからだ。


「冗談……ですよね?」

 エイルはそう答えるのが精一杯であった。ミリアがそれほどのものをわざわざ作っているとは思えなかった。

 だが……。

「いやいや、本当の話ですよ。なぜなら」

「なぜなら?」

「その書簡に霧の精霊陣を施したのはこのワシですからな」

 神父はそう言うと、またおかしそうにわっはっはと笑い声を上げた。

 笑い事ではないとはこの事である。

「だがもう心配は要りません。ささ、開けて中をご覧なさい」

「そう言われても……」

 手にした書簡を見つめながらエイルは怖じ気づいていた。今の話を聞いてはいそうですかとすぐに開けるだけの勇気が無い。

「まったく」

 エイルの横でため息が聞こえた。続いて短いルーンが詠唱され、光る精霊陣の帯がエルデを中心に空中でぐるぐると回転した。エイルにはもう見慣れた情景であるが、そうではない者がそこにはいた。

「これは」

 それを見た神父の笑いが止まった。

「まさかあなた様は……」

 笑顔が消えた神父は、その顔に初めて恐怖の表情を浮かべてエルデを見つめた。だがエルデはそんな神父をチラリとも見ずに隣にいる連れ合いに声をかけた。

「念のための強化ルーン完了。開けても大丈夫やで」

 エルデは頷くと、書簡の封を解いた。蝋で封印された紐を強く引っ張ると羊皮紙で出来た書簡はするすると開いた。


「これは?」

 そこには何やら文書が書かれていたが、目を引いたのは一番下に描かれていたクレストであった。エイルはそのクレストの持ち主を知っていたのだ。

 白い四連野薔薇のクレスト。

 ペトルウシュカ公爵家のそれである。

「お墨付き、やな」

 エイルのすぐ隣で書簡をのぞき込んでいたエルデがそう言った。

「お墨付きって、あの?」

 エルデは頷く。

「アキラが持ってたヤツと同じや……いや、同じやない……って、これは?」

 思わず顔を上げたエルデの視線に、神父のそれが絡んだ。

「お察しの通り。公爵符としては特別中の特別、最上位のものです」

「ペトルウシュカ公爵からあなたたちへの、旅の報酬ですよ」

 神父の妻がそう告げた。



********************



 神父はダーレ・バルクールと名乗った。妻の名はロトラ。

 バルクール夫妻は驚くべき事実をエイル達に告げた。

 自分達はかつてシルフィード王国のバードであったというのだ。

 しかもサミュエル・ミドオーバとは同僚であった。

 ロトラも上級バード、つまり高位のルーナーであったが、ダーレはさらに上の存在であったという。

 もともとダーレは、サミュエルと次期バード長を競う程のルーナーであったのだ。妻ロトラの言葉を借りるならば、ひいき目なしで実力ではサミュエルよりも上であったという。

 だがバード長になったのはサミュエルであった。理由は簡単で、ダーレは前バード長が勇退する前に失脚していたからである。

 失脚というのは正しくはないかもしれない。ダーレは自らバードの位を捨て、エッダの王宮から逃走したのだ。

 理由を問うエイルに、ダーレは複雑な微笑を浮かべると妻のロトラを見やった。ロトラは優しく微笑み返すと夫の手をとり、そっと撫でた。


 シルフィードのバードには厳格な規律があった。言い換えるならば様々な禁忌が存在しており、ダーレとロトラはその禁忌に触れたのだという。

「簡単な話です。シルフィードのバード同士は男と女の関係になってはならないのですよ」

 まるで食事をする前には手を洗わないといけないと諭すような口調でロトラがそう言った。

「結界は私の得意技でしたし、二人の逢瀬は誰にも気付かれない自信はあったのですがね。でも発覚してしまった。サミュエルはそんな我々を逃がしてくれたのです」

 逃がした、というのは他でもない。その禁忌に対する罰は耐えがたいものだったからだ。

「掴まったらまず舌を切断されるのよ。二度とルーンを唱えられぬようにね」

 それがバードの掟なのだという。

「申し開きが出来ないように、との意味あいもあるがな」

「それって」

 弁明すら出来ず一方的に断罪される事にエイルは当然のように理不尽さを感じた。だが国の中核を担う者として、それは当然のことなのだと当たり前のようにダーレは言った。

「お若いの。あんたは物事を一面で捕らえすぎる。理不尽だと憤慨する気持ちはわかる。だがそれは甘えた意見だと言う見方もある」

「でも」

 エイルの価値観では理解できなかったが、ダーレもロトラも、バードの「掟」そのものに対しては間違っているとは思わないと言う。

 国を統べる者が個々人の都合をいちいち勘案していては成り立たないのだという意見はエイルにも理解はできる。だが、それでいいはずがないという思いのほうが強いのだ。


「全ての人間が幸せになる方法などないのさ」

 ダーレが諦念からそう言っているのではないことはエイルにもわかった。人の上に立ち一つの国をまとめ上げる為には、あまりに少数の意見や都合をいちいち聞き入れていては何も出来なくなるだろう。もちろん取り入れることでより良くなる方策もあるだろうが、右だという人間と左だという人間が妥協案として中央の道を選ぶ事は難しい。

 それができる人間がいれば、今こんな戦争が起こる事はなかったのだ。

 エイルの理想、いや多くの人間……それは歴代の王や指導者達を含む……が理想とした事は、未だに誰も成し得ていない。

「だがな、若者よ」

 ダーレはそれでも理想は尊いと言った。

「不可能と決まったわけでもない。そうさな、様々な価値観や思惑の違い、もしくは同じ思惑の者同士が居るからこそそこに争いが生まれる。そして憎しみ合い殺し合い、新たな憎しみを生み、それがさらなる人の死を招く。だから結局一度は圧倒的な力によって世界は一つになる必要があるのかもしれん」

 それが今の大戦で成されるかどうかはわからない。だがそうなったほうがいいと思っている人間は少なくないのではないか? 

 ダーレはそんな話をした後で、話題をさらりと自分達の話に戻した。

「回りくどい話をしたが、我々はサミュエルに依って助けられた、いや生かされたという事だ。感謝しても仕切れぬ」

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