第二十二話 アイスとデヴァイス 4/4
「単純化する。それだけのことです」
アプリリアージェはそう言うと立ち上がって休憩小屋の屋根を見上げた。
「知ってますか? あのお屋敷を中心として、半径五キロに、こういう休憩小屋が三十カ所もあるんですよ」
「え?」
「そう。半径五キロだけですが、全て調べは終わっています。簡単な地図も出来てます」
事も無げにそう言うと、アプリリアージェは隠しから一枚の羊皮紙を取り出した。
「この休憩小屋は便宜上、一号小屋と名付けました」
差し出された羊皮紙は、アプリリアージェの言うとおり、地図であった。等高線が引かれたような本格的に測量された地図ではないが、屋敷からの位置関係と三十棟あるという休憩小屋はもちろん、小川や井戸の位置、大まかな植生と土地の傾斜や高低がわかるような記述がなされており、立派な地図であった。
ともすれば忘れてしまいがちだが、アプリリアージェ達はル=キリアである。
このくらいの調査は文字通り朝飯前でやってしまえそうだった。
「これをエイル君に渡しておきます」
エイルは言われるままに地図を受け取り、もう一度じっくりと見渡した。
すると、今居る一号小屋と名付けられた場所に、文字が書かれていた。
ファランドールのアルファベットで「A」の一文字が見える。
顔を上げたエイルに、アプリリアージェはにっこりと笑いかけた。
「わかりましたか? ここは『A』です。こことは別に、もう一つ文字がある小屋があります」
エイルは視線を地図に戻すと、アプリリアージェに言われたもう一つの小屋を探した。それはすぐに見つかった。数字がある。十五号小屋である。一番小屋とは屋敷を挟んでちょうど反対側に位置する小屋であった。要するにお互いにもっとも遠い位置にある小屋同士ということになる。
その十五番小屋の側に「D」の文字があった。
「さて」
アプリリアージェは楽しそうに笑った。
「『複雑な現状を単純化すればいい』という私の提案に対して、エイル君はどう動きますか?」
アプリリアージェから提示されたのはその言葉だけではない。地図や、今までの話の内容が全て鍵なのだろう。
だが、エイルにはアプリリアージェが用意した最終的な戦術が皆目わからなかった。
「では、単純化するための極めて簡便な戦術を私は提示します」
「簡便な……戦術?」
「ええ」
アプリリアージェはうなずいた。
「どちらか一人を選びなさい」
そもそも複雑な状態になどなってはいないのだ。
アプリリアージェのその一言を聞いて、エイルはそう思い至った。
「簡単でしょう? これ以上簡略化することはできないほど、戦術としては完璧です」
複雑だと思っていたのは、そう思い込むことによって行動を先送りする口実を作っていただけのことなのだ。
だが……。
「わかっているようですね。簡単な事でしょう? 二つに一つです。第三の選択はありませんし、選択しないという選択肢もありません。問題はこの期に及んでエイル君が逃げの一手を打つ事と、相手のことを考えてしまう事、でしょうか」
「相手のことを考えてしまう?」
「そうです。この作戦が成功する大前提は、エイル君が自分自身の気持ちに正直になる事。それにつきます。さっきも私はいいました。相手に対する優しさや思いやりは、今回は封印して下さい。相手のことなどこれっぽっちも考える必要はありません。むしろ考えてはいけません。エイル君はエイル君自身の気持ちが指し示す方を選べばいいんです。さもないと……」
「さもないと?」
「三人とも幸せにはなれません。これは断言できます」
アプリリアージェはそれだけ言うと、エイルに近寄り、左の棟を人差し指で突いた。
「あなたの素直な気持ちだけが、この簡略化された戦争の唯一の正解なのですよ」
エイルは改めて広げた地図を眺めた。
AとD。
「文字を見ても、たぶんわからないと思いますよ」
アプリリアージェは悩んでいるエイルにそう声をかけた。
「明るい月、AIS。そして暗い月、DEVAIS。AとDは、それぞれの頭文字です」
思わず顔を上げたエイルに、アプリリアージェはうなずいてみせた。
「そうか……」
「ええ、そうです。便宜上数字で呼ぶ休憩小屋ですが、そのうちの二つだけ、名前をつけました。ここ、一号小屋の名前はアイス。そして十五号小屋の名前がデヴァイス。つまりアイスにはネスティが、そして反対側のデヴァイスはエルデがいる小屋です。あなたは今夜、アイスかデヴァイスを選び、そこであなたを待っている人をしっかり抱きしめるのです。逃げようとしても逃がさないように、しっかりと、ね」
戦いの開始は夕食後で、その期限は明け方までだという。夕食には二人は顔を見せず、各々の小屋へ向かう。
言い換えるなら、エルデには夕食を終え、明け方までは悩む時間が与えられた事になる。
迷う時間ではない。
どちらを選ぶのかを迷うための時間ではないのだ。
自分の気持ちをどう伝えるのか、どう告げるのかを悩む時間だと言えた。
一見茶番だと思えるようなこの「勝負」だが、エイルはそれを拒否するつもりは毛頭なかった。
決める日がやってきたと言う事なのだ。
いや、エイルにとってそれは願ってもない機会に思えた。
「すみません」
だから思わずそんな言葉が口をついた。
「何もかもお膳立てしてもらっちゃって……オレが不甲斐ないばかりに」
アプリリアージェはそう言うエイルの胸を、もう一度指でトンと突いた。
「エイルの本気を受け入れる事。敗者は泣こうがわめこうがいくら悲しもうがかまわないけれど、誰も恨まないこと。そして明日の朝食のテーブルにはちゃんと着くこと。それがネスティとエルデが取り交わした了解事項です」
Aはアイスの頭文字。
アイスは明るい月。真っ白な肌に輝く金髪。そしてよく晴れた日の南の海のような翠の瞳。シルフィードの宝石と言われた笑顔はまさにアイスの座にふさわしい。
そしてDはデヴァイスの頭文字。
黒い髪と瞳は、まさにデヴァイスの化身そのものだ。
ネスティのNとエルデのEにしなかったのは、アプリリアージェに詩的な感性があるからなのかもしれない。
「エイル君、あなたはそんな二人の事を考える必要はありません。ただ自分自身に対して真摯であればいいのです。それこそが彼女たちの望みなのですから」
「わかりました」
エイルはそう言うと地図を畳んで立ち上がった。
「しばらく一人で悩んでみます」
アプリリアージェはうなずくと、開いた窓越しに空に視線を向けた。
「今夜は双望月(ならびもちづき)です。きっと良い夜になりますよ」
アプリリアージェの予報は外れた。
夕食が終わる頃には、雨が降り出したのだ。
エルネスティーネは「アイス」と名付けられた休憩小屋の長椅子に座ってじっと雨が屋根を打つ音を聞いていた。
待つだけだった。
そして待つ事の恐ろしさを、生まれて初めて味わっていた。
来れば……姿を見せてくれさえすれば、そしてそれが確実なのであれば、たとえ何日でも待てるだろう。
だが、その勝負の恐ろしいところは敗者は夜明けまで一人で待ち続けなければならないという点にあった。
夜が明けて、それでもエイルが姿を見せなかった時。それが敗北の瞬間である。
だが言い換えるならば、その時まで自分の負けを認めなくてもいいのである。だがそれは甘美な仮面をかぶった拷問に違いなかった。
自分から言い出したやり方であったが、エルネスティーネは開始から一時間も経たぬうちに、もう後悔をし始めていた。
だが、その時である。
エルネスティーネの耳には雨音とは明らかに違う、別の音が届いていた。
水をたっぷりと含んだ土を踏む足音。
それは小走りに駆けているようで、入り口に顔を向けた時には、その人物の姿はもうそこにあった。
エイル・エイミイ。
間違いない。それは待ち焦がれていた顔であった。
「ネスティ……」
「エイル!」
大好きな人の名を叫ぶと、その胸をめがけて体ごと飛び込んだ。エルネスティーネにとって大きく太いエイルの腕が、小さく、そして柔らかい体を優しく受け止めた。
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