第六十三話 餞(はなむけ)の効果 4/5

 とりあえず「面倒はごめんだ」と告げた宿の主人は、自分のその一言が極めて面倒な事を生じさせる鍵になってしまったことをおぼろげに自覚し始めていた。そして同時に理屈など一切抜きに、自分と相手との間にある「差」を当たり前のように受け入れてしまっていた。要するにそれ以降、宿の主人はエルデのいいなりになったのだ。

 エルデといえば、その後は宿の主人に脅しを賭けるような真似は一切しなかった。もっとも宿の主人の平身低頭ぶりを見ればエルデも自分が少々やり過ぎた事を自覚したのであろう。


 どちらにとっても幸いと言っていい事が一つだけあった。その「事件」を目撃した人間はその場に居た三人と一匹だけであったのだ。

 エルデがあれほど派手な立ち回りをしたのはもちろん、周りに誰も居ない事を確認して及んだ行為である事は想像に難くない。相当頭にきていた事は確かであろうが、その「発露」方法はその場その場にふさわしいものを冷静に選べるのがエルデのエルデたるところであろう。

 そういう切り口で吟味するならば、むしろエルデがあの「暴力系」の選択をしたことは宿の主人にとっては幸運だったのかもしれない。周りに人が居た場合、宿の主人だけを狙った精神的な「攻撃」が行われた可能性があるからだ。

 もしそんな事になっていたなら、それはその先の宿の主人の人生に心の傷として深く記憶されるに違いなかった。テーブルをたたき壊す暴力事件程度であれば「ちょっと乱暴な客が無茶をした事もある」くらいで済むだろう。そもそも宿の主人は怪我一つしていないのだ。それどころか大もうけをしたと言える。

 エルデが叩きつけた四枚の金貨は通称「エスタリア大判金貨」と呼ばれるもので、その純度と重量からファランドールでも最も価値のある金貨の一つとされていた。ウンディーネで一般的に流通している標準的な金貨の十倍の重さがあり、純度の差もあって金額に直した価値としては十五倍とも二〇倍とも言われている。

 月の大戦中盤は経済が混乱していて単純な貨幣価値を求めるのは困難であるが、少なく見積もってもエスタリア大判金貨一枚でざっと五千エキュ程の価値はあったであろう。すなわちエルデは吹っかけられた一千エキュというとんでもない宿代に対して大判金貨二枚、つまり要求額の十倍、一万エキュ相当のものを叩きつけた上で不興を表明した挙げ句カウンターを破壊。直後にその弁償としてさらに一万エキュを支払ったことになる。

 もっとも、怖じ気づいた宿の主人は四枚のうち三枚をエイルに「釣り」として返していた。さすがにそのままだと「何かある」と勘ぐったのであろう。

 もちろんエルデ達にとっては詫びを入れられた上での返還に異論は一切なかった。


 名前からある程度の想像が付くように、エスタリア大判金貨はミリアから手渡された「道中に必要になるもの達」と称する小さな巾着の中に入っていたものだった。金貨の数はなんと二十枚。一瞥してそれを突き返そうとするエルデに対し、ミリアは用意してきたような理由を告げて受け取りを拒否した。

 つまり「それを受け取るのも条件の一つ」というものだ。


「ボクの予想じゃ、その中に入っているのは『迷いの森』で必要になるものばかりだよ」

 エスタリア大判金貨の他にはドライアドで最も流通している金貨が二十枚、加えて銀貨が二十枚入っていた。

 不機嫌そうな顔のエルデにミリアはさらにこう付け加えた。

「念のためにというか、君達のために言っておくけど、金貨はともかくその巾着を粗末に扱ったら叱られるからね」

「叱られる?」

「その巾着を作った人にだよ。恐いんだ、これが」

 エルデはそう言われて巾着を検(あらた)めた。裏側だけを見ていたのだろう。反対側に白い四連野薔薇の刺繍があった。

「君たちに持ってってもらうんだって、今朝に間に合うように一生懸命作ってたんだよ。彼女の顔と、ついでにボクの顔を立てるつもりで、ここは素直に収めておくれよ」

 エルデはその仕上げの精細さを吟味するようにしばらく刺繍の糸に沿って白い指を這わせていたが、やがてミリアの顔を見ずに訪ねた。

「これを作ったのは、ひょっとしてモテアの娘なのか?」

「へえ……」

 小さく感嘆の声を上げたミリアの眉がぴくりと跳ね上がったのをエイルは見逃さなかった。エルデのその問いかけは意外だったのだろう。少なくともまったく想定もしていなかったに違いない。

「わかった。これは報酬の一部として受け取っとく」

 ミリアの答えを待たずエルデはそういうと巾着を大切そうに懐にしまった。


「初日から預言通りに役に立ったというか、なんというか……」

 そんな事を思い出しながらエイルはエルデが手にしている薄桃色の巾着を見つめていた。

「冷静に考えると、これだけあったらちょっとした家買(こ)うて商売始められるな」

「ええっと、フォウだとどれくらいの価値になるんだ?」

 エイルは俗な考えだとは重々承知しつつも巾着の中の「カネ」の価値を自分の価値観と比較せざるを得なかった。

「一エキュがだいたい八十から百ドルとして……」

「ドルというのがフォウの通貨単位か?」

「フォウは基本的に国ごとに通貨単位が違うからな。だから十や二十じゃきかないんだ。でもドルは一応、世界標準の通貨単位と言っていいかもしれないな」

「ふーん。言葉も通貨も国毎に違うとか、信じられへん。フォウっちゅうのはホンマにめんどくさい世界やな」

「だな」

 通貨どころか度量衡が基本的に統一されているファランドールしか知らないと、フォウという世界が異常に思える。エイルもそろそろそんな「ファランドール側」の価値観にかなり染まりつつある自分を感じていた。

 エスタリア大判金貨二十枚、ドライアド金貨二十枚、ドライアド銀貨二十枚、それはフォウの貨幣価値に照らし合わせても相当なものだという事はわかった。しかしさすがにフォウでは「ちょっとした家」と「商売」の資金として潤沢であるとは言い難いものであった。

 しかしファランドールではいわゆる土地と家はフォウのそれよりも相対的に安い。それも「かなり」である。

 少なくとも既存の店舗を買い取り、住居兼店舗として出発するならば、ミリアから託された巾着の中身で十二分にまかなえるだろう。


「商売か……」

 エイルのつぶやきにエルデが反応した。

「この金貨を使うのは別問題やけど、二人で商売を始めるのもええかもしれへんな」

 話題自体もそうだが、エルデの目が久しぶりに無邪気に輝いているのを見てエイルは嬉しくなった。

「そうだな、確かにそれは楽しいかもな」

「そうそう。それやったらぜんざい屋、とかどうや?」

「ぜんざいや?」

「あれは美味い! 大繁盛間違いなしや。材料はほれ、ベックに言うて調達してもらえばあんじょうやってくれるやろし、あんたが厨房でぜんざいを作って、ウチが店で注文をとる……ええやん、これ」

 エルデはそう言うといきなりベッドに立ち上がった。自らの夢想に興奮した様子がありありと見えた。

「大繁盛やから、ウチだけでは切り盛りでけへんかもな。ラウとファーンにも手伝ってもらお。ファーンは可愛らしいし、けっこう人気者になるやろな。ラウは歌でも歌うてもろたらええし」


 はしゃぎ出したエルデの妄想は止まらなかった。

 店を構えるならどの国のどの街がいいかから始まり、アプリリアージェを店員に使う事の功罪に話が及んだと思うと、挙げ句の果てには店の間取りや厨房の動線にまで熱中し始めた。

「忙しくなったらオレも店に出るさ。あんまり従業員を増やすのは得策じゃないと思うぞ」

 だからエイルも釣られて話に乗る。それはエイルにとっても、思いもよらぬ楽しい時間だったのだ。

 考えてみれば夢や妄想であろうと「将来」についてそんな具体的な話を今まで交わしたことがない二人だった。


「あんたは絶対客の前に出たらアカン」

 エルデは真顔でエイルの申し出を却下した。

「なんでだよ。オレだってそれくらいできるって」

「できるとかでけへんとか、そんな問題やない」

「じゃあ何の問題だよ」

「ウチの店の売りもんは『フォウ風ぜんざい』や」

「ああ」

「想定される客層は若い女の子をはじめとするいわゆる女性客や」

「確かにまあ、そうなるだろうな」

「アカンやろ?」

「いや、だからなんでだよ」

「アンタは美人に弱い」

「はあ?」

「アンタがウチ以外の女に見とれたら、ウチはたぶんくびり殺して……」

「待て待て待て待て」

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