第四十八話 雨。時々絶望 3/7

 続いて懐から手拭きを取り出したエルデは、鼻水と血と涎と涙で汚れたニームの顔を拭こうと手を伸ばした刹那であった。

 次なる異変が起こった。

 それは手拭きがニームの頬に触れた瞬間であった。そのままの格好でエルデがニームの上に崩れ落ちたのだ。

「エルデ!」

 エイルは瞬間的に反応すると、エルデを抱き起こした。

 予想通り意識がなかった。いや、意識だけではない。息もしておらず、鼓動も感じられない。開けられたままの黒い瞳は、ただ空を映していた。


「何をした!」

 エルデはニームに向かってそう叫んだ。そして片腕でエルデの体を支えたまま、腰に差していた妖剣ゼプスを抜き放った。

「お前、エルデに何をしたんだ!」


 横たわったままのニームが見上げたエイルの顔は憎悪というただ一色に染まっていた。そして殺意を伴った怒りを全身に纏い、剣を振り上げているのも見えた。

 振り上げ剣が普通の剣でない事は、ニームだけでなくその場にいた誰の目にも明らかであった。

 反り返った細身の両手剣。

 エイルが振り上げたその剣は、その時真っ赤な炎を纏っていたのである。

 ニームは次の瞬間、恐怖に全身の毛穴が開くのがわかった。そしてほぼ反射的に髪に結んだ結布に手を当て、短い詠唱を唱えた。

 だが……。

 手応えがなかった。


 混乱がニームを襲った。キャンセラであるティアナの事をまだ理解していないのだろう。鳩尾から絶望がこみ上げてくるのを感じた。後ろ手に縛られた拘束が解かれているにもかかわらず、体が動かない。恐怖に支配されるとはこの事だと気付くのと同時に、一秒後には灼熱の剣が自分の体を貫く様子が脳裏に浮かび、ニームは目を固く閉じた。


「エイル・エイミイ!」

 大きな声がその場に響いた。それはただ大きいだけでなく、エイルの耳に槍のように突き刺さる強さを伴っていた。

「駄目だ、冷静になれ」

 声の主はアプリリアージェだった。いつものふんわりとした優しい声ではない。戦闘時のそれである。しかも相当に強い。風のフェアリーが持つ声の伝播の力が、実際の音量以上の効果を相手に与えたのだ。

 この場合はもちろんエイルに、である。


 エイルはアプリリアージェの声に反応して、振り上げたゼプスをピタリと止めた。

 その隙をアプリリアージェは見逃さなかった。自らの剣を抜くと、するりと動きニームを挟んでエイルと対峙したのだ。

「リリアさん……」

「その剣を振り下ろすつもりなら、全力で稲妻をぶつけますよ。この距離で私が全力を出すと、たぶんこの辺り一帯はそうとうひどいことになるでしょうね」

 エイルは唇を噛むと目を閉じてゼプスを降ろした。すると急速にゼプスの炎が消えた。

 それを確認したアプリリアージェの安堵のため息が、エイルの耳には大きく聞こえた。


「いつものあれじゃないんですか?」

 アプリリアージェの口調がいつもの柔らかいものに戻っていた。エイルはその声でようやく頭に上っていた血が下がるのがわかった。

 いつものあれとは、エルデの体調不良の事である。

 エイルはその事に思い至らなかった事に自分で驚いていた。

 だが、無理もない。状況と、そして相手が悪すぎたのだ。ニームに触れた瞬間に崩れるエルデを見て、理性が飛んだに違いない。

「そこのお嬢さん。あなたは今エルデに……この瞳髪黒色の女の子に何かしましたか?」

 グチャグチャの顔のままで、ニームは首を横に振った。

「そ、そっちこそ私に何をした? なぜルーンが使えないのだ?」

 アプリリアージェはニームの言葉には応えず、満足そうな顔でにっこりとエイルに微笑みかけた。

 エイルは肩を落とすとゼプスを鞘に収めて、片腕で支えていたエルデをそっと床に横たえた。


「答えろ。何がどうなっている?」

 隣に寝かされたエルデの姿を見て、ニームが抗議を含んだ声でそう怒鳴った。

「その言葉、そっくりそのまま返してやる」

 エルデの顔にかかった髪をそっと払うと、エイルは敵意に満ちた視線をニームに向けた。

「なぜオレ達を殺そうとした? それもいきなりだ。さすがに問答無用で襲われる覚えは俺達にはない」

 間近でエイルの怒鳴り声にさらされたニームは思わず目を閉じて首をすくめた。

「言っておくが、オレはまだ冷静じゃないぞ。今こうしてても、この剣でお前をめちゃくちゃにしてやりたくてたまらないんだ」

 真実ではないにせよ、その言葉には本音の成分が何割か含まれているのは確かであった。脅すつもりはなかったが、はけ口のない苛立ちを、エイルは床にぶつけた。何の自制もせずにニームの真横に拳を叩きつけて見せたのだ。

 板張りの床は鈍い音を立てた。たとえ渾身の力を振り絞ったとしても、エイルの力では床が割れるような事は無い。だがニームにはエイルの怒りを振動として体で受けることになった。


「エイルん!」

 顔をしかめながら引き揚げたエイルの拳が血に染まっているのをめざとく見つけたファーンが飛んできた。

 本人から許可を得る手順を飛ばして、ファーンはいきなりエイルの拳を両手でつかむと、無理矢理に広げた。

「大丈夫です」

 ファーンはホットした顔でそう言った。

「いや、大丈夫じゃない。痛い痛い! ファーン、痛いって」

「いえ。私の見立てではまず間違いなく骨は折れていません。つまり骨折ではない、という事です」

 ファーンはエイルの抗議にも力を緩めず、ため息をついた。そしてその手を開放することなくむしろさらに力を入れて可動範囲を確かめるようにグリグリと揉んできた。アルヴの力はピクシィにとっては相当に強く、エイルはニームに対する怒りを今度はファーンに向ける羽目になった。

「痛てててて!」

「だいたいわかりました。治療しますからじっとしてて下さい」

 暴れるエイルの右腕を脇に挟みがっちりと固定すると、ファーンはルーンを詠唱し始めた。

 その時になってエイルはようやくファーンが治療方法を策定する為に触診していたという事を理解した。


「まさか、高位のハイレーンか?」

 ニームはルーンを唱えるファーンを見てエイルにそう尋ねてきた。

「マーリン教会の賢者会では唯一のハイレーンだそうだ」

 ニームの問いに、エイルは素直にそう答えた。その言葉の向こうには賢者であればファーンの事を知らぬはずはないだろう? という問いかけが込められていた。


 果たしてニームはエイルの言葉に反応した。

「賢者会ただ一人のハイレーンといえば大賢者【菊塵の壕(きくじんのほり)】の実妹、【群青の矛】とはその娘か」

「お前、本当に賢者なのか?」

 嫌味成分が強いエイルの問いかけに、ニームは事も無げに回答を披露した。さすがにそうなるとニームの言い分に信憑性が出てくる。

「愚問だ。なるほど、だとするともう一人の金髪のアルヴも賢者という事だな。しかもコンサーラか。末席だがジーナは賢者だ。賢者を拘束できるのはより力のある賢者というわけか。納得だ」

 エルデはその言葉でニームが賢者である事を疑う事をやめた。

「ラウは次席の力を持つ三席だそうだ」

 そして素直にそう説明した。

「そうか」

 エイルはニームがどの立場に居る賢者なのかを探る意味も込めて敢えてラウの地位を口にしたのだ。

「三席。コンサーラ。そしてその容姿から判断すると……お前は【二藍の旋律】か?」

 ニームはエイルを通り越して、視線をラウに向けた。

 自分の賢者の名を告げられたラウは眉を寄せて回答をためらった。

 エイルはしかし、その態度と言葉遣いでニームがラウよりも上席であると確信した。だが、それほどの上位にいる賢者をエルデが全く知らなかった事に、さらなる違和感を覚えた。

「もう一度聞くぞ。お前は何者だ?」

「相変わらず無礼極まりないな。人に尋ねる前に、まずは自分の正体を晒したらどうだ?」

 エイルはその言葉を聞いて、ニームに対する怒りが再び強くなってくるのを抑えきれなくなりつつあった。

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