第五十八話 父と娘 1/6
皆が自室や自分たちのねぐらに引き揚げ、大聖堂地下にある特別区画の広間に残ったのは四人だけだった。
エイルとエルデ。そしてラウとファーン。
ラウの裁定が下った後、エルデがラウに個人的な話があるからと残るように頼んだのだ。
ファーンの同席は、ラウがエルデに打診して承諾を得たものだ。
「ホンマにラウの個人的っちゅうか身の上に関する込み入った話やよ? もちろんラウがええならウチはかまへんけど」
エルデの問いにラウはためらわず頷いた。
「この子には居て欲しい。いや、聞いて欲しいから」
エルデは柔らかな微笑を浮かべると小さく頷いた。
エイルとエルデは、イオスのすすめに従ってすぐにでも「龍墓」もしくは「時のゆりかご」と呼ばれる異空間に向かう事になっていた。
「さて、ちゃちゃっと始めよか」
エルデは明るめの声を作ってそう言うと、精杖ノルンを取り出した。
全く何も知らされていないラウは、これからいったい何が始まるのかと固唾を呑んでエルデの仕草を注視した。
何しろ「込み入った話」だ。しかも「身の上に関する話」だという。もちろんエルデの態度には悲壮なものは含まれていない。ラウはそれについては安心していた。だが平静でもいられなかった。改まって場を設ける必要があるほどの話なのだから。
エルデは精杖ノルンの頭頂部をラウに向けると、平文で短くこう唱えた。
「出でよ【真赭の頤(まそほのおとがい)】いや、シグルト・ザルカ」
「え?」
ラウとファーンは異口同音に驚きの声を上げた。
もちろん、まさかここで大賢者【真赭の頤】の名を聞くとは思わなかったのだ。しかもエルデが口にした【真赭の頤】の現名(うつしな)はシグ・ザルカバードではなく似て非なる未知のものだったからだ。
ラウ達の疑問に対する答えの一つはその直後にその場に現れた。
目の前の空間に、ラウにとっては懐かしい師の姿があった。それはラウの知るシグ・ザルカバードそのものの姿でそこに立っていた。いや、立っていたのではなかった。空間に浮かんでいた。
目を懲らしてよく見れば微かに向こう側が透けて見えた。ラウは目の前のかつての師が物理的な肉体を持たない存在である事を悟った。
「悪いな、シグルト。ウチの我が儘と自己満足に少しだけつきおうてもらうで」
エルデがかけた言葉を背中で聞いたシグルトは大げさに肩をすくめたが、振り返らず目を見開いている眼前の金髪のアルヴに声をかけた」
「久しいな、ラウ。しばらく見ないうちに大きくなりおって」
「いえ、最後にお会いした時から全然変わってませんが」
「何を言っている、胸の話だ、胸の」
「な!」
ラウの顔が瞬間的に真っ赤になった。
「嫌味か! そっちも全然変わってへんわ、このスケベ師匠」
服を着ているにもかかわらず思わず古語になり胸を隠したラウだったが、小さなため息をつくと微笑んだ。
「いやまあ、相変わらずアルヴの胸は残念だのう。そっちのルーンでも会得したのかと楽しみしていたのだがな」
「まったく。師匠は全然変わってませんね。悪い意味で」
肉体を持たぬ存在ではあるが、空間に浮かぶ「それ」が紛れもなくかつての師である事を認識したラウは、憎まれ口を叩きながらも膝を突いて頭を垂れた。続いてファーンもそれに倣った。
「ラウ。あんたの父親やで。そうかしこまらんでもええんとちゃう?」
エルデがおかしそうにそう言うと、シグは今度は声の主に振り返った。
「エイル様」
「こらこら、オッサン。ウチの事をエイルと呼ぶな。今のエイルはこの人や」
エルデがすかさず文句を言うとシグルトは禿頭をピシャリと叩いて見せた。
「左様でしたな。しかし仮にも師を捕まえてオッサンとは」
「オッサンがいやならスケベジジイでもええにゃで? というか、そんな事よりエルデ・ヴァイスっちゅう名前を付けたんはシグルト、あんたやろ? まったく」
「左様。いまだから明かしますがエルデ・ヴァイスとは、とある言葉で白い翼という意味でございましてな」
「え? それは初耳やな」
「はじめて言いましたからな」
「でもとある言葉って……ウチはそんな言葉しらへんねんけど?」
「でしょうな」
「ウチが知らん言葉っていう事は存在せえへん言葉ってことと違うんか?」
「この世の全てを知る者などおらんでしょうな」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
ラウが慌てて二人の会話に割って入った。
「エルデ、今サラっとすごいこといいましたよね? 父親とはどういう意味です? それから現名がシグ・ザルカバードでないということは、師にそっくりのご親戚……いやいや、あんなハゲのスケベルーナーが何人もいるとは思えないし………あ、そうそう、それにエイルがエルデっていったい?」
「落ち着け」
「いや、それは無理というものでしょう」
「思った通りの混乱振りやな。まあ、そうでないとな」
エルデはおかしそうに声を立てて笑った。
「わざとか……」
エルデの態度にからかい成分が多いのは確かであろうが、ラウに親子の対面をさせてやりたいと常々考えていたのは確かなのである。
むしろできるだけ早くその機会を作る必要性に迫られていたといっていい。エルデはそのわけをエイルには伝えていた。
エルデによってエーテル体としてスフィア化されたにシグ・ザルカバード、本名シグルト・ザルカはにはもうさほど時間が残されていなかったのだ。
スフィア化された状態で自我を保っていられる時間には限度がある。まして現世でエーテル体として発現するとその「時間」を大幅に失う事になる。
だからシグルトの自我が意識を保っていられる間に、きちんと親子としての対面をさせてやりたいと考えたのだ。もちろんそれはシグルトが望んだことではない。エルデが自ら言ったように「自己満足」の為であったろう。だがシグ・ザルカバードの本当の名はシグルト・ザルカであり、三千年前からずっと亜神の筆頭、白のエイミイ一族に使える十二色の一つザルカの王である事を、その娘には自らの誇りでもあると知らせたかったのだ。
父と娘の会見は数十分に及んだ。
だがそれがラウにとってどれほど短いものであるかは想像に難くなかった。
「悪いが時間だ」
そう言って揺らぎ、消えてゆくザルカの王シグルトに向かい、ラウは泣きながら手を伸ばし、言葉にならない思いを伝えようとしていた。
尋ねる事が多すぎた。いきなり伝えられた未知の事柄をそのまま飲み込めるわけもなく、つまり感情がまとまるわけがない。
今まで師として接してきた、ある意味で遠い存在ともいえる大賢者が、実は自分の父だなどと突然に言われてもきちんと咀嚼できるわけがないのだ。
だから意味を成さない感情がこみ上げてくるのを押さえる事ができなかった。それが涙腺を刺激し、たびたびラウから言葉を奪うのだ。
親子としての初めての対面が、最後の会見であり、そもそも父はもうこの世にいない存在なのだ。混乱と混沌と情報の渦がわずか数十分の間にラウを翻弄し、その心を千々に乱すだけ乱して「その人」は忽然と消えた。
「本当にもう、会えないのですか?」
少しの沈黙の後で、ラウがそうエルデにたずねると、エルデは苦しそうな顔で頷いた。
「こればっかりはな。かんにんや」
肩を落とすと、ラウはエルデに頭を下げた。そして落としたその視線の先にあたる床に黒い染みが一つ生まれるのを見つけた。
「え?」
ラウは驚いて視線をエルデの顔の位置まで戻した。
自分に頭をさげているだけでなく、エルデが涙を流している事に気付いたのだ。
エルデはゆっくりと顔を上げると苦しそうな表情でラウを見た。そして形のいい唇を噛んだ跡で、静かに告げた。
エルデの「本番」は実はここからだったのだ。
それは大賢者【真赭の頤(まそほのおとがい)】ことシグ・ザルカバード、いやシルグト・ザルカが忽然と表舞台から消えた理由であった。
賢者の弟子が賢者となる為の試験「授名の儀」に臨んだエルデは、そこで見届け人となる賢者会所属の数名の高位賢者に本来の名前を知られることとなった。
一方で既にこの世にはいないはずの【白き翼】の継承者が存在する事は、エルデと、そしてエルデを匿っているシグルトにとっては絶対的な秘密であった。
おそらくシグルトはいくつかの対応策を考えていたのだろうが、今となってはわからない。わかっているのは【真赭の頤】がその場に居た見届け人である賢者全員を殺害しその場から単身逃亡した事と、逃亡は失敗し三聖【蒼穹の台(そうきゅうのうてな)】に処刑された事、そして「授名の儀」に臨んだシグルトの弟子である少女が消滅していたことである。
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