第六十三話 餞(はなむけ)の効果 1/5

 言葉だけでなく実行を伴う。

 アプリリアージェとはそういう人物だという事をもう、エイルもエルデもよく知っていた。だから二人が「迷いの森」に足を踏み入れた時、共がエイルの肩に乗る黒ネコが一匹だけだったとしてもそれは驚くにはあたらない。

 とはいえ、予想通り二人の会話は弾まなかった。

 だから数分おきにエルデが小さなため息をついても、それは無理もない事だとエイルは思っていた。だがそれを快く思わない存在がそこにいたのもまた事実であった。


「いい加減にしなよ。さすがに鬱陶しいよ」

 その言葉はエイルの肩に乗った小さな黒い物体から発せられたものだった。

「黙れ。そんでもってさっさとウチの視界から消え失せーや」

「おやおや」

 黒猫賢者【月白の森羅(げっぱくのしんら)】ことセッカ・リ=ルッカとしても、エルデの脊髄反射のような憎まれ口は想定していた。だが言葉の内容とは裏腹にあまりに覇気の無い口調に拍子抜けしたようで、軽く肩をすくめて見せた。


「それにしても」

 森に足を踏み入れてからこっち、エルデがため息と憎まれ口しか耳にしていない事に気付いたエイルは、話題を「迷いの森」そのものに変えた。

「本当に霧が深くなってきたな」

 エイルの言うとおり、この先が迷いの森だと呼ばれる地域に入った辺りから、あからさまに霧が出た。ブナの一種と思われる広葉樹の巨木に支配された森は、ただでさえ昼の太陽光を地面に受けにくい。だが地面に障害物がないかというとさに非ず。シダ類や嫌光性の低木、同様に暗くとも育つ種類の草に覆われていて、歩きにくい。ただでさえ暗くて足元がおぼつかない道を歩かねばならないのに、その視界を塞ぐように霧が発生すると、息まで消沈してしまう。迷いの森はまさに旅人の気持ちをくじく要素に溢れていた。


「ああもう。こんな事ならセレナタイトをいくつか持ってくるんやった」

 イライラのエーテルをまき散らしながらそう愚痴るエルデの声にいつもの艶がない。霧が声のある種の成分を吸収しているかのようだった。

 霧が出てすぐにエルデは精杖ノルンを取り出して頭頂部にはめ込んだ複数のルナタイトを灯し、それを逆さに持って足元の視界を確保しようと試みた。

 エイルはその時初めて霧というものは足元付近には発生していない、いや発生していても極めて薄い状態にあるという事を認識した。具体的には膝より下は霧の濃度がかなり薄いのだ。もちろんエルデは霧の特性を充分知っていたからこそ、そうやって足元を照らしたのだ。しかも光をいたずらに強くするのではなく、拡散させていた。


「なるほど」

 それを見てエイルは感心したようにそう言った」

「ん?」

「そういやフォグランプってそういうものだったよなって今、気付いた」

「ふぉぐらんぷ?」

「フォウでは車にそういう下部を照らす霧用の補助灯を付けて、対処しているんだ」

「ふーん」

 求められるままにエイルがいた世界、つまりエルデ達がファランドール・フォウと呼ぶ世界の車についてあれこれと説明しているうちにルナタイトが突然消えた。

 そうなるとエルデがルーンを唱えても再点灯しない。それこそが「迷いの森」の持つ非エーテル地帯の現象だったのだ。

 その後も点いたり消えたりと、極めて不安定なルナタイトにとうとうエルデが業を煮やして呪詛の言葉を口にした。

 ルーンで制御されるルナタイトとは違い、セレナタイトであればエーテルの影響をうけない。空気さえあれば、いわゆる「エア」であっても光り続けてくれるのだ。消費型であるがこういう場合はありがたいと言えた。

「夜の移動は絶望的やな」

「人を襲う夜行動物もいるしね」

 セッカはいくつかの動物の名前を挙げて夜の移動どころか夜間に森の中に留まる事の危険性を告げた。

「あの忌々しい男からもらった地図に集落の位置が書いてあるだろ?」

 セッカに促されてエイルは懐から迷いの森の地図を取り出した。内容は既にエイルだけでなく全員の頭の中に入ってはいたが、話し合うにはやはり視覚的に共有できる物理的なものが一番であろう。


「やっぱり朝に決めた計画通りに早めにこの集落に入って、情報収集をした方がいいよ」

 セッカが指さす最初の集落の名前はグレンズ。迷いの森の外側に近い事もあって比較的住民も多く、宿屋も存在するという。西側から迷いの森を訪れる者にとっては最初の補給地でもあった。

「ちゃっちゃと『おつかい』を終わらせたいとこやけど、思てたよりも危険やし、しゃあないね」

 エルデがエイルに同意を求めるように顔を向けた。セッカに同意する形をとるのが嫌なのだろう。あくまでもエイルとの話し合いで自分達が行動を決めた形をとりたいのだ。


「そうすると明日はここで、明後日がここあたりで宿を確保しておいた方がいいって事だよな。それだと当初の予定より二日三日遅れるわけか」

「まあ、依頼に制限時間があるわけやし。勝手がわからへんとこで妙なムリはやめとこ? それにこの地図は平面的な距離しかわからへんから高低差を想定しとかなアカンやろな」

 エルデの言うことはもっともではあった。アプリリアージェがいても同じ事を言うだろう。だがエイルは妙な焦りを感じていた。

 それは言葉に表すほど明確なものではない。感情の揺らぎのようなもので、その揺らぎの振幅は小さい。それが焦りの一種だという事が何となくわかる程度のものだ。だからできれば要らぬ作業はさっさと片付けて、当初の予定であるネッフル湖の解呪士とやらに早く会いたかった。

「そう考えると……むしろ多少の迂回を覚悟の上で、日中の移動距離をできるだけ少なくする為にこの経路で行く方がええかもしれへんよ。うん、そうしよ?」

 そんなエイルの胸の内を意に介さず、エルデはそう言ってにっこりと笑いかけてきた。


「あのさ」

 エイルは話題を変えた。

「今さら言っても意味ないんだけどさ。この謎めいた運び屋の仕事だけど、あのミリアってヤツはそもそもリリアさんに対して要請してたように思うんだ」

「え? そやったかなあ」

 エルデはあまり興味がなさそうな声で答えた。

「報酬はネスティの遺骨とか、あんまりや。そんなもん今さら見とうもないっちゅうリリア姉さんの気持ちはようわかる」

 ミリアの言う「報酬」は何物にも代えられぬほど重要なものなのは確かだが、同時に二人にとってこれほど気が滅入るものもないと言えた。

 何を思ってミリアがあの事件の現場から持ち去ったエルネスティーネの遺体を返すと言ったのか、その意図が全くもってわからないのだ。返すぐらいならば最初から奪わなければいい。そもそも何のつもりで持ち去ったのかがわからない。

 単純に考えるならば何らかの目的があったからこそ持ち去り、ミリアにとってはもう必要がなくなったから縁(ゆかり)の者に返すといったところだが、その目的がわからないだけに胸のもやもやが募るのだ。さらに言えばもしまだエルネスティーネの亡骸が違う形、すなわち火葬などでその形を変えておらずそのまま保存されていたとして、まともに対面できる自信がエイルにはまだなかった。だからこそ心がざわつく。しかし、だからと言って断るという選択肢はなかった。

 だがアプリリアージェはエイルやエルデとは違う選択をした。エイルはそれがまだ腑に落ちていない。アプリリアージェが守るべき対象はエルネスティーネではなくテンリーゼンであった事は既に知っている。だがそれでもシルフィード軍に再び身を置こうとする意思を示した人間が本来であれば、真の女王であるはずの人物の亡骸を自国民でもないエイル達に丸投げするなど、常識的に考えて妙な話である。

 少なくともエイルの価値観ではアプリリアージェはエルネスティーネに対してあまりに冷酷で他人行儀と言えるのではないか。

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