第七十話 一陣の風と幽霊 2/3

「ここいらでいいだろう。窮屈な思いをさせて悪いな」

 小型の馬車の御者席からフィンマルケンが声をかけた。

 すぐ後の荷台の一部を覆っていた濃いねずみ色のブランケットがもぞもぞと動き、中から二人の人間が顔を出した。

「でも、本当にいいのか?」

 続いてフィンマルケンが尋ねる。

「だってこの馬車、四人も乗れないしね。オレ達がこうしてやっとって感じだし」

 答えたのはエイルだ。大振りなブランケットを二回ほど畳むと、抱きかかえるようにして前に座っているエルデの前にかけて風よけにしてやった。

 二人はちょうど小型の橇に無理矢理に乗り込むような態勢で座っていた。ハーモニーの家までの道中もそうやって座っていたので、エイルの一連の動きは手慣れたものだった。そしてその足元には黒猫が丸くなっていた。


 エイルとエルデはハーモニーの代わりに「虹屋」の役目を買って出ることになった。夜に出発する予定だったが、早い方がいいというエルデの希望と、色々と落ち着いて考えをまとめたいというハーモニーの思惑が一致した結果そうなったのだ。小さな虹をいくつも出す方法をハーモニーから伝授されたエルデは「わかった。問題無い」と胸を張ってその役目を引き受けた。

 伝授といっても、ハーモニーが小さな虹を作り出す様子を一通り見ただけである。ハーモニーは「お礼に私から二人に祝福を」と、エイルとエルデを並ばせて、小さな虹を出して見せた。

 思い切りを付けてくれたエイルとエルデの夫婦の幸せを祈って、ハーモニーなりに精一杯の感謝の気持ちを表したつもりであった。

 一方でエイルとエルデの立ち会いにより略式の婚儀を挙げたハーモニーだが、同時に【白き翼】の名に於いて正教会の賢者会を破門されていた。つまり名目上【秘色の鞦韆】は「逃亡者」ではなくなったのだ。

 そもそもそんな権限を持つ賢者が存在するのかどうかもハーモニーにはわからなかったが「黙って『ハイ』とだけ言うとったらええんや」という強引な【白き翼】の言葉に従っただけなのだが、どちらにしろハーモニーには「悪いようにはしない」というエルデの言葉を信じるしか道はなかった。

 また、エルデは破門の儀式らしいものも行った。

 精杖を黒いスクルドに変えた上で、エルデは少し時間を掛けてハーモニーに何やらルーンを唱えていた。ルーンが終わっても外見上なんの変化も見られなかったが、エルデを軸にして回転する例の光の帯が複数発生していたので、何らかの複合ルーンがかかっていたのは間違いなかった。もっともエイルもフィンマルケンも儀式上かけられたルーンの内容について訊ねようとはしなかった。門外漢である正教会の儀礼などどのみち聞いてもわからないと考えたからだ。


「しかし、何度も言うが、あんたらには感謝しても仕切れないな。本当にありがとう」

「いいって。エルデは自分がやりたい事をしただけさ。オレもそんなエルデに賛成しただけだしね」

「そう軽く流さないでくれよ。何しろこっちにとっちゃ一世一代の大事なんだぜ」

 フィンマルケンはそう言って頭を掻くと後を振り向いた。

「あれ、美人の奥さん、又眠ってるのか?」

 目を閉じたままでエイルに抱かれるように座っているエルデを見て、フィンマルケンが心配そうな声をかけた。

「うん。さっきまでは意識があったんだけど」

 エイルの声は平静を装ってはいたが、多少なりとも不安の色を隠せないでいた。

「ああ、虹の件なら大丈夫だよ。ルーンが使える地帯なら問題無いから」

 エイルはそう言うと足元の黒猫をみやった。

「いざとなったら奥の手があるんだ」

「いや、そっちはいいんだが……」

「大丈夫だ。今回は体が温かい。たぶんすぐに目を覚ますと思う」

「そうか。お前さんがそういうなら」

 エイルの言うように、確かにエルデの顔色はいい。症状の出方に何種類かがあるのだろう。そう考えたフィンマルケンは、意識を前に向けた。

 その時だった。

「おおっと」

 フィンマルケンは驚いた声を上げると、手綱を引いて馬車に制動をかけた。つんのめるほどの急制動ではなかったが、それでも突然の事でエイルはエルデを抱えながら荷台から落ちないように必死に体を保持した。

「どうしたんだ?」

「人がいる……」

 フィンマルケンの言うとおり、エイルにも前方に二人の人影が佇んでいるのが見えた。

 いつの間にか薄く霧が出ていたようで、フィンマルケンは徒歩でこちらに向かって歩いている二人組の発見が遅れたのである。

 だがフィンマルケンと二人組が対峙していたのはほんの数秒だった。彼らは登場した時と同じように、フィンマルケンの目の前から忽然と姿を消したのだ。

 いや、それは錯覚だった。

 エイルの目には馬車の両脇を高速度で走り抜ける人影が見えた。そしてまさに一瞬だが、そのうちの一人と目が合った。違和感を持ったのはエイルと目が合った男の表情が変わったように思えたからだ。


「あれ?」

 目の前に現れた二人組が消えた事で、フィンマルケンは軽い混乱に陥っていた。だがその状態は長く続かなかった。エイルの一言が目の前で起こった現象の辻褄を合わせてくれたのだ。

「通り過ぎていったよ。突拍子もない速度で」

 エイルのその言葉に信憑性を加えるかのように、そのすぐ後に一陣の風がフィンマルケン達を通り過ぎていった。

「風のフェアリーか。この辺りはエーテルがあるんだな」

 フィンマルケンは自らが持っている知識と常識でたった今体感した非常識を塗り替えようと必死だった。

「あるいはルーナーかもね」

 エイルはそう言いつつ足元の黒猫に顔を向けた。しかし等の黒猫は首を左右に振るだけであった。見覚えがないのか、わからないのか。

 フィンマルケンは小さなため息を一つつくと、手綱を持ち直して並足で馬車をゆっくりと進め始めた。霧のせいで狭くなった視界に対応するように。


 そのすぐ後にエルデがエイルの頭の中で目を覚ますと、エイルはいきなりエルデが振ってきたハーモニーとフィンマルケンの話題に意識を奪われ、出会った二人組の事をすっかり忘れていた。

 エイルが彼ら……始末屋と呼ばれる二人の賢者の顔と名前が、通り過ぎた二人組と一致する事に思い至ったのは、無事に虹屋の代行を終え、別れを惜しみつつフィンマルケンに大きく手を振り、新たな集落へ向けて歩き出した数日後の事であった。

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