第三十九話 二つの碑文 5/6

 翌日。

 一行はイオスの屋敷を出た。

 まばゆい太陽と青い空が広がる、快活なツゥレフの庭ではなく、エルミナ側へ。

 アプリリアージェの希望で、エルネスティーネとテンリーゼンの最後の場所を見るために。


 あの日、エルネスティーネのおびただしい血で赤黒く染まっていたその場所は、雪で覆われて白一色であった。

 すぐそばが崖で、時折海からの風がその崖を伝って真上に吹き上げるのがわかる。

 その崖はテンリーゼンが落ちた場所であった。

 改めて見渡せば、エルネスティーネが倒れた場所と、数メートルしか離れていない。

 無言で崖下をのぞき込むアプリリアージェに、誰も「危ない」と声をかける者はいなかった。

 気が気で無かったのはエイルだけだったのかもしれない。アプリリアージェの背中は寂しげで、小柄なダーク・アルヴがさらに小さく、得るにはそれがまるで幼子のように見えていた。

(そのまま飛び込んでしまうのではないか?)

 そんなおそれに足下が震えそうになる。

 だが、隣にたつエルデがそんなエイルの右手をぎゅっと握っていた。

 それは「行くな」という合図ともとれたが、自分自身が動かぬようエイルにしがみついているようにも見えた。

『アルヴ族は自ら命を絶つことはない』

 ファランドールの常識である。

 すべてのアルヴ族にそれが当てはまるわけではないだろう。だがエイルはそれを信じる事にした。エルデも同様だった。二人は大きな悲しみを乗り越える強さを、アプリリアージェにこそ見せて欲しかったのだ。

 

 しばらく崖の下を見つめていたアプリリアージェは、ゆっくりと振り返った。

 その頬に涙のあとが見えた。

 だが、その顔はにっこりと笑っていた。

「お別れをしていました」

 アプリリアージェはそう言うと視線を足下に移した。

「私も、自分の足で歩むべき道を見つけて、踏み出さなければならないのでしょうね」

 誰も何も言わなかった。ただ、同じよう雪に覆われた地面を見つめた。エルネスティーネが倒れていた、アプリリアージェの足下に。


「墓碑を作るのはどうだろう?」

 出し抜けにファルケンハインが呼びかけた。

 誰に対して、というわけではない。おそらくその場にいた全員に意見を求めるように。

 アプリリアージェがすぐに顔を上げた。

 エイルとエルデがお互いに顔を見合わせる。

 ラウとファーンはほぼ同時に視線をアプリリアージェに向けて表情をうかがい、ベックは腕を組んでうなずいた。

「いいんじゃないか? 俺は賛成だ」

「お墓?」

 ファーンに手を引かれたティアナがそう訪ねる。

「そうですね。正確に言うとお墓ではなく名前を刻んだ石の事です」

「そうだな。墓じゃない。二人とも生きてるんだからな」

 エイルはそう言うとエルデの手を握ったままの右手を胸に当てた。

 それを見て、全員がうなずきあった。

「そうと決まったら、ここはウチの出番かな」

 エルデは全員の無言の承諾を受け、精杖ノルンを取り出した。

 そしてあたりを見渡し、すぐ近くに露出している大きめの岩を見つけると、ノルンを白いスクルドに変えた。

「ヴァーニエ・フル・スーザ・ユーラ・アマネリーア・ターウァ・ミーム・タ」

 エイルにはそう聞こえた。もちろん初めて耳にする認証文だった。

 だからそれが一つのルーンなのか、複数のルーンを続けて詠唱したのかの区別はエイルにはつかなかった。

 だが、エルデが何をやろうとしたのかはすぐにわかった。


 エルデの詠唱が終わると、的にされた岩と、岩の周りの地面から、雪がすべて蒸発した。雪がなくなった黒茶色の地面に淡い緑色がぽつぽつと見えた。

 エイルはその緑色の正体を知っていた。

(フキノトウか……)

 まだ雪は溶けてはいない。だが確実に春は来ている。宇宙と大地の、悠久の営みの些細な証明である。だが、エイルにはその点在する緑色がまぶしかった。

 もちろん、エルデはフキノトウを皆に見せようとしたのではなかった。

 雪の布団を奪われて当惑しているかのようなフキノトウに注意を奪われていたエイルの耳に、ガチンという音が響いたかと思うと、さらに大きな音がそれに続いた。

 岩の一部が崩れ落ちたのだ。

 いや、崩れたのではなかった。

 一部が崩れ落ちた中央下部にはやすりで磨いたような真っ平らな部分が出現していた。つまりエルデはルーンで岩を削りとり、滑らかな平面を作り出したのだ。

 名前を刻むべき銘板を。


「ネスティとリーゼは、どっちの方が年上なんや?」

 精杖スクルドの先端を銘板部分に向けると、思い出したようにエルデはアプリリアージェにそう訪ねた。

「そうですね」

 なぜか一瞬の逡巡の跡で、アプリリアージェはゆっくりと答えた。

「ネスティの方が妹ですね」

 その答えにエルデは右の眉を少しだけ上げて反応したが、すぐに銘板に向き直った。

「とは言え、やっぱりここは世が世なら一国の女王になっていたはずのネスティに敬意を表しとこ」

 独り言のようにそう言うと、エルデは精杖スクルドの先端を空中でゆっくりと回し始めた。いや、回し始めたのでは無く、空中で文字を綴ったのだ。その証拠に、エルデの動きに合わせて銘板の上半分にエルネスティーネの名が刻まれていった。

 エイルは、いやその場にいた誰もがエルデの書く文字を初めて見ることになった。

 それはまるで書き取りの手本書のような見事な筆跡で……いや、より優しい丸みを帯びた筆記体で、シルフィードの宝石と呼ばれた十八歳になったばかりの少女の名を綴った。「E」の丸みや「n」の跳ねが、エルネスティーネの笑顔を彷彿とさせ、エイルの胸がちくりと痛んだ。

 ゆっくりと一文字ずつ、エルデは文字を刻んでいき、やがて見事な銘文を完成させた。

 もちろんまだ碑としては完成ではない。

 まるでそれが荘厳な儀式であるかのように、まっすぐに腕を伸ばして精杖を碑に向けるエルデを一同は無言で見守っていた。

 一拍おくかのように小さな深呼吸をすると、エルデは精杖スクルドの先端を再びピタリと碑文の空白部分に向けた。

 そして先ほどの同じゆっくりとした動作でテンリーゼンの名を刻んでいく。

 テンリーゼンの名前はエルネスティーネのそれとは書体が変わっていた。いわゆる花文字と呼ばれる装飾のある力強い文字で、銀髪の小さな戦士の名前が刻まれていった。

 それはエルデが持っている両者への印象の違いを書体で表現しようとしたのであろう。

 エイルにはエルデの意図はわからなかった。だが、綴られていく文字をじっと見つめているうちに、二人の名は同じ書体でない方がいいと感じていた。

 二人はそれぞれ、短いながらも全く違う人生を歩んでいた。最後の数ヶ月はその道が隣り合わせになったものの、それは交わることなく、重なること無く、ただ隣り合わせになっただけだった。

 そういえば……。

 エイルはその時初めて気づいた。いや、思い出したと言った方が正しいだろう。エルネスティーネとテンリーゼンが二人で話をしている光景を、エイルは一度も見ていない事に。

 もちろんテンリーゼンは言葉をしゃべれない。だが精霊会話で意思疎通はできる。

 ならばエルネスティーネの性格であれば、本人の都合や気分などお構いなしに、明るい笑顔をお節介とともにこれでもかと言うほど押し売りしていてしかるべきだった。

 エルネスティーネがテンリーゼンを嫌っていたとは考えにくい。テンリーゼンがあからさまにエルネスティーネを避けている風な様子もない。

 考えてみれば、それは少し奇妙な事だと、今さらながらエイルは思った。そして今になってその事実に気づいた自分に軽い嫌悪を覚えていた。

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