第四十九話 蛇の目(じゃのめ) 3/4
ヘルルーガは、幕僚達の中でももっとも司令官の近くに座っている初老のアルヴに声をかけた。
「サクソルン・ユーフォニアム大佐」
「は!」
ヘルルーガが部下の族名と名をその肩書き込みで総称する場合、間違いなくそれは重要な案件が告げられる事を意味していた。
サクソルンも当然それを知っていたからこそ、思わず背筋を伸ばして大きな返事をしたのである。
「千日戦争における大佐のお働きについては、私もかねがね聞き及んでおります」
「ありがたきお言葉」
ヘルルーガには「猛将」という単語がつきまとうが、その実上官と部下という立場であっても、相手の年齢が明らかに自分より上の者に対しては、礼節ある態度で接していたとされている。ヘルルーガの麾下(きか)にあった幾人かの軍人の日記などを読めば、猛将と言えど高圧的な人物ではなかったことがわかる。
もちろんひとたび戦闘に入れば、大軍を率いる司令官としての威厳ある態度を貫いていたのは間違いない。
シルフィード王国陸軍少将ヘルルーガ・ベーレントはいわゆる寄せ集めの軍の司令官という立場でその幕を閉じることになるが、その最後の幕僚の一人であるユーフォニアム大佐の日記にも、ヘルルーガの人となりの既述が多い事で知られている。
ユーフォニアム大佐は千日戦争の英雄の一人である。貴族ではなく田舎町から首府エッダに軍人になる為に体一つで上京し、歩兵からたたき上げて大佐にまで登り詰めたきた傑物である。従ってその有能さを疑う余地はないだろう。
過去の実績や名声など、様々な要素を客観的に検証しても、ユーフォニアム大佐は当時のベーレント軍における幕僚長的な立場だと目されていたに違いない。
ヘルルーガは幕僚長という立場を置かなかったが、それでも常に最も近い席をユーフォニアム大佐のものと指定していた。
自らの半生に並々ならぬ自負があった当のユーフォニアム大佐にしても、それは当然の待遇だと思っていたであろう。
サラマンダ侯国内の戦いでは、さしもの英雄も圧倒的な戦力差の前には力の出しようもなく自軍の崩壊を止められなかったが、それでも彼には矜持があった。
すなわち「名声はあれども」「後からやってきて」「残存部隊を吸収した若い女の上官」に対して、当初は手放しで恭順してはいなかったのである。
だがその思い込みは戦いを積み重ねることで解けていき、いつしか尊敬の念に取って代わった。
デュナンとアルヴの気質の違いだと言えばそこまでであるが、ひとたび自らが認めた人物に対するアルヴがそうであるように、サクソルン・ユーフォニアム大佐はその時すでに、自分の余命はヘルルーガ・ベーレント少将の片腕として捧げる事を決意していたのである。
「しかし、我が手柄は幕僚と兵の働きによるもの。私は運が良かっただけなのかもしれませぬ」
だから、素直にそんな謙遜が口をついた。いや、それは謙遜ではなく本音であったろう。彼は日記で自らが司令官の知恵袋としての幕僚という立場には力不足である事を憂いている。
「それは大佐のみならず、私にしても同じ事」
ヘルルーガはそう言って幕僚全員の顔を見渡した。
そう言われて司令官と目を合わせた幕僚達はそれぞれ小さく頷いて返した。
それを見たヘルルーガは満足そうな微笑を浮かべると、改めてサクソルンに向き合った。
「大佐の部隊制御に長けた戦術は定評があり、私も軍の図書館で大佐の過去の戦史はつぶさに読ませていただきました」
「それは身に余る光栄です」
サクソルンはそういうと頭を下げた。
「トラヴェルソ占領作戦を覚えておいでか?」
「ええ……もちろんです」
ヘルルーガが口にしたトラヴェルソとは、サラマンダ王国にかつてあった重要な補給港の地名で、ヘルルーガの言う占領作戦とは、千日戦争でサクソルン率いるシルフィード軍がそこを占拠した戦いのことを指していた。
だが、サクソルンにとってその戦いはできれば触れられたくない過去であった。だから返答に口ごもったのである。
トラヴェルソという地名に興奮し瞬間的に血圧が上がったサクソルンだが、すぐにその血が引いていくのを感じていた。
ヘルルーガがトラヴェルソの戦いに言及した意図をすぐに理解したからである。
「まさか……」
サクソルンがうめいた。
だが、皆まで言わせず、ヘルルーガはピシャリと被せてきた。
「そのまさか、だ。ユーフォニアム大佐」
「しかしあの戦いは……」
「ふむ。ユーフォニアム大佐はあの戦いをいまだに悔いているようですが、私は報を聞いた当時、軍人として大佐を心から尊敬いたしました」
「尊敬……ですと?」
ヘルルーガは真顔で大きくうなずいた。
「軍人として、自分もかくありたいものだと思いました」
二人のやりとりを聞いていたゾルムスが、その時珍しく発言を求めるように咳払いをした。
だがヘルルーガは目でそれを制した。
もちろんゾルムスが動きを見せたのは、ヘルルーガの意図に気付いたからである。自分の提言で東進が決まったまでは彼の想定通りであったのだが、ここへ来てヘルルーガがその先にある彼の想定を大きく逸脱しようとしている事に気付いたからである。
そしてその意図を止めるべく意見をしようとしたのだが、それは全くゾルムスらしくない行動であった。だが、言い換えるならそれだけゾルムスが焦っていたということであろう。
その場でヘルルーガの思惑を理解していたのはサクソルンとゾルムスの二人だけであった。だが、ゾルムスはサクソルンの理解のさらに深いところまで見通していた。
だからこそ、その場で進言をせねばと焦ったのである。
だが自分を射貫くような冷たく強いヘルルーガの視線の槍に貫かれて、出かかった言葉を呑み込んだ。
彼の上官は決心していたのだ。翻意するつもりは一切無い。
既にヘルルーガの性格を把握していたゾルムスは、もう手遅れである事を理解すると、目を伏せた。
「では、一体誰を?」
話が見えない他の幕僚達はしかし、不満を言うでもなく二人のやりとりを見守っていた。もちろん、そこにただならぬ気配を感じていたからである。
「私が行く」
予想通りの言葉ににゾルムスは頭を抱え、一方予想だにしなかった答えに、サクソルンは目を見張った。
「ばかな……なりません」
「冷静に考えろ、大佐。我々は全滅する可能性がある。それを回避する為に、こちらは最も効果的な交渉手段を用意する。それのどこがバカげていると言えるのか?」
「しかし、それでは我が軍の指揮はどうなります?」
「トラヴェルソ占領戦の勝者たるあなた以外に誰がいるのです?」
「しかし、将軍を人質に差し出すなど我らの矜持に賭けて承諾できるものではありません」
必死の形相でヘルルーガの翻意を求めるサクソルンの「人質」という言葉に、幕僚達は反応した。中にはヘルルーガの意図を理解した者もいたようで、会議の場は喧噪に包まれた。
「人質ですと?」
「馬鹿な、司令官自らが人質になるなどありえない」
「将軍はいったいどういうおつもりか?」
「ええい、黙れ!」
口々に叫ぶ幕僚達を、ヘルルーガは大声で一喝した。
「お前達の矜持とは、兵達を皆殺しにする為にあるのか?」
幕僚達をにらみ据えるヘルルーガのその時の形相は、ここへ来てまさに猛将と呼ぶにふさわしい殺気に満ちていた。
「後方の憂いさえなければ、この作戦の成功率は大きく跳ね上がる。いや、断言してもいいが、ヴォールは間違いなく我が軍の占領下に入るだろう。アダンのお膝元と呼ばれるヴォールを手に入れる事が今後の戦局に於いてどれほど重要な事かわからぬ諸君ではあるまい?」
ヘルルーガはそこでいったん言葉を切り、幕僚達を見渡した。
色めき立っていた部下達は、ヘルルーガの怒気に押され、誰も言葉を発するものはいなかった。
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