第六十二話 アプリリアージェの決心 4/4
「もう一つだけ教えてちょうだい、イブキ」
「なんでしょ?」
「ここから一番近いシルフィード軍の場所とその規模、そして司令官の名前を」
イブキはいったん向けた背中をくるりと反転させると険しい表情でアプリリアージェに問うた。
「本気なんですね?」
アプリリアージェはほんの一瞬だけその緑色の瞳をエルデに向けたが、すぐにイブキを見上げた。
「同胞に三千年前と同じ過ちを犯させたくないのですよ」
アプリリアージェの言葉の真意を、エイルとエルデは計りかねていた。もちろん「過ち」が意味するところがピクシィの大虐殺であることはわかる。だがなぜここで突然その話が出るのかがわからなかったのだ。
だが、イブキには通じていた。
「俺達の大将なら今のユグセル公爵の言葉に、きっとこう答えると思います。『あなた一人で何ができるっていうのさ』ってね」
アプリリアージェは目尻を下げた。
「可能か不可能かの問題ではなく、やるかやらないかという私個人の自己満足の問題なのですよ」
イブキはアプリリアージェの言葉に肩をすくめると、しかし嬉しそうな表情を浮かべた。
「大将と違って俺はアルヴだから、今のお言葉は心に染みました」
「それでもなお、あなたはあの人に付くと?」
アプリリアージェのその問いかけに、イブキは答えなかった。
「ここから南に約百キロの山腹にノッダの大部隊、たぶん二個師団が到着する頃です」
「ここから百キロっていうと、ワイアード……」
エイルが頭の中の地図を見ながらそう言うと、エルデが即座に反応した。
「ワイアード・ソル。フォリーム・キノと並んで一節によればマーリンの座があるとされてる有名な古戦場やな」
イブキはエルデにうなずいて見せた。
「山腹に布陣。下にある峡谷が戦場ってとこだ」
そこまで言うと。今度はアプリリアージェに向かい続けた。
「ノッダ軍は、そこでエッダ軍と一戦やらかすはずです」
アプリリアージェは眉根に皺を寄せた。
「シルフィード軍同士が戦うのですか?」
イブキはため息を一つついた。誰に対してのものかはわからない。だが彼とてかつてはシルフィードの軍人であったのだ。同じ国の兵士が戦う事に平静でいられるはずはない。
「エッダ軍がノッダ軍の呼びかけに応じれば戦闘にはならんでしょうがね、望み薄ですよ。なにしろノッダ軍と違ってエッダ軍はアルヴ系の軍隊じゃないんで」
「ふむ。だからあなたの『大将』さんは戦闘になると判断しているということですか?」
「いえ」
イブキは言い難そうに頭を掻いた。
「どっちでもいいらしいです」
「ふふ。なるほど」
アプリリアージェはうなずいた。
「確かに第三の勢力から見ればお互いに消耗してくれればこれほどありがたいこともないでしょうね」
そう言ったものの、アプリリアージェはミリアには別の腹があることも想像していた。それが所詮は局地的なとるに足らぬ戦闘であって大局から見れば小競り合いにすぎないと判断しているはずだからだ。だがシルフィードにとっては違う。この後大きな戦いがあるのは間違いない。従って今は戦力は少しでも温存しておきたいはずであろう。ただでさえ兵の数では圧倒的に少ないシルフィード軍なのだ。この期に及んで内紛により自らの身を削るのは愚の骨頂である。
だがそれをわかっていてもなお自国同士で戦おうというのであるから、今現在においてシルフィード王国はアプリリアージェの想像よりも内部的に危ういということが浮き彫りになる話ではあった。
一方でドライアドが補給に破綻を来している話はアプリリアージェも掴んでいた。だが同様にシルフィードも違う要素で足下は脆弱なのだ。
「エッダ軍を率いているのはバルナック中佐。幕僚にはあのユンカース大尉がいます。まあそっちはいいとして、ノッダの司令官の名前は聞かない方がいいかもしれませんぜ」
「この際誰でも関係ありません。もったいを付けずに教えてください」
「じゃあ言いますけど、ノッダ軍の司令官は『あの』ティルト少将です」
イブキの告げたノッダ軍の司令官の名前を聞いたアプリリアージェは、珍しい事に一瞬眉根を上げるとため息をつきつつ頭を掻いた。
「将軍の右腕のベルトレ少佐も健在です」
「『大音声のティルト』ですか……」
そう言って今度は腕を組む。
「さすがにそれは弱りましたね」
アプリリアージェのその仕草は演技や大げさな表現などではなく、自然に感情を表現したもの、つまりエイルには見た目の通り困っているように見えた。
「あの、ティルト少将ってどういう人なんですか?」
だからエイルは思わず声をかけた。もちろんティルト少将の略暦を知りたいというわけではない。アプリリアージェがその名を聞いただけで珍しく動揺を隠せないでいる、その理由が知りたかったのだ。
おそらくエルデも同じ質問を投げるつもりだったのだろう。エイルの方が少し早かったというだけだ。ちらりと目をやったエルデがエイルに小さくうなずいたのが何よりの証拠といえた。
アプリリアージェはエイルの質問にため息で答えると目を伏せた。それは答えたくないという意味で、これまたアプリリアージェとしては珍しい仕草であった。
つまり大音声のティルトとは想像以上にアプリリアージェにとってやっかいな、いや因縁がある人物であろうと思われた。そうなるとつまり、興味は嫌が応にも高まるというものだ。
「あの人……ティルトール・クレムナート少将は」
難しい顔をしていたイブキがエイルに向かってニヤリと笑いかけた。それは軽い邪気を含んだ、要するにいたずらっぽい笑いであった。
それを見たエイルは、険しい顔やにっこりとした顔も整ったアルヴの顔には似合うものだが、イブキに関してはそのいたずらっぽい笑みが最も似合うと思った。
「ここに居るユグセル公爵に婚儀を申し込んだ事があるお方だ」
「ええ?」
エイルとエルデは異口同音に小さくそう叫んだ。
「しかも、一度や二度じゃない。振られても断られても嫌がられても、会う度に求婚してくるというしつこさ……じゃなくて不変の情熱と根性の持ち主であらせられるんだぜ」
「イブキ・コラード!」
アプリリアージェが鋭く族名まで告げてイブキを制した。
「おっと」
イブキは芝居がかっておどけた顔をすると、再び踵を返した。
「そういう事で、俺は情報もちゃんと提供しましたぜ。後はご自由に」
「待て、イブキ」
大股で立ち去ろうとするその背中に、アプリリアージェは慌てて声をかけた。イブキはしかし片手を挙げてひらひらと軽く掌を振っただけでそのまま店の奥へ消えた。
腰を浮かしたアプリリアージェだったが、イブキを追いかけようとはしなかった。
「全てわかっていてここで現れた。そう言う事でしょうね」
アプリリアージェはそう言うと、椅子に深く腰をかけて改めてエイルとエルデに顔を向けた。
「ここで私がノッダではなくエッダ軍に向かうという選択肢もあるのですが」
そしてそう言うと自ら首を横に振った。
「でもそれとて想定の範囲内なのでしょうね。久しぶりですよ。こんなに悔しい気持ちになるのは」
エイルはなるほど、と思った。
アプリリアージェの言うとおり、筋書きはおそらくミリア・ペトルウシュカによるものだろう。アプリリアージェが司令官の名前を聞くのは当然だ。そしてその名前を聞いたとたん、アプリリアージェの頭に浮かぶであろう戦術……ノッダ軍ではなくエッダ軍を率いる事ができたなら、ノッダ軍とは平和裏に停戦、いやアプリリアージェの事であるからエッダ軍とノッダ軍を合流させてより強力な軍を編成し直すに違いないと読んだのだ。
そしてその思惑はその通りになった。
エイルはミリアという男が物理的に圧倒的な力を持っているだけでなく相当な戦略家である事を意識しないわけにはいかなかった。
つまり、一筋縄では勝てる気がしない相手だと再確認したようなものである。
イブキが去るのを見届けたアプリリアージェは、静かに立ち上がった。
「さて、それではお別れです」
そして右手をまずはエルデに差し出した。
「どうしても……行くんか?」
エルデの問いかけに、アプリリアージェはいつもの微笑で答えた。それはもはやこれ以上の問答は不要だという、黒髪のダークアルヴの強い意志を示す微笑であった。
「そうか」
それでもエルデの声は寂しそうな色を纏わずにはいられない。エイルも全く同様で、こちらは引き留める為の適当な言葉を探して気持ちがもがいていた。
そしていくら探してもそんな言葉が見つからない事を悟った時、エイルは小さなため息と共に目を伏せた。
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