第二十八話 万悔の朝 4/5
風もなくおだやかな朝だと思っていたが、結界を抜けると相当に風の強い日である事がわかった。海からの風で一同の髪が乱れた。
上手の手から水が漏れるという諺がある。
その日、いやその朝のアプリリアージェがまさにそれであった。
屋敷の門をくぐり、エルミナの町という通常次元の地をその足でしっかりと踏み締めた時「それ」は襲ってきた。
皮膚の上層のみをチリチリと焼くような違和感。
しばらく遠ざかっていた感覚であった。
憎しみと殺意が入り交じった気配へ顔を向けると、少し離れたところに「敵」はいた。
アプリリアージェはその顔には見覚えがなかった。しかしその服装には見覚えがあった。
ドライアド王国陸軍の将校服。
お世辞にも趣味がいいとは思えない真っ赤なそれは、アプリリアージェの記憶が正しければ佐官の服であった。
そのドライアドの佐官を護衛するかのように左右に合わせて十人ほどの部下がいた。皆同じくドライアド陸軍の茶色の尉官服を来ているところを見ると、通常の部隊でない事はわかる。
さらに……。
アプリリアージェの心臓が跳ねた。
全員が精杖を手にしていたのである。
(しまった)
「引け!」
そう思った瞬間に、アプリリアージェは声に出して指示していた。
全速力で反対方向へ。
そこが断崖で行き止まりである事はもちろんわかっていた。だが逃げ道はそこにしかなかったのだ。とにかく一刻も早くルーンの射程外に出る必要があった。
アプリリアージェの合図に慣れておらず、反応できずに逃げ遅れる可能性があるとすればベックだったが、かまっている余裕はなかった。
アプリリアージェはすぐ隣にいたエルネスティーネの手を思い切り引っ張ると、全速力で後方へと離脱した。すぐにアプリリアージェは自分の危惧がとりあえず回避できた事を横目で確認した。
ル=キリアの一方副官の体格の良さは伊達ではなかったのだ。
ファルケンハインはその膂力を生かして片手にティアナ、片手にベックを抱きかかえると、自身の持つ最大の速度でその場を後にした。
だが、完全な撤退は避けた。
断崖の存在も理由の一つだが、後方にあらかじめしかけられているかもしれない罠の可能性を危惧したのだ。
ルーンの射程はアプリリアージェもだいたい把握はしていたから、ルーンが届かない範囲でいったん止まった。
間一髪で回避……出来たのかどうかまではわからなかった。とりあえず全員が危険範囲を離脱したという認識はある。そしてそれは間違いないと思われた。
「なんだ」
赤い佐官服の男はがっかりしたような声を出した。
「瞳髪黒色の女ルーナーも《二藍の旋律》とやらも居ないようだな」
瞳髪黒色のルーナーとはすなわちエルデの事であろう。
「だが、まあいい」
佐官服の男はそう言うと精杖の先をアプリリアージェ達に向けて突きつけた。
それを見たファルケンハインとテンリーゼンが、それぞれ剣を抜いてアプリリアージェの隣に並んだ。
アプリリアージェの最初の失策は、不用意に結界の外へ踏み出した事。
そしてその時、ファルケンハインとテンリーゼンの動きを確認しなかった事がその日二度目の「らしくない」失策であった。
前日、イオス達が発つ前に、エルミナ側の屋敷周りに結界や見張りなどの異常が無いかどうかを尋ね、安全を確認したところまではアプリリアージェらしい用心深さだと言えた。
だが戦場ではほんの数分もあれば戦況が変化する。前日まで周りに不振な人影がないからといって、たとえ早朝であっても翌日も同じとは限らないのだ。
初歩の初歩、いや素人並みと言われても仕方のない失策であった。
エルネスティーネの思いに応えようとした時点で、戦況を俯瞰する立場を放棄したようなものなのだ。
エルネスティーネが泣こうがわめこうがかまわず、エルデをはじめとする三人の賢者には門まで見送って貰うべきであった。
結界を越えてルーンがかけられるのかどうかはわからない。だが、可能性があるならそちらを選ぶべきであった。
少なくともアプリリアージェ達の前に、敵が現れたことを認識して貰えたなら、結界を出て加勢してもらえる可能性はある。
いや、間違いなく加勢するだろう。
同じ窮地でも味方にルーナーが居るのと居ないのとでは、戦術の選択肢がまったく違う。結界が見えるエルデたちならば、後方や側方に潜む罠を見つけてくれるだろう。加えてラウとファーンがいれば、味方に強化ルーンを施せるし、負傷しても治癒してもらえる。防御を二人に任せることができればエルデには敵への遠隔攻撃に専念してもらう事も可能だ。そうなればたとえ数で不利であっても速度と戦闘力では敵を上回れる自信があった。
だが、アプリリアージェは一行を預かる立場にありながら、その安全策をみすみす放棄していたのである。
視界に入るイオスの屋敷は、今さら確認するまでもなくしんとして気配がない。
結界の向こう側、あの建物の扉の向こう側に確かに居るはずの四人とは、もはや連絡を取る方法がないのだ。音も光も、あの扉の向こうには一切届かないのだから。
もう一度門の中に入ろうにも、再度認証を受けなければ通れないと言われていた。名を告げて、名簿で確認してもらい、一人ずつ通る……ルーンの射程内でそんな悠長な事をしている時間はない。
あの不思議な老婆の門番とやりとりをしている間に、おそらく敵は目的をとげてしまうだろう。それは間違いなかった。
その一つ目の失策が、実は二つ目の失策の呼び水になっていた。
さしものアプリリアージェも、余裕を失っていたのである。
「だがまあ、いいだろう。恨みは晴らせないが手柄はあげられそうだ」
赤い佐官服を来たルーナーがラウの賢者名を知っていた事とエルデと面識がある事がアプリリアージェの頭の中に引っかかっていた。
だがその引っかかりを記憶と知識を総動員して有機化するだけの余裕がなかった為に、結果としてその男の特定が遅れ、冒してはならない二つ目の失策を自覚する事になった。
「上には死体でもかまわないと言われているんでな」
赤い軍服の男はルーンの射程外にいるにもかかわらずアプリリアージェ達との距離を詰めようとしなかった。そして余裕の表情でそう言ってから、ゆっくりと精杖を掲げた。
それが何の合図なのかはわからなかった。少なくとも敵は誰一人動かなかった。
ただ、アプリリアージェは佐官服の男がある「言葉」を口にするのを聞く事になった。
それがルーンでないことはすぐにわかったので、アプリリアージェもその場を動こうとはしなかった。
「哀れな飼い犬よ。お前の本当の主人の言葉を伝える。『守るべき者を、今こそその手で殺せ』」
短い「言葉」だった。だがアプリリアージェは男が告げた単純な命令を耳にした時、初めて「その事」に思い当たった。
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