第七十三話 エルネスティーネの亡霊 1/4

 ワイアード・ソルで軍人アプリリアージェ・ユグセルが再稼働を始めた頃、エイルとエルデ、そして一匹の黒猫はまだ「迷いの森」にいた。

 とは言え森を巡る旅はそろそろ終わりを迎えようとしていた。

 ミリア・ペトルウシュカから指定された場所、すなわち目的地にようやくたどり着いたのだ。

 しかし目的地と思しき古い教会を目前にして、一行の足は止まっていた。


 その日は朝から深い霧が出ていた。

 露出している岩盤を水平方向にくり抜いた洞窟を野営地にしていた一行は、その場所でしばらく様子を見ていたが、空が明るくなりはじめたのを合図に歩き出すことにした。

 十メートル先は白い闇だったが、足元、つまり獣道のような街道の様子はなんとか見える。

 二人と一匹はゆっくりとした足取りで、しかし気持ちは逸りつつ、目前に迫った指定場所への距離を縮めていた。

 濃い霧が出る度に、エルデは懐から粉薬を取り出してエイルと黒猫に与えた。もちろん自らもそれを嚥下する。

 それは解毒剤であった。もちろん「毒の霧」の話を聞いたエルデが処方した特別な薬である。

 フィンマルケン・ノールとアリキヌ・ミステル……いやハーモニー・エッシェから詳しくその話を聞き、エルデなりに毒の成分を想定したものの、実際にどれほどの効果があるのかはわからない。

 だが少なくとも彼らはその日まで一度も毒に冒されたという自覚を持つことなく無事に旅を続けていた。

 だが……。

 足を止めた一行は、目的地を文字通り目前にして、実は既に毒に冒されていた事を自覚することになった。


 昼星が南中する頃に霧が晴れた。

 と同時に一行は突然深い森を抜け、ぽっかりと空いた広場のような空間に出ていた。

 霧が消え森を抜けた彼らがそこで目にしたのは、昼星の力強い光が溢れんばかりに降り注ぐ草原であった。久しぶりに浴びる昼星の光は彼らの視界を一瞬だけ白い闇で覆った。

 一行は目を閉じて腕や手で光線を遮ると、こんどはむせ返るような草の匂が充満した空気で肺を塞がれたような錯覚に陥った。

 苦しくはない。

 だがそれは普段感じた事のないほど濃厚なもので、匂いの感覚がないエルデは別にして、エイルとセッカはたちまち咳き込んだ。

 程なく戻った視力が捕らえたものは、様々な濃淡の、ありとあらゆる緑色であった。

 一面の草。

 圧倒的な繁茂。

 つまり一行は伸び放題の草の海で漂流していたのだ。

 そして視線を上げれば、少し離れたところに建物を捉える事ができた。

 草原の向こうにある古びた石造りの教会は、まるで緑色の海に浮かぶ要塞のようであった。

 教会の向こう側には背の高い糸杉が何本もあり、建物に適度な影を作る役目と風を軽減する使命を負って立っていた。

 教会の壁には蔦が絡まっていて、それは手入れもままならぬのか伸び放題のようだ。

 つまり……一見するとその教会は廃墟に思えた。


 だが彼らが立ち止まった理由はその景色に見とれたからではない。

 その廃墟のような教会の壁にもたれるようにして立ち、空を見上げている少女を発見したからだ。

 少女は小柄で、遠目には子供に見えた。

 腰まで届く長い金髪と白い肌を持っている事はすぐにわかった。

 さらに目を懲らすと、その整った顔がわかった。

 髪の間から、少し尖った耳の先が見える。

 そして空を見上げるのは緑色の瞳。

 純血のアルヴィンであった。


 アルヴィンの少女が纏っているのは寝間着か下着か、ともかく膝まであるゆったりした透けるように薄い布の服だ。

 少女は、エイル達に気付いている様子はない。

 後ろ手に組んで壁にもたれ、ぼんやりとした表情で虚空を見上げる少女の姿は、エイルには一幅の絵に思えた。そして既視感のある光景だと思った。

 それはすぐに記憶の中の素描画と重なった。

(あのデッサンだ)

 迷いの森で最初に投宿した宿の主人が大事そうに壁に掲げていた素描画を完成させるとこうなるに違いない。

 エイルはそう確信していた。エルデもそれに気付いているはずだと確信していた。

 だが……。

 同時にこうも思っていた。

(これは都合のいい幻なのだ)と。


 誰も声を出さなかった。

 エイル達が立ち止まった理由は、その少女が美しかったからではない。

 侵しがたい雰囲気をまとっていたからでもない。

 彼らは皆、当然ながら同じものを見ていた。

 だが、誰もそれを信じられなかったのだ。

 混乱していたと言い換えてもいい。

 とにかくその少女は、彼らにとって、そこに居てはいけない少女であった。

 エイルとエルデが呆然と見つめる視線の先で、その一幅の絵は動いていた。

 木漏れ日に揺れて昼星の光がアルヴィンの少女の薄い服の上を走り、草の海原を撫でてきた風が服の裾と髪を少し揺らした。

 

「ネスティ……」

 一行が凍り付いていたのはどれくらいであったろう。

 誰も覚えていなかった。

 だが、最初にその少女の名をつぶやいたのはエイルだった。


「ネスティ!」

 二度目は大きな声で、つまりその少女に届くように叫んだ。

 エイルの声は確かに少女に届いた。その証拠に空に向けられていた少女の視線がエイルに移動したからだ。

 少女の顔がこちらを向いた。

 紛れもない、エルネスティーネ・カラティアという名を持つ、要するにエイルやエルデがよく知る少女がそこにいた。


 エイルが重ねてその少女の名を叫ぼうとしたその時、体が宙に浮きそうな程強い風が正面から一行を襲った。

 思わず目を閉じて体を低くしてその突風をやり過ごし、一行が再び目を開けた時、エルネスティーネの姿はもうどこにもなかった。

 隠れる場所などない。彼らが目を閉じていたのは文字通り一瞬だった。教会の裏側に隠れるほどの時間すらなかったはずだ。


「幻影っちゅうやつか? いや、そんなはずは」

「全員が同じ幻影を見るもんか」

 エイルはそう言いながら駆けだしていた。エルデがそれに続き、少し遅れて黒猫も走った。もちろん教会の裏側を確かめるためだ。

「あり得へん」

 エルデが走りながらそう言うのを、エイルは聞き流した。その通りだが目の前にいたのはエルネスティーネ以外の何者でもないのだ。

「あれはネスティやない」

 だが、エルデは続けた。

「髪が長かったやろ?」

「そっちかよ」

 だがエイルは心の中で肯定した。エルデの言うとおりだ。わずか数ヶ月であれほど髪が伸びるわけがない。

「ルーンとか?」

 エイルはしかし、可能性を捨てられなかった。

「そうかもしれんけど……でも、ウチは確かにこの手で……」

 この手で全てが終わった事を確認したのだと言いかけて、エルデは口を結んだ。


 一行はすぐに教会にたどり着いた。

 申し合わせたかのように裏側に回る。

 しかし心地良い風が渡るだけで、当然のようにそこに人影はなかった。

 エイルとエルデはうなずき合うと、今度は教会の玄関へ回った。

 もしあの少女が幻でないのなら、残された隠れ場所は教会の建物の内部にしかない。


「おやおや。ここに人がやってくるのは実に珍しい」

「あらあら。しかもピクシィですよ、それも二人も」

 ノックもせずに扉を開け放った一行は、その声で凍り付いたように足を止めた。


「怖がらずにお入りなさい。教会は全ての人に、常に開かれているのですから」

 暗さになれるのにしばらく時間がかかったが、中の様子がおぼろげながら見えるようになった一行は、誘われるままゆっくりと薄暗い教会の中へ歩を進めた。

 いわゆる田舎町の教会の作りである。

 入り口を入るとそこは礼拝堂で、正面に演壇がある。演壇の後ろは板で覆われており、その壁の左右に扉があった。

 左右の扉の奥はおそらく二階建て方式の住居のはずだった。

 外観から予想した通りであれば、駐在神父の住居と教会が一体になった典型的なもののはずだからだ。

 一行は礼拝堂を一通り見渡し、そこに金髪緑眼のアルヴィンの少女は存在しない事を確認した。

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