第二十六話 旅の終わり 1/3
エルミナの朝市はいつものように賑わっていた。
やはり近海でとれた魚類や海産物を主な商品とする市場だが、河川を使った船の移送が発達しているウンディーネでは、内陸部からのワインや酪農製品の品揃えや量も予想以上に豊富である。
エルミナはヴォールの次に大きな国際港でもあり、南方からの生鮮食品が冬値、すなわち商人にとっては良い値で取り引きされる場でもあった。
そのエルミナの朝市の人混みに紛れるように移動する一団がいた。
彼らは一見するとエルミナの市をうろつく普通の客にしか見えない。要するにどこから見ても普通の服装をした、極めて普通の客であった。人の流れには極力逆らわず、自然に流れている四人組。それがその一団を表現する言葉の全てだ。
そんな、ほとんど目立たない彼らに、一つだけ不自然なところがあった。
何かを買うわけでも店を冷やかすでもなく、ただ歩いているだけなのだ。しかもすでに何度も市の中を回っていた。
彼らを注意深く観察した者がいたなら、時折見せる彼らの鋭い眼光や視線が、市の中全体に注がれている事などが見て取れたに違いない。
そんな集団が、実のところ市の中に複数あった。
その中の一つの集団に、さりげなく近づく人物があった。
「見張りが消えました」
周りの者はまず気付かない。本当に一人にだけわかる程の小さな声で、その男は一人のデュナンに話しかけた。
「気取られたか?」
「いえ、それはないと思います。もちろん断言はできませんが、見張りに当たっている人間は決まっていますし、彼らの素行を観察する限り、相手は普通の人間です」
話しかけられた男は小さくうなずくと、二、三指示を出して、近づいてきた男と別れた。
「どう思う?」
男は別の男に声をかけた。
「ドライアド軍と我々は、どうやら同じ情報を元に動いていたのではないでしょうか?」
「ふむ。それで?」
「ドライアド軍は、偽情報だと判断したのではないかと」
「それで撤退か。ならば俺達もそれに倣うか?」
「ジクス様」
もう一人の男が、名前を呼んだ。
そう。
男の名はシーン・ジクス。新教会(ヴェリーユ)の守備隊長にして僧正の位にある高位のルーナーであった。
「どうした、セラティ?」
「ドライアド軍は我々とは違う目的であの屋敷を見張っていたのだと私は思います」
「ふむ。理由は?」
「ドライアド軍の見張りには真剣さが足りません。エレメンタルが居る可能性がある場所を見張るのにたった一人の兵士、しかも正面のみというのは解せません」
「そうだな」
セラティと呼ばれた男にシーンは頷いてみせた。
「少なくともドライアド軍があの屋敷を見張る目的と我々の目的は違うものだと考える方が妥当でしょう。すなわち」
「すなわち、撤退するのはまだ早いという事だな」
「御意」
「うーむ」
シーンは小さく唸ると、そのまま口をつぐんだ。
シーン達がエルミナに居るのにはもちろん訳があった。
正体不明の人物から「お前達を斃(たお)した賢者は《二藍の旋律》《群青の矛》ともども風のエレメンタルを擁してエルミナの古屋敷にいる」という情報を得ていたのだ。
もちろん正体不明の人物からの極めてうさんくさい情報をシーンが盲目的に信じたわけではない。だが、最初に《二藍の旋律》と《群青の矛》の情報をもたらした人物と同一と思われる者からの情報であった事が、彼の中でその情報の信憑性を高めたのは確かである。
謎の人物が何者なのかはもちろん重大かつ重要な謎ではあったが、シーンはどうしてもハイデルーヴェンで戦った相手にもう一度会いたかったのだ。
ハイデルーヴェン城を吹き飛ばし、多くの新教会の僧兵を壊滅させた二人の瞳髪黒色に会って、そして問い質したかった。
「あの時、なぜ我々の命を奪わなかったのか」 と。
シーンたち新教会の僧兵が彼らにとっては完全な敵対勢力だった事は認識していたはずだった。
だが、シーン達は気絶させられただけなのだ。
外傷すらほとんどなく、ただ猛烈な疲労感に襲われて、数日間は床から起き上がることすら出来なかった。新教会が抱えるハイレーンの治癒などほとんど受け付けない特殊な疲労は確かに謎であったが、それだけである。
シーンが逆の立場であったなら、そんな温い事はしなかったであろう。禍根を残す事はすなわち将来の悲劇の温床である。だが、新教会はハイデルーヴェンで多くの人員を失わずにすんだのだ。
だからシーンはもう一度瞳髪黒色の二人に会い、その真意を知りたかった。
もっともそれはシーン・ジクス個人の思惑であり、新教会としてはあくまでもエルネスティーネの捜索が目的のエルミナ行きであった。
ヴェリーユの守備隊長であるシーン自らが捜索を指揮している理由は、要するにヴェリーユに於けるシーンの立場の失墜が原因である。
カテナ・ノルドルンド副堂頭はエルネスティーネを取り逃がしたのはヴェリーユの守備を預かる守備隊の失策だと決めつけ、シーンの隊長という地位を剥奪したのである。要するにカテナは新教会の重要な地位を、自分の都合の良い人間で固めたかったのである。
もとより折り合いの悪かった二人だが、シーンはその件で完全に副堂頭カテナに対しての敬意を喪失していた。いや、むしろ今では敵意を抱いていると言ってよかった。それに反比例するように自分達を生かしたままただあの場から逃げ去った瞳髪黒色の二人組への興味が日ごとに強まっていったのである。
「一度突っ込んでみるか」
シーンは後に続く二人にそう声をかけた。
「結界をぶち破って中に入るのは難しくはないが、問題はあの建物の中に人の気配がまったくしないことだ」
まともにぶつかっても前回の二の舞になる可能性が高い。だから出来るだけ慎重に事を運びたかったが、シーンとしても持久戦を構えるほどの余裕はなかった。ただ眺めているだけだという報告を続けるわけにもいかなかった。まずは屋敷の中に目標とする人物が本当に居るのかどうかを探り、居ないとわかれば次の行動に移る必要があったのだ。
「二、三潰しておきたい問題もあるが、様子を見る為に明日の夜には一度動く必要がありそうだな」
「では、いつでも取りかかれるように準備だけは進めておきます」
「頼んだぞ」
最初にシーンに声をかけた男は小さくうなずくと、すっと二人から離れていった。
「さて、副堂頭に連絡が行くのかな?」
離れた男が視界から消えると、シーンは口元を襟で隠すようにしながら、残ったセラティに声をかけた。
「私は悲観論者ではありませんが、まず間違いなく行きますね」
セラティも心得たもので、同じように口元を不自然にならないように隠しながら答えた。
「そう言えば、メラクは警護隊に召し抱えられたそうじゃないか」
「ほう、それは初耳です」
「私も今朝、報告を受けたばかりだ。今回の件に関わってこなければいいんだがな」
「ヤツはあの賢者に対して、私怨が強すぎますからね」
「そうだな。ややこしい事になる前に、ここは我々だけで押しかけてみるか?」
「私も同じ事を考えていました。これ以上長引かせるよりは、一定の確かな経過を早急に得るべきだと思います」
「『あの中』に何があるか、あるいは何もないのか……少なくともそれが確認できれば今のところは上出来だろうな」
「相手に警戒は与えてしまいますが、内憂を抱えている我々としてはむしろその方がいいのかもしれません」
口元を隠しての会話は、もちろん言葉を読み取られない為であろう。カテナ側の人間がシーンの動きを監視している可能性が高いという事だ。少なくともシーンとセラティはその可能性が高いと信じているにちがいない。
「明日の早朝に決行だ。二人だけになるが、いけるか?」
「二人なら大した準備も要りませんね。夜中のうちに簡単な精霊陣をいくつか構築しておきますよ」
「頼む」
そんな会話を続けながら、二人の僧正は市の人混みに紛れていった。
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