第三十六話 接触 7/7
『エルデ?』
エイルは心の中で呼びかけた。
話さないでもいい事を口にしてしまった事について事後ではあるが謝っておこうと思ったのだ。
だがエルデがエイルの呼びかけに答えなくなってけっこう時間が経っていた。それはエルデが自らの体で目覚める前触れなのだが、念のために確認をしたみたのだ。
エルデはエイルの頭の中で眠る事によって自らの体に帰る事ができるようだった。
抜け出すのは突然で、帰るのには手順がいる。どういう仕組みでそうなっているのかはエルデもわからないと言う。
エルデの精神がエイルの体を離れ自分自身の肉体に戻る事ができるのは、果たしてどれくらいの距離まで可能なのかすらもわからないのだ。
だからエルデはエイルと離れるのを極端に恐れていた。
多少の距離は大丈夫であることは、イオスの館の経験でわかってはいたが、どれくらいまで離れても大丈夫なのか、そして「大丈夫で無い時はどうなるのか」を検証するわけにはいかないのだ。考えたくはないが、失敗はすなわち消滅と同義になる可能性があった。エルデもエイルもそれを口にする事はなかったが、エルデの恐怖は痛いほど伝わっている。
エルネスティーネの事件の後は、ふとした時にエルデが発作的に腕にしがみついてくる事もしばしばあった。あのエルデが体を震わせながら。
エイルにできる事はそんなエルデの震えを自分の体温で暖める事だけだった。
エイルの言葉はニームの泣き声を止めた。
「大切な……人……」
途切れがちにそうつぶやくニームに、エイルはうなずいた。
「もう二度と口にはしないでおこうと二人で決めたんですが……オレ達がもう少し気をつけてれば彼女は助かっていたかもしれない……だから辛いんです」
「この戦争で……か?」
エイルは再びうなずいた。
嘘ではない。
アキラが殺したのではない。エルネスティーネは戦争の犠牲者なのだ。
わだかまりはもちろんあった。アキラに対しても、もちろんテンリーゼンに対しても。だがエイルもエルデもアキラを責める事ができなかった。
あれは数々の偶然と不運が重なって起こった事故なのだ。だがただの事故ではない。複数の国家間、あるいは複数の陣営による「争い」というものがなければ生じなかった事故である事は間違いなかった。
「どうして?」
「え?」
「どうして、そんなに静かな顔でいられるのだ? 涙も流さず、あなたからは暗いエーテルも見えない。それとも、もう泣き尽くしたのか? だとしたらどれくらい泣いたら癒えるのだ?」
「それは……」
エイルは視線をエルデに注ぐと、そっとその手を取った。
「こいつがオレの分まで泣いてくれたから、だと思います」
エルデの手を取ったエイルは、エルデの体に通常の体温が戻ってきている事に気付いた。
「一晩中泣いてましたよ。さっきのあなたのように。それを見てたらしっかりしなきゃ、なんて思えてきて……」
「そうか。見かけによらず強いのだな」
ニームはそう言うと、ジナイーダが差し出したハンカチで涙と鼻水を拭いた。
その時、不意にエルデが体を起こした。
「ウチは泣いてへんっ!」
そしてエイルを不満げな顔で少しだけ見つめると、その顔を今度はニームに向けた。
「それから、あんた」
エルデはニームの顔を指さした。それは明らかに敵意のある行為と言えた。ニームはエルデの剣幕に思わず身を逸らして結布に手を触れ、シーレンは懐に手を、ジナイーダはいつでもニームの盾になるべく身構えた。
つまりエルデのたった一つの行動がそのテーブルを一瞬にして対決の場に変えてしまったのだ。
「わ、私がどうした?」
ニームは結布に触れただけで、まだ何もルーンを発動してはいなかった。もちろんそれは常識的な反応だろう。指を指されたくらいでいちいちルーンを使っていてはおちおち人前に出る事は不可能だろう。
そもそも強化ルーンは一応かけてあった。だからニームの場合は相手の出方を見てから反応しても遅くはないのである。
「ウチの大事な人を捕まえて『見かけによらず』とか言うな!」
「う……」
エルデはそれだけ言うとようやく落ち着いたのか、ニームを指さした手を下ろし、フードを目深にかぶって顔を隠した。
「いや、もう遅いだろ」
エルデの様子を見ていたエイルはそう言うと小さくため息をついた。
「黒い……瞳?」
エルデの行動に反応した三人は、フードでわざわざ目を隠した行為で初めて自分たちに向けられた目の色に意識が移っていた。
目覚めた際、エルデは不用意に素顔を三人に晒してしまっていたのだ。そしてエイルの指摘通り、後になって隠しても「もう遅い」状況だった。
「あ、ははは」
エイルは緊張が走ったその場を取り繕うように乾いた声で笑った。
「まあ、そういうわけでコイツってばちょっと訳でありで、あまり顔を見せたくなかったんだけど」
ニーム達は目を丸くして顔を見合わせていた。
「確かに。黒髪はともかく、黒い瞳は私も初めて見た」
シーレンが遠慮無くそう感想を口にすると、後の二人は無言でうなずいた。
「いろいろ面倒なんで、このことは誰にも言わないで欲しいんだけど」
三人の様子を見て、エイルは頭を下げた。
「その点は約束しよう」
今度はニームがとっさにそう答え、後の二人がうなずいて見せた。その後でジナイーダはため息をつくと独り言のようにつぶやいた。
「目の色もそうですが、さっきの給仕の子が『美人さん』って言っていたのでそうだろうなとは思っていましたが、綺麗とか美人とか、そんな生やさしいものではありませんね」
後の二人は、これまた無言でうなずいた。
ニーム達にとって謎めいた若い二人組が、その「謎」の部分を一部開示した事により、その場にあった緊張は霧散した。だが、謎の開示は同時に彼女たちの目的とする人物が目の前に居る事を表していた。
ニームが意を決した様に口を開いた。
「実は我々は瞳髪黒色の美女を探している」
その言葉は今度はエイルとエルデに緊張を走らせた。
「エルミナの市で時々見かけるという噂を聞いて、一度見て……いや会ってみたいと思っていた」
ニームの視線はエルデのフードに向けられていた。
エイル達の沈黙を受けてニームは何やら口の中でつぶやき始めた。
エイルはそれがすぐにルーンだとわかった。エルデも当然ながらわかっているだろう。だが何も動かない。おそらく危険を及ぼしてくるようなルーンではないのだろう。
ニームのルーンは短く、ほんの十数秒で詠唱を終えた。エイルはしかし何の変化も感じなかった。つぶやく言葉は何とか聞こえたがエイルが初めて聞く種類の言葉が多く、何のルーンかさっぱり予想がつかなかった。
「この席の音は完全に封鎖した。この場所の存在感も消した」
ニームはそう言うと再びエルデに視線を向けた。
エルデは顔を上げるとフードをずらして顔をあらわにし、ニームの視線をその濡れたような黒く大きな瞳で受け止めた。
「周りにばれる心配はないから、フードをとって頭を見せろっちゅう事か?」
エルデの問いにニームは悪びれずにうなずいた。
「あなたに聞きたい事がある」
エルデは隣のエイルに顔を向けた。視線が合うと小さくうなずいて見せた。
「ええやろ。ただし、答えられる事にしか答えへんけどな」
そう言うと、エルデはかぶっていたフードを無造作に下ろした。その瞬間、ニーム達の口から感嘆の声が漏れた。
「シーレン」
ニームははやる気持ちを抑えるように、低い声で隣のアルヴィンに声をかけた。
「何だ?」
「ピクサリアに行ったのは正解だったと思わないか?」
「どういう意味だ?」
「あそこで私がエコー達に姿を見せたからこそ、今日のこの幸運があるとは思わないか、と聞いている」
シーレンはあからさまなため息をついた。
「私は評論家ではないが、自分のしでかした事に対して素直に謝るどころか、後付けの理由を見つけ出して正当化する大人など、言語道断だと思う」
そしてぴしゃりとそう言ったあとで、苦笑しながら付け加えた。
「だが今回に限っては本当にお前の言うとおりかもしれん」
ニーム達三人は、瞳髪黒色のエルデを目の前にして、自分たちが目的に近づいている事を確信していた。
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