第四十二話 告げ口 3/4

 エルデがチラリとそんなエイルに目をやった。

 それは「尾行者の存在に気付かなかったのか?」という問いであるが、同時にもう一つの意味を孕んでいる。エイルが気付かなかった事を肯定するならば、それはすなわち尾行している人間は、少なくとも現時点では敵意や殺意を持っていないという事になるからだ。

 事実としてエイルはアプリリアージェが警告を発するまで尾行者にはまったく気付いていなかった。

 エイルが小さく首を横に振るのを確認したエルデは、途中まであげていた左腕を下ろした。精杖ノルンを呼び出す必要はないと判断したのだろう。

「ひょっとして知り合いですか?」

 エイルはアプリリアージェに声をかけた。エイルの声はまったく緊張感のないごく日常的な調子のものだった。

 アプリリアージェはエイルの問いかけを聞くと、その場の誰もがそれとわかる程、あからさまにその緊張を解いた。

 同時にその反応は、アプリリアージェが尾行者の特定ができていない事を示していた。「リーゼがいれば、索敵範囲と精度は私達の比ではないのですが」

 すまなそうにそう言うアプリアージェの声は、普段の調子に戻っていた。

 テンリーゼンの名は敢えて口にしたのだろう。そしてテンリーゼンの持つ能力……言ってみれば必要のない情報も敢えて言葉にしたに違いない。エイルはアプリリアージェが事実と向かい合っているのだと前向きに考える事にした。同時にそうやってわざわざ口にして自分に言い聞かせなければならないほど、アプリリアージェが越えるべき壁は高いのだという事も理解した。


 ややあってエイルの目の前を歩くアプリリアージェは、再び左耳にあるオーヴにすっと指を触れた。

 そのまま視線を空へと向けた小柄なダーク・アルヴは、右腕を虚空に伸ばした。

 何事かと思う間もなく、腹の奥に響く大きな音がした。音の方向はまさに今アプリリアージェの右腕が向けた右側からである。

 ティアナが小さな悲鳴を上げると、アプリリアージェは即座に振り返り、大丈夫だと言って、蕩けるような笑顔でにっこりと笑いかけた。

 全員が音がした方向に目をやると、かなり離れた牧草地に白い煙の様なものが立ち上っていた。

 何が起こったのかを理解するのにエイルは数秒の間を有した。

 それが落雷で、その雷を落としたのが黒髪のダーク・アルヴだという事を認識するにはアプリリアージェがやったことはあまりに脈絡のない突発的な行為だと思えた。

「気配が消えましたね」

 ファルケンハインが背後でそう告げた。

「さあ、急ぎましょう」

 だがアプリリアージェはそれには答えず、少し大きな声で一行全員に向かって声をかけた。

「お腹がすいてきました。告げ口のアレンさんとやらにごちそうを振る舞ってもらいましょう」

 アプリリアージェのその言葉にティアナが珍しく反応した。

「ごちそう?」

 ファーンはうなずくと応えた。

「サクランボの砂糖漬けの事です」

「いや……」

 エイルはファーンにかけようとした言葉を呑み込んだ。

 様々な店が軒を連ね、さながら大規模な市のような賑わいだとラウが言っていた事を思い出したのだ。

 ティアナがサクランボの砂糖漬けが好物なのであれば、そこで手に入るかもしれない。そう考えたからだ。

「そうですね」

 だからエイルは言葉を換えた。

「行きましょう」


 尾行者が誰なのか、それは勿論全員が気にしていることである。

 だが何者かを確認する前にアプリリアージェがしでかした無謀ともいえる「挨拶」行為は、相手に尾行の発覚をこれ見よがしに伝えた事になる。それはつまり相手に対して次の行動に移れとこちらから伝えたようなものだ。

 だが相手が単なる哨戒であったとしたら、アプリリアージェの行動は過剰であり不必要なものであろう。いや、してはならなかった行為と言えた。

 エイルはその判断を下しかねていたが、対してエルデはその評価や吟味より先に自らが今やるべき事を選んだ。

 立ち止まり、短い詠唱文をいくつか続けざまに唱えたのだ。

 強化ルーン。

 おそらくアプリリアージェがその力を使った事ではがれ落ちた強化ルーンを再度構築したのである。

 いずれにしろ何らかの接触がある可能性がこれで高まった。

 まずは備える事。

 エルデは日常的にそれをこなしていた。だがエルネスティーネの一件以降はまるで何かに怯えるかのように、仲間が結界の外で強化ルーンを纏わぬ状態になる事を許さなかった。

 それはラウやファーン、そしてエウレイにまで命令と同等の言葉で強く義務化していた程である。

「嗚呼、こんな事なら携帯できる精霊陣の研究をもっとやっとくんやった」

 自嘲気味にそう言うエルデの細い肩に、エイルは自分の手をそっと置いた。

「信じようぜ」

 一定以上のエーテルの力を使う事で強化ルーンがはがれ落ちる事をアプリリアージェは既にエルデから知識として得ていた。

 今の行為が尾行者に対する威嚇と牽制だったのかどうか。その本当の意味は誰にも知るよしも無い。

 疑えばきりがないことだ。

 イオスの屋敷でのアプリリアージェを見たものであれば、相手を徴発して自らを敢えて標的として示したと捉える事は簡単である。

 だがもしそうなら落雷は尾行者の近くに落とすべきであろう。

 エイルはその一点でアプリリアージェを信じる事にしていた。そしてその事をエルデには伝えておこうと決めた。

「絶対これで終わる人じゃない。だってジャミール一族をあっと言う間に、それもあんなに見事に救えちゃう人なんだぞ」

「それや」

 エルデは方に置かれたエイルの手の上に自らの手を重ね置いた。

「え?」

「さっきのファルの話、きいてたやろ?」

「ファルの話?」

 エルデはイオスの館でファルケンハインがアプリリアージェに投げた強い言葉の事を行っているのであろう。エイルは記憶からエルデの言葉の指し示すものを探し始めた。

 だが、答えを見つける前に出題者は正解を明かした。

「リリア姉さんの本質は甘い人間」

「ああ。確かそんな事も言ってたな。あの時はオレも同感だって思った」

「うん」

「それが?」

「ひょっとしたら、甘いどころか、大甘などうしようもない超のつく甘ちゃんやないのかな、リリア姉さん」

 エルデはそういうとルーンをかける間も立ち止まろうとしなかったアプリリアージェの背中を、目を細めて見つめた。

「それって?」

 今までのアプリリアージェは相当な無理を続けていたのだろうというのがエルデの考察だった。

 風のエレメンタル、すなわちアプサラス三世の子、エルネスティーネの双子の兄もしくは弟であるテンリーゼンの護衛かつ水先案内人として自分を置いたものの、その後顧の憂いを一切絶つ事を前提としたような手段を選ばぬ過剰とも言える殺戮を伴う戦いは、本人の意思とは裏腹に、アプリリアージェの心をずっと痛めつけていたのだろうと。

 だが、それでも人格を保っていられたのは「そうしなかった」からではないかというのがエルデの導き出した仮説であった。

「そう考えると、思い当たる節があるんよ」

 ジャミール一族移住作戦の重要な使者としてファルケンハインとティアナが任命された際の事を例に出してエルデは説明した。

 その話を聞いていて、エイルは改めてエルデの記憶力が常人とは違う地平にあると思い知らされていた。

 なにしろエルデはその時の特定の人物の発言を一字一句再現できるのだ。少なくともエイルには完璧に再現されていると思われた。エルデが口にするアプリリアージェの言葉が、その時の情景をみずみずしく脳裏に浮かび上がらせる。それがエルデの記憶の正しさを何より証明していると感じていた。

「二つの文書か」

 その文書の行き先に、その答えがあるのだとエルデは言った。

 問題は勿論、文書を受け取った「相手」である。

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