第二十七話 カラティアの指輪 4/4

「悲しくて泣くより、悔しくて泣くより、嬉しくて泣くというのは、当たり前だけど、いいもんだよな」

 エルデの大泣きを見て、思わずもらい泣きをしているベックが鼻声でそう言うと、その言葉を耳にしたエルデがクシャクシャの顔を上げて、ベックをひとにらみした。

「う、ウチは泣いてへんっ」

 それだけ言うと、エルデは再びエイルの胸でなきじゃくり始めた。

 その様子を見ていた一同は、思わず苦笑を漏らした。

「あの、こんな時に何ですが、一つうかがいたいことがあるんですが……」

 和んだ雰囲気の中でアプリリアージェがエルデに問いかけた。

「ずっと気になっているんですが、今日はずっとその……額の眼も開けたままなんですね?」

「あ……」

 エルデは指摘されて初めて気付いたように自分の額にそっと手を当てると、バツが悪そうな顔になってエイルと顔を見合わせた。

「戻らないみたいなんですよ……」

 エルデの代わりにエイルがそう答えた。

 エルデは恥ずかしそうに顔を背けて再びエイルの胸に顔を埋めていた。

 エイルの答えに、その場の全員が驚いた。

「戻らないって……いつからですか?」

 エルネスティーネが眉をひそめて尋ねると、エイルもエルデと同じように顔を背けた。

「えっと、夕べから……かな?」

「夕べって……あ……」

 質問した本人であるエルネスティーネの顔も何かに思い至ったのか、急激に赤くなっていった。


「おやおや。僕は相当に運が良い。こんなに穏やかで良いエーテルが満ちた場所は、そうそうないからね」

 突然、少年の声が食堂に響いた。

 だがその声の持ち主が誰なのかを、その場のほとんどの人間は瞬時に特定できた。

 和やかで賑やかだった食堂から瞬時に声が消えた。

 ほぼ同時に一同が振り向いた食堂の出入り口。

 その扉の前に、声の主はいた。

 それは紺色の僧服を着て青く光を反射するスフィアを頭頂部に持つなめらかな素材の精杖を手にした、金髪緑眼のアルヴィンの少年だった。


 全員の視線を浴びてなお全く動じた様子を見せない少年は、その中の一人に自分の視線を絡ませると、ゆったりとした口調で声をかけた。

「初めてお目にかかる。亜神の筆頭、《白き翼》を継ぐ者よ」

《蒼穹の台》ことイオス・オシュティーフェの姿を認めたエルデは、慌ててぐしゃぐしゃの顔を拭うと、エイルに小さく口づけた。

 そしてエイルが何か言おうとしたその口を人差し指で塞ぎ、微笑を作ると身を翻した。

「正確には初めてやないけどな」

 エルデはそう言うと自らも精杖を取り出した。

 二人は数メートルの間を開けて対峙していた。

「その姿形であったなら、さすがに初見で気付いていたのだが」

 イオスの口調に敵意はなかった。それはその場の全員が感じていて、当初の緊張感がややほぐれつつあった。とはいえ亜神同士の対面が何を意味するのかは誰にもわからない。不安はぬぐい去れぬままであった。

「そやから、気付かれへんようにしてたんや」

「うん。そうだろうね」

 イオスはうなずくとやや表情を和らげ、視線をエルデから外して後ろで控えている一同の方へ向けた。

「エウレイ」

 呼びかけられたエウレイは、その場で一礼するとイオスの前に歩み出た。だがエルデより前には出ない。横に並ぶこともしない。エルデから一歩下がったところでその歩みを止めると片膝をついて頭を下げた。


「さて、《白き翼》との話の前に、君に関する問題を処理しておこう」

 イオスはそれだけ言うと、扉を振り返った。

「入りなさい」

 エウレイはその言葉に思わず扉を凝視した。予感があったのだ。

 その部屋の全ての視線を集めた扉は、極めてゆっくりと開かれた。

 現れたのはデュナンの女を見た一同は、しかし無言であった。誰一人それが誰かわからなかったからだ。ただ一人を除いては。

 年齢は特定できないが、同じデュナンのベックには二〇代の後半に見えた。

 真っ赤な色をした豊な髪が特徴的な、姿のいい女性だった。

 イオスの口ぶりから、一同にとって未知の赤毛のデュナンがエウレイと関係があることだけはわかっていた。

 だから彼らの注意は、イオスとそしてエウレイに映った。何らかの紹介があるはずだと思ったのだ。

 だが、紹介はあっけない一言で終了した。そのデュナンを知るエウレイが、一同に対してその赤毛の女の名を口にしたからだ。

「ルネ!」

 エウレイが告げるその名を、一同はもちろん知っていた。だが、その言葉を理解する為には数秒を要した。いや、理解できない事を知る為に要した時間だと言い換えた方がいいだろう。つまりエウレイの言葉は一同に軽い混乱をもたらしたのだ。彼らの知るルネ・ルーとは、十二歳程度のデュナンの少女だったのだから。

 だが記憶の中のルネと比較すれば、合致する特徴も多かった。

 晩秋の山肌を染めるナナカマドの紅葉にも似た豊かに波打つ赤い髪。秋空のような青い瞳。

 そのつもりで見れば、表情にも面影がある。それは親子と言われればまさにそうかと納得できる近似であったが、それでも他人と呼ぶには髪の色と目の色が彼らの知る少女に似すぎていた。


「まさか……」

 最初に口を開いたのはエルデ・ヴァイスだった。

「ハロウィン、いやエウレイ。いいや《銀の篝》!」

 言葉と同時に部屋の空気が一変した。

 怒気と言うよりも、憎悪に近い感情が部屋を満たしたのだ。エルデが抑えていなければ多くの者がその場で震えだしていたことだろう。

 自分の名を呼ぶエルデの鋭い声を聞きながら、しかしエウレイは何も反応しなかった。

「お前、いったいルネに何をしたんやっ!」

 突き刺すようなエルデの言葉で、他の者もようやく自分たちの想像が正しい事を、その考えが現実のものである事を受け入れ始めていた。

 目の前のデュナンの女は、ルネ・ルー本人なのだと。

「いや……」

 エルデは目を閉じると怒りの表情を隠さずに言葉を突きつけた。

「これがルネの本当の姿やな? ほんなら、いったいお前はルネに何をしてたんやっ」

 その一言は一同の疑問に対するおそらく唯一の回答であった。

 ルネは何らかの……そう、間違いなくエウレイ・エウトレイカの力によって少女の姿を与えられていたのだ。

 その力が《蒼穹の台》によって消失させられた。

 そう考えれば納得のいく点も多かった。

 ルネの持つ大人顔負けの豊富な知識と旺盛な生活力、さらに言えば時折、いや頻繁に見せる子供らしくない考え方や立ち居振る舞いは、本来の年齢が二十代後半なのだとしたらまさに納得がいく。

 もちろんルネはいかにも子供らしい素振りはしていた。だがいったんそう思えば、その記憶がわざとらしさを纏って蘇ってくるのだ。


 ほんのつかの間の沈黙の後で、ほぼ同時に一同の視線がルネに集まった。

 だが、その赤毛の女デュナンがルネであるとすると、拭えない違和感がそこに存在していた。

 ルネと呼ばれた女は無表情で、自分の名を呼ぶエウレイをただぼんやりと見つめているだけだったからである。

 その青い瞳には、エウレイ以外の誰の顔も映ってはいなかったのだ。

 それでわかった。認めざるを得ない変化がもう一つあるのだと。

 体の変化だけでなく、ルネ自身に何かが起こっていたのだ。

「ルネ……」

 エウレイはエルデには一切かまわず、もう一度その名を呼んだ。

「私だ。わかるか、ハロウィンだ。ハロウィン・リューヴアークだ」

 エウレイは誰よりも早くルネの内部の異変に気づいていたのだろう。悲愴な声でそう呼びかけると、ゆっくりとルネに近づいた。一歩、二歩。

 イオスはそれを見ても制止はせず、何も言わなかった。

 呼び止めようとしたエルデの手も、途中で止まった。

 違和感と疑問と漠然とした不安で満たされた部屋に一歩だけ踏み入れたままのルネは、何かを思い出す為の鍵を見つけたのか、表情が少し動いた。そして名前をつぶやいた。エウレイが使う偽の名の一つを。

「ハロウィン……?」

「そうとも。私だ、ハロウィンだ」


 ルネのすぐ側までやってきたエウレイの手が、その頬に触れようとした時だった。イオスが静かな、しかし今までと違って鋭さを感じる声がその背中を貫いた。

「無駄だよ、エウレイ」

 声に反応して、エウレイの手が止まった。

「君だってもうわかっているんだろう? この子はもうルネ・ルーというデュナンの女ではない。水精ウンディーネだ」

 イオスの言葉がどういう意味を持つのか、その場にいた人間は誰も理解しえなかった。ただし、人間ではない一柱(ひとはしら)の亜神を除いて。

 もちろんエウレイこと《銀の篝》は人でありながらその意味を知っていたに違いない。

 彼は力が抜けたようにルネに伸ばした手をだらりと下げると、大胆な行動にでた。

「貴様は!」

 とっさの事だった。

 エウレイは身を翻すと、少し離れて立っていたイオスのところへ移動した。それは瞬きをする間もない瞬時の出来事だった。さらに驚いたのは、大柄なアルヴのエウレイが、小柄なデュナンの体を空中に吊り上げた事であった。しかも胸ぐらをつかんでいるのではない。エウレイはイオスの首を締め上げながらその体を宙に持ち上げていたのである。

「ファルド!」

 短いルーンの認証文が唱えられた。だがそれはイオスの口から発せられたものではなく、エルデが唱えたものだった。

 エウレイの手首に衝撃が走った。何かが叩きつけられたのだ。エウレイはたまらずイオスを締め付けていた手を離した。だが、奇妙なことにイオスは床に落下しなかった。

「頭を冷やせ、スカポンタン!」

 エウレイはイオスから視線を外すと声のする方を振り返った。そこには精杖ノルンを握って仁王立ちになったエルデの姿があった。

 精杖ノルンから、複数の植物の蔓のようなものが伸びて空中を浮遊していた。エウレイをおそった衝撃はその蔓が鞭のように伸びてきたものだったのだ。

「死にたいんかっ!」

 それは、その場にいた誰もが震え上がる程の剣幕だった。

 額で見開かれた第三の目が、ゆらゆらと燃えるように輝いていた。

 エウレイはそれを見ると床に崩れ落ちるように両膝をつき、がっくりと頭を垂れた。

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