第七十話 一陣の風と幽霊 3/3
なぜかいつもより早く目覚めたクレムラート将軍こと、ティルトール・クレムラート陸軍中将は、自ら珈琲を淹れると、寝室として使っている天幕の中で一人、その香りをゆったりと楽しんでいた。
戦場ではあるが、戦闘は始まっていない。そもそも本当に戦闘が行われるのか? という状況なのだ。従ってある意味で平和な朝であった。
だからこそ一軍を率いる身でありながらも朝食前に珈琲を楽しむだけの余裕があったのである。時間的にも、そして精神的にも。
しかし、彼のその「いい時間」は長く続かなかった。
突然断りも無しに、誰かが彼の寝室である天幕に転がり込んできたのだ。
「お、落ち着いてお聞き下さい」
少尉の証票を付けた副官の一人が、開口一番そう言った。
当然の反応として、ティルトールは持ち前の大声で部下を叱責した。
「ばかもーん!」
「ひいい」
副官はあまりの大声に耳を塞ぐとその場で尻餅をついた。
「いいか、サリナー少尉。俺には今のお前に落ち着けなどと言われる筋合いはこれっぽっちもない。ささやかな朝の楽しみを邪魔するな」
「大音声(だいおんじょう)のティルト」という二つ名を持つティルトールは、文字通り辺り全体に響き渡るような声でそう続けた。
普段は自分に対して「アンデル」と呼びかけるこの将軍が、階級付けの族名で呼びかける時は不機嫌な時だということを、サリナー少尉は認識していた。つまり今、自分はとんだヘマをやらかしたのだという事をようやく理解したのである。だがそれはいわゆる「後の祭り」というものであった。
「わかったら出直してこい、このウスノロめ。珈琲の後で気が向いたらお前の話を聞いてやってもいい。約束はせんがな」
「で、ですが」
食い下がろうとするアンデル・サリナー少尉に「やかましい、出て行け」と一喝すると、ティルトールは腰の片手剣の柄に手をかけた。
哀れなサリナー少尉は、小さな悲鳴を上げると、思わず三歩ほど後ずさった。
「ゆ、ゆ……」
「ゆ、だと? 湯が欲しいのか、んん?」
後ずさるサリナーに対し、ティルトールは一歩踏み出し、剣の柄に手を添えたままでサリナー少尉をにらみ据えた。
そこへ第三の人物の声が響いた。
「幽霊が出たのですよ、将軍」
ティルトールは剣の柄から手を離すと、ゆっくりと声の主を振り返った。そこにはニコニコと笑いかける長身の女アルヴが立っていた。サリナー少尉と同じ、ティルトールの副官であるスウェヴ・イヴォーク少佐その人であった。
イヴォーク少佐は、かわいそうなサリナー少尉をちらりと見やると小さく肩をすくめてみせた。
「幽霊だと?」
「ええ。私もこの目で確かに見ました」
ティルトールは幽霊ではなくティルトールに怯えているサリナー少尉をまじまじと見つめた。
「シルフィード陸軍の尉官ともあろう者が幽霊ごときであそこまで怯えるなど考えられん」
「彼があそこまで怯えるのも無理はありませんよ、将軍」
「ふん。同じものを見たお前は全く怯えておらんではないか。女のスウェヴが平気で男のアンデルがこの世の終わりのような顔をしているとは、何というか嘆かわしいのう」
「将軍」
イヴォーク少佐は目を細めると低い声でティルトールに呼びかけた。
「女だから……何ですって?」
「あ、いや……」
ティルトールは頭を掻くと視線をイヴォーク少佐から外し、左手に持ったままのカップから、冷め始めた珈琲を一気に喉に流し込んだ。
「アンデルの弁護代わりに、その場に居合わせた全ての兵が彼と同じか、彼以上の反応を示した、と報告しておきましょう」
「ふむ」
ティルトールは決まり悪そうな表情でそう答えると、空になったカップをテーブルの上に置いた。その上で、努めて渋い顔を作りながらイヴォーク少佐に向き合った。
スウェヴ・イヴォーク少佐は長い金髪を無造作に後で束ねた姿でティルトールをじっと見つめた。
隻眼の猛将軍、ティルトール・クレムラートは後世に於いて人気がある軍人の一人である。豪放磊落な人柄と、何より武力を前面に押し出した闘い振りがその人気の理由である。その見るからに猛将然とした容姿と「大音声のティルト」という二つ名が、絵の題材としてもうってつけなのであろう。事実、彼を題材にした絵は非常に多い。
文字通り勇壮な戦闘の情景を描いたものが大半だが、中には彼の人柄が偲ばれるほのぼのとした絵も存在する。
中でもとりわけ人気があるのが、美しいアルヴの女性にご機嫌をとるかのように頭を掻きながら腰をかがめている情景を描いた絵だ。国立戦史博物館の本館二階の常設されており、誰でも見る事ができるのでご存じの向きも多いはずだ。そう、あの「副官と将軍」という表題の絵である。
ミリア・ペトルウシュカの複製画で有名になった近世の画家、アプフェル・マクスター作とされるこの絵に描かれている武将がクレムラート中将であるかどうかはわからない。だがその特徴ある隻眼と頑丈な体躯、さらには一緒に描かれている女アルヴが金髪緑眼、髪は無造作に後で一つに束ねた女将校である事から、ティルトールとスウェブの二人であろう事にあえて疑問を投げかけるような人間はいない。
腕を組んで上官をにらみ据えるスウェブ・イヴォーク少佐と、イタズラが見つかった少年が母親に許しを請うように小さくなっているティルトール・クレムラート中将が描かれたその絵は、二人の関係をある意味で如実に表現した暴露絵とも言えた。
資料によればイヴォーク少佐は女扱いをされるのが何より嫌いな性格であったらしい。女性が苦手だとされるティルトールは、時折不用意に苦手意識の裏返しともとれる女性蔑視の発言を口にする事があり、その度に烈火のごとく怒り狂った副官、すなわちスウェヴ・イヴォーク少佐に叱責されていたとされる。
しかしイヴォーク少佐は、もちろんただの怒りっぽい女軍人ではない。この時代のシルフィード王国軍において、名軍師の一人として名高い人物である。
沈着冷静で戦況の先読みに長け、何度となくクレムラート軍の危機を救ったとされている。
「ごほん」
それまでの雰囲気をいったん帳消しにするかのようにわざとらしく咳払いをすると、ティルトールは軍隊式に直立姿勢をとり、副官であるイヴォーク少佐に言葉をかけた。
「話を聞こう。いったい何があった?」
イヴォーク少佐は唇の端で小さく笑うとこちらも陸軍式の敬礼をとった上で、この騒動の核心について言及した。
「単刀直入に申し上げます」
「幽霊の話に単刀直入もくそもあるか」
ムッとしたティルトールの軽口をスウェヴは無視した。
「単刀直入に申し上げます。『笑う死に神』が将軍に面会を求めております」
その言葉にティルトールは大きく眉を動かすと、そのまま吊り上げてみせた。
「スウェヴ、冗談も休み休み……」
「冗談ではありません、クレムラート中将。それとも、ここまで馬鹿馬鹿しい冗談を私が言うとでも?」
「いや……しかし」
「副官の言うことを信じなさいまし、中将」
ティルトールの言葉を大声で遮るように、スウェヴは続けた。
「本当に、本物なのです、将軍」
天幕の中に沈黙が訪れた。
五秒、十秒……。見開かれたティルトールの目が細くなった後、その口が開くのに、それからきっかり一分の時間を要した。
「今、どこに居る?!」
自失から我に返ったティルトールは二人の部下に怒鳴った。
その問いかけに対し、答えたのはスウェヴでもアンデルでもなかった。
「ここに居ますよ、クレムラート少将」
ゆったりとした涼しげな特徴のある声。
ティルトールはその声を聞いただけで、その人物は本物だと確信していた。
「あら。ごめんなさい。確か昇進して今は中将になられたのでしたね」
女の声であった。
それはティルトールの横合いから聞こえた。
反射的に顔を向けたその先には、短めの黒髪が特徴的な、小柄な少女が、軽く首を傾げるようにして微笑んでいた。
褐色の肌、緑色の瞳。少し垂れた目が優しそうな表情をつくっていた。
その蕩けそうな微笑の主……ティルトールの瞳に映った旅装束のダーク・アルヴは、彼がよく知る人物……しかもティルトール・クレムラートにとっては極めて特別な存在……すなわち紛う方無きアプリリアージェ・ユグセル海軍中将その人であった。
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