第二十二話 アイスとデヴァイス 3/4
視界に入る限りでは、誰も居ない。気配も……もっともエイルに感じるのは殺気だけなのだが……ない。
だが屋敷の仲間にはルーナーが四人もいる。姿と足音を消されたらエイルには感知はできないのだ。
それに、エルネスティーネとエルデが朝から一緒にいた事が、エイルには引っかかっていた。まさかとは思うが、もし二人がすぐ近くに居たとして、エイルの目の前でアプリリアージェが服を脱いだりしたら……。
いや、それだけではない。それだけならまだいい。アプリリアージェが事実を語らず、エイルの不利になるような証言をしてしまったとしたら……。
エイルは思わずゆっくりと後ずさった。アプリリアージェとの間にできるだけ距離を取ろうとしたのだ。いきなり逃げ出すわけにもいかず、それはその時のエイルにとっては最善の選択に思えた。
「お、お願いですから、これ以上話をややこしくしないで下さい」
アプリリアージェはそう言いながら後退するエイルを見て、にっこりと微笑んだ。
「何を怯えているんです? 言ったではないですか。私はエイル君の味方です」
「いや、それが恐いんですが……」
「確かに私の裸など、もう二度と見たくもないでしょうね」
アプリリアージェは珍しく微笑を解き、辛そうな顔でうつむいた。
「いや、そんな事ありません。確かに入れ墨には驚きましたけど、あれは最初だったからで……リリアさんは奇麗です」
「エイル君は優しい嘘つきですね。でもその優しさは相手を傷つける優しさです」
「え?」
「私の裸を見たでしょう? 入れ墨だけじゃなくて大きな醜い傷もあるんです」
「それでも、形とか……奇麗でした。傷なんか、オレは気にしませんから……」
うなだれるアプリリアージェが、苦しそうな声でつぶやく様子を見ているのが耐えがたかった。だからエイルは思わずそこまで言って、そして失敗した事を自覚した。
(しまった)
だが、すでに口にしてしまっていた。
「だから」
アプリリアージェは顔を上げた。
「エイル君のそういう無責任に優しいところが、話をややこしくしているんですよ」
表情はいつもの通りのアプリリアージェだった。柔らかく、優しく微笑んでエイルを見つめていた。
「だからネスティがエイル君の事を好きになるのは、時間の問題だったと思います。大きなきっかけなどは必要ないでしょう。長く一緒に行動していて、エイル君のそんな優しさを受け止め続けたら、少なくとも嫌いにはなれません。ましてやネスティはあの通り、かなり情熱的な本性を持つ女の子です。私も驚きましたが、アルヴ族には珍しい程の激しい気性の持ち主ですね。しかもまっすぐに対象物に向き合える勇気もある。もっともエイル君の本質がつまらない男ならああいう状態になったかどうかは不明ですが、あなたは無防備に他人……いえ、自分が仲間と認めた者には命を投げ出せる人間です。まっすぐで情熱的なネスティの心があなたに傾かない方が不思議でしょうね」
「いや……」
「勘違いしないでくださいね。私は褒めているわけではありませんよ」
「え?」
「言ったでしょう? あなたの優しさは無責任で残酷なんです。しかもその事に気付いていない。もしくは気付いていても修復の為に動こうとはしない。だからややこしくなる。だからその結果としてあの二人は苦しんでいる。違いますか?」
アプリリアージェが言わんとする事は、もちろんエイルにもわかった。
でも……いや、だからといって今更どうしたらいいのかがエイルにはわからなかった。エルネスティーネはともかく、エルデとは話も出来ない状況になっている。
絡まった糸は、もうエイルには解くきっかけすら見つけられないほど複雑に絡み合ってしまっていたのだ。
「だったら、オレはどうしたら」
苦悩の色をその表情に浮かべるエイルに、アプリリアージェは優しい声をかけた。もともとなじるような物言いではなかったが、その言葉は特に優しい響きを持っていた。
「だからさっきから言ってるじゃないですか。私はあなたの味方です、と」
「あ……」
「この状態は、言ってみれば戦争のようなものです。だとすれば戦況の分析をして、その後で私はエイル君に効果的な打開策を提案する事が可能ですよ」
「打開策が、あるんですか?」
「それはエイル君次第です。私を軍師として信じるか、信じないか。将に信任されていない軍師ほど空しいものはありません。また愚かな将は軍師の言葉に聞き耳を立てないものです。エイル君はどうしますか?」
「それは……」
「今のままでいいのですか? この状態のままで《蒼穹の台》を待つつもりですか?」
アプリリアージェはそこまで言うと、口を閉じた。
後はエイルの返事を待つ……。そんな眼差しで、じっとエイルを見つめた。
微笑んだままで。
そこへ一陣の風が吹き渡った。
毎日この時間に吹く、比較的強い風が刈り取られていない芝を撫でて通り過ぎていった。目に見えないはずの風が、その確かな軌跡を芝の海に映しながら。
風を孕んでふわりと広がったアプリリアージェの黒い髪が、元通りに戻るのを見届けると、エイルは気持ちを決めた。
「わかりました」
エイルはアプリリアージェの軍門に降る事を決めた。いや、軍師として正式に招聘したと言うべきだろうか。
「味方として、オレに打開策を教えて下さい」
そう言う、エイルはアプリリアージェに深々と頭を下げた。
「ふふふ」
嬉しそうにアプリリアージェは笑うと、踵を返して再び歩き出した。
エイルは黙ってその後を追った。
そこから二、三分も歩いただろうか。
背の低い灌木の林を抜けると、目の前に多角形の屋根を持つ休憩小屋が現れた。
広大な庭に点在する休憩小屋の一つである。直径がざっと十二メートル程の屋根と腰板と柱で構成された空間が一つあるだけの、簡素な小屋は、つまり窓に当たる部分が空間になっている。風がそのまま通り抜ける構造である。
屋根も部屋の形も、柱の数も十二であった。入り口は二カ所あり、内側は壁に沿って全面に長椅子が作り付けられていて、中央にテーブルと、その周りにも長椅子があった。
おそらくは広大な庭を散策する途中に休憩する為の場所であろう。驟雨が多い土地だから、雨やどりにも絶好の場所である。壁の部分が開放されている構造の小屋なので、風と共に雨が入り込むのは防ぎようがない。しかしそれでも部屋の中央に陣取れば充分な避難場所になるだろう。小屋の内部はそれだけの広さが確保されていた。
その休憩小屋の一つが、アプリリアージェが言う目的の場所らしかった。
「ではさっそく」
そのまま休憩小屋に入ったアプリリアージェは、中央にあるテーブル用の椅子に腰掛けると、エイルを壁沿いの長椅子に座るように促した。
「それでは、打開策を教えましょうか」
まるで誰も解けなかった謎かけの解答を披露するような得意げでいたずらっぽい笑顔を浮かべて、アプリリアージェはそう言った。
「複雑になったのならば、単純にしてしまえばいいんです」
エイルは無駄とは知りつつ、笑顔の向こうにある思惑を探ろうと、アプリリアージェの緑色の瞳をじっと見つめた。
だが、予想通り何の変化も見出せはしなかった。
「今の状態は、当事者だけでなく、周りにとっても相当迷惑な事になっています」
ゆっくりとした口調で、アプリリアージェは言う。
「すみません」
「今ここで私に謝って貰ってもどうしようもありません。それよりだからこそ私は積極的に介入しようと思います。ただし、エイル君の味方として、です」
そして、打開策は実に簡単な事だと言った。
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