第二十八話 万悔の朝 3/5

「大丈夫だぞ、エルデ。オレは絶対に愛想なんて尽かさないから。な?」

 エイルがエルデをなだめるべく、頭にそっと手をやりながらそう言うと、エルネスティーネがニヤリと笑った。

「あらあら。やっぱりこの程度では駄目ですか?」

「え?」

「それじゃあ、近づきすぎるというのはどの程度の事なのかをですね……」

 エルネスティーネはエルデに向かってそう言うと、ニッコリ笑いかけた。そしてエイルの隙をつきその胸に飛び込むと、両腕を背中に回して顔を埋めた。

「ああっ!」

「うわっ」

 もちろんエルデはすぐさま抗議とも悲鳴ともつかない声を上げた。エイルもエルネスティーネのいきなりの行動に面食らった。

「お、おい、ネスティ……」

 そう言いながらもエイルは自分の体を抱きしめるエルネスティーネを、無理に引き離す気にはなれなかった。

「お別れですね」

 エルネスティーネはそのままの状態でぽつりとそう言った。

 その言葉を聞いたエルデは、エルネスティーネに向けて伸ばした手を止めた。エイルから引きはがそうと伸ばした手だった。

 エルネスティーネはエイルを抱きしめる腕にさらに力を込めると続けた。

「さようなら、私が好きだった人。本当に、本当に大好きでした」

「ネスティ……」

 エイルにはしかし名前を呼ぶことしかできなかった。続く言葉を持ってはいないのだ。何かを言おうとすると、また謝罪の言葉を口にしそうで、エイルは唇を強く結んだ。

 そんなエイルの心を読んだかのように、エルネスティーネは微笑んで小さく首を左右に振った。

 言葉は要らない……エイルはエルネスティーネがそう言っていると感じた。

 エルネスティーネはゆっくりとエイルの胸から離れると、今度はすぐ横にいたエルデを同じように抱きしめた。

「ちょ、ちょっと、何を?」

 胸に顔を埋められてエルデは固まった。思ってもみなかったエルネスティーネの行動に、思考と同時に体の機能が停止したかのようだった。

「ふふふ」

 エルネスティーネはそんなエルデがおかしいのか、思わず声を出して笑うと、背中に回した腕に力を入れた。

「あなたも大好きよ、空を駆ける二つ名を持つエルデ。黒い髪と黒い瞳のエルデ。強くて憎たらしいエルデ。大胆なのに繊細なエルデ、強いくせに弱すぎるエルデ。そしてとても美しくて可愛らしいエルデ……」

「ネスティ……」

 エルデは完全に戸惑っていた。

 引きはがす訳にもいかず、助けを求めるように隣のエイルに顔を向けると、エルデはそこに優しい笑顔を見つけて、喉から出かかった言葉が止まった。

「あなたで良かった。いえ、あなたでない人なら、私は容赦しませんでした。あなたでないと嫌だったんです」

「ネスティ……あんた……」

「本当にお似合いですよ。だから絶対幸せになってくださいね」

 エルデは困ったような表情のまま、少しの間逡巡するように両手の指を小さく動かしていたが、意を決したように伸ばしたままにしていた腕をエルネスティーネの背に回すと、同じように強く抱きしめた。

 

「ありがとう、ネスティ」

「いえいえ、お礼を言われるような事ではありませんよ。これはみんなを代表して私がお二人に伝えたに過ぎません」

「うん……おおきに」

 ゆっくりと離れた二人は、お互いの顔に涙の筋がついているのを認め合った。いつの間にか溢れていたのだ。だが二人ともそれを拭おうともせず、じっと見つめ合っていた。

「もう少し……」

「え?」

「お二人がもう少し背が低かったら、お別れのキスができたんですけど……残念です」

「あ、アンタなあ!」

「あははは。ほんの冗談……ではありませんよ」

「どっちやねん!」

 ネスティは明るい声で笑うと、エルデから離れ、涙を拭ってきびすを返した。

 エイルはエルデの側に寄り、その手を握って旅立つアルヴィンの背中を見つめた。

「あ、言い忘れていました」

 ティアナの隣に戻ったエルネスティーネはエイルを指さした。

「私以外と浮気したら、エルデが許しても私が許しません。その時は命はないと思って下さいね」

「わ、私以外ってどういう意味やねん?」

 エルデは敏感に反応すると、エルネスティーネではなく、エイルをにらみ付けた。

「いやいやいやいや」

 エイルはうんざりした顔で、助けを求めるようにベックの方を見やった。

 しかし、ベックはエイルの味方ではなかった。

「あ、ダメダメ。俺は女性軍の味方だから。というか、お前の味方は無理だから」

 エイルは次にその隣のファルケンハインに同様の視線を送ったが、

「一応言っておくが、その二人に逆らうような愚かな俺ではない」

 と、いち早くかわされた。

「やれやれ……」

 エイルは溜め息をついた。その隣でエルデは

「大丈夫や」

 そう答えてみせた。

 だが、それはエイルに向けた言葉ではなかった。

「浮気したら焼き殺すで、ってしっかり脅してるさかい。それからこれは今決心したんやけど、エイルがネスティという名前を口にするたんびに針で歯の神経をグリグリ言わすことにした」

「それ、冗談だよな?」

「うちは冗談とネスティは大嫌いや」

「あのなあ」

 エルネスティーネは二人のやりとりに小さく笑い声を上げた。エイルとエルデが再び視線をエルネスティーネに戻すと、シルフィードの宝石は、その名にふさわしい笑顔を浮かべ、二人に手を振った。

 それが別れの合図になった。



 

「では、お元気で」

 アプリリアージェはそう言っていつもの微笑みで軽く会釈をすると、扉の外へと歩み出た。

 ベックは手を振って目配せをすると、それに続く。

 ファルケンハインとティアナは並んで手を振ると、同時にうなずきあって背中を向けた。

 皆の出発を見届けたテンリーゼンは、肩にマナちゃんを載せたまましばらく二人を眺めていたが、何も言わずに扉をくぐった。

「また会いましょう。絶対ですよ」

 最後に残ったエルネスティーネは、それだけ言うときびすを返した。

 開かれていた屋敷の入り口から、エルネスティーネの姿が消えた。

 そしてそれが、エイルとエルデが見た最後のエルネスティーネの笑顔になるとは、もちろん二人はまだ知るよしもなかった。

 

 屋敷の門まで見送ろうとしたエイル達を、エルネスティーネが「ここでいい」と断った。

 玄関の広間から見送って欲しい。

 それがエルネスティーネの希望だったのだ。

 アプリリアージェは特に反対をしなかった。

 門まで送られると、残る者と去る者との対比が大きくなる……エルネスティーネはおそらくそのようなことを考えていたのだろう。

 別れの時は笑っていたい。でも、門を挟んで別れると、堪えられる自信が無かったのだ。

 だから玄関で、まるで友人の家に遊びに来ていて、時間が来たから自宅への道を辿るような、そんな何気ない別れ方であれば、笑顔でいられると思っていたのであろう。

 事実、エルネスティーネはほとんど涙を見せなかった。少なくとも声を上げて泣きわめくような無様な真似をせずに済んだ。

 そしてそれはエイルとエルデも同様であったにちがいない。


「行っちゃったな」

 心にぽっかりと穴が空いたような気持ちとはまさにこの事だろうとエイルは思っていた。

 寂しかった。

 悲しかった。

 そして胸が少し締め付けられた。

 だから大事な人の名を呼び、その肩をそっと引き寄せた。

「エイル……」

 エルデも同じ気持ちだったのだろう。

 そのままエイルの胸に顔を埋めると、こちらは声を上げて泣き出した。

「なんでやろう? なんでウチ、こんなに寂しいんやろ……」

 答えが分かりきっている問いかけに、エイルはしかし何も返せなかった。

 エルデとて答えを聞きたいわけではなかった。しかしエルデにはそうやってエイルに甘える意外に、寂しさを紛らわせる術がわからなかったのだ。

 

 泣きじゃくるエルデの長い黒髪が揺れ肩が震えるのを、少し離れたところからラウとファーンが見つめていた。

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