第三十九話 二つの碑文 6/6
エイルがそんなことを考えていると、スクルドを動かしていたエルデの手が、作業を終える前になぜか止まった。
不審に思ったエイルは、視線を碑からエルデに移した。長い黒髪がよく似合う美しい娘は、驚いたことにその大きな目を見開いていた。
見ればすぐにわかる。それは驚きの表情だった。
「そうか……」
大切な人へ言葉をかけようとしたエイルが口を開くよりも先に、エルデはぽつりとそうつぶやくと、アプリリアージェを振り返った。
「そういう……事、やったんか」
突然エルデに言葉をかけられたアプリリアージェはしかし、エルデのその態度に驚いた様子は見せなかった。
「そやから、あの時のケーキも……」
エルデの問いかけに対して、黒髪のダーク・アルヴはいつものようにただにっこりと笑って、そして小さくうなずいた。それに呼応するように金色のスフィアの耳飾りがゆらりと寂しげに揺れた。
いや。
エイルは心の中で首を横に振った。
いつもの微笑ではない。その時アプリリアージェが見せた笑顔は、エイルがハッとするほど静かで穏やかで優しそうで、そしてどうしようもなく悲しそうな笑顔だった。
アプリリアージェの頬に流れるいくつもの涙の筋が、そうエイルに思わせた。
何も言わないアプリリアージェに、エルデもそれ以上何も言葉をかけなかった。
ゆっくりと首を巡らせて再び碑に対峙すると、中途で止まっていた白い精杖、スクルドの先端を再び動かし始めた。
しかしテンリーゼンの名前は、エルネスティーネの時と違って作業は順調に進まなかった。
文字を描くスクルドの動きはたびたび止まった。先端はその時大きく揺れて、エルデの口から嗚咽が漏れる。
そのたびにエルデは涙をぬぐう。そして唇をぎゅっと結んで、美しい顔を歪ませながら再び碑に向かうのだ。
そして少し削って、また中断する。
だが、誰も、何も言わなかった。
そんなエルデの姿を、ただじっと見つめているだけであった。
エイルもかけるべき言葉を持っていなかった。
こみ上げる感情をねじ伏せて、やるべき事を仕上げようとするエルデのその姿を、絶対に忘れまいと心に誓いながら、ただ見守っていた。
何度か中断しながらも、エルデはしかし、作業はやめなかった。涙は止まらなかった。時折鼻をすすり上げ、こみ上げてくる嗚咽を賢明に抑えながら……ゆっくりと、そして確実に繊細な花文字を刻み続けた。
エイルはエルデの涙の理由を探していた。それはおそらく、その場にいた全員……おそらくアプリリアージェを除く全員が同じ気持ちであったろう。
エルデは何かに気づき、それが彼女の悲しみの感覚を貫いたのだ。
エイルは視線をスクルドの先へ向けた。エルデがずっと見つめている場所にこそ、その答えはあるはずだからだ。
ようやくエルデは最後の文字を刻み終えようとしていた。
何がどうなっているのかはわからないが、エルデの精杖の動きに連動するように文字が碑の上に出現する。それはまるで砂の上に誰かが指で文字を書くように彫り込まれていく。見えないノミで削られているのではない。削られた破片などは存在せず、ただやすりで磨き込まれたように滑らかに文字が彫られていく。その部分が瞬間的に蒸発しているのだと言われたらそう思うしかない、そんな彫刻作業であった。
完成寸前の碑文に刻まれた、二人の名前を見比べていたエイルの背中に、突然軽い稲妻が走ったかのような衝撃が訪れた。
ほぼ同時に、すぐそばでラウが息をのむ様子を感じた。
おそらくエイルとラウが、エルデの次に「その事」に気づいたのであろう。とはいえそれは、エルデの態度が変わらなければ一生気づかずにいたに違いない。
エイルは思わずラウの顔を見上げた。
自分がいったい今どんな顔をしているのか、エイルにはわからなかった。だが、ラウの顔を見れば想像ができた。おそらく同じような表情でラウを見つめているに違いないのだと。
ラウは緑色の目を見開き、そして眉根にしわを寄せていた。口は真一文字に閉じられ、そして……視界がぼやけていた。
もちろん視界がぼやけていたのはエイルの方だ。
だが、おそらく同じなのだろうとエイルは確信していた。
エイルの表情はラウと同じだったかもしれない。だがエイルの感情とラウの感情は必ずしも同じではなかった。
エイルはラウが抱いた感情に加えて、おそらくはラウが自覚していない気持ちを……言葉にならない思いを抱いていた。
(ラウが泣いている……)
目的の為ならば眉一つ動かさずに人を道具として消費することができた《二藍の旋律(ふたあいのせんりつ)》は、そこにはもう居なかった。
その事実を期せずしてエイルは知ることになった。
「こんな事」に涙を流すならば、いや、流してくれるのならば、それはもう賢者でもなんでもなく、エイルが知っている「普通の人」であった。
エイルの中には、ラウに対するわだかまりがいまだ消せずに残っている。おそらくそれはこの先も消えることはないだろう。
だが……。
目の前にあるラウの表情を見てしまったら、この先、もう二度とラウを憎む事はできないだろうとも確信していた。
その時エイルの中で、何かが音を立てた。
それは一つの憎しみが崩壊する音だったのかもしれない。
悲しみの一つがその色を変える音だったのかもしれない。
エイル自身にそれはわからない。確かなのは、ラウとエイルに、今新たな共通の悲しみが一つ、心に確かに刻まれた事である。
エルデが刻んだ碑文の文字とともに。
その時慟哭に抗っていたエルデが、ついにその抵抗をやめた。こらえていたはずの泣き声がエイルとラウの聴覚を占有した。
それはつまり、二人の名前を刻んだ碑文が完成した事を意味していた。
作り始めた時には、あっという間に完成してしまうと思った二つの名を刻んだ碑文は、予想の十倍、いや二十倍以上の長さをかけてようやく出来上がった。
完成した碑文に目をやったエイルの耳に、小さな、そして鈍い音がした。
エイルはすぐに音のする方向、エルデの方に顔を向けた。
そこには両膝を突き、天を見上げる瞳髪黒色の少女の姿があった。
長い髪の少女は、声を上げて泣いていた。
感情をぶつける相手がいないのだろう。エルデのその姿は、まるで悲しみを空に返そうとしているかのようだった。
エイルは自らの涙をぬぐうと、エルデの前で同じように両膝を付き、そのまま声を上げて泣き続けるエルデの体を強く抱きしめた。
「もっと……」
抱きしめられたエルデは、泣き声を押さえると小さくつぶやいた。
「え?」
「もっと早くに……気づくべきやった」
「エルデ……」
エルデの言葉の意味が、エイルにはもうわかっていた。本当に痛いほどに。
だから、何も言えなかった。
「ウチやったら、もっと早く気づけたはずやのに……こんなに……こんなに簡単な事やったのに」
エイルはそれ以上エルデにしゃべらせなかった。背中に回していた手を、エルデの頭に回すとそのまま抱きしめたのだ。エイルの体に優しく埋まったエルデは、その意図がわかったのか、それ以上言葉を継ぐこと無く、ただ泣き続けた。
「月の大戦」から五十年後に、ピクサリア沖の大規模な海底調査が行われた。
おびただしい数の遺物が引き上げられたという。その時の遺物をまとめて収蔵しているのが王立博物館の第二別館だが、そこの常設展に、遺物の中でも飛び抜けて興味深いものがある。
エルミナの遺物が展示されている一角の、そのさらに片隅にひっそりと置かれた石片がそれである。碑文が刻まれた岩の一部だが、実物ではない。
碑文が刻まれていた岩自体が大きすぎて引き上げが困難な為、特殊な粘土を使って碑文の部分だけを型どりし、そこから作成した複製であると伝えられている。本当に海底にそのような碑文があったのかのかと、いまだに疑問を投げる学者が多いが、その後に起こったいくつかの地震により碑文の岩は失われ、真偽の程を確かめる術はない。
ここではその真贋について語るつもりはない。
ただ、そこに刻まれた二人の人物の名前を紹介するにとどめたい。
そこには九つの同じ文字がそれぞれ違う書体で刻まれている。誰もが知る歴史上の人物の名前だ。
一人は「ERNESTINE」と。
そしてもう一人の名は「TENRIESEN」である。
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