第十七話 化け物の正体 2/3

「ウチは知ってる。明日からもエイルは今まで通りウチに冗談言うたり、優しい声をかけてくれたりするって……おおきにな……でも、かんにんや。たぶんウチはもう、耐えられへん」

 エルデはそう言うと、片手を伸ばして空中に浮いたままの精杖ノルンを呼び寄せた。

「それでも、悪いけどあとしばらくは一緒に居らなアカンしな……ほんとは『あの時』にこうせなアカンかったんや」


 エルデは誰にいうでもなく、つまりは独り言のようにつぶやくと、精杖の頭頂部を自分の額に当て、聞き取れないほどの小声でルーンを唱えた。

 一体エルデが何のルーンを唱えたのか、つまりは何をしようとしているのかは、本人以外の誰にもわからなかった。

 短いルーンの詠唱が終わった後、エルデが耳を覆いたくなるようなうめき声を上げると、すぐに部屋中に肉の焼けるような匂いが漂った。

 それでエイルは気付いた。

 エルデが「しでかした」事を直感的に悟ってしまったのだ。

「エルデ、お前」

 一度は一歩後ろに下がったエイルだったが、今はためらわなかった。腕の痛みに顔を歪ませながら、ゆっくりとエルデに近寄って行った。

「お前、まさか」

 エイルは自分の予測が間違いない事を確信していた。

 エルデならきっとそうするだろう。そして自分がエルデなら、間違いなくそうするだろうことを、きっとエルデは「やった」のだ。

 エルデの目の前でゆっくりと膝をついたエイルは、床に散らばっていた豆に気付いた。エルデから視線を移し、それを指でつまんだ。

 一粒……そして二粒。

「お前さ、これが……この豆がなんだか知ってるか?」

 床に散らばっている小さな豆……。それはベックが気を利かして積み荷に追加したものだった。そしてその事をエイルは林檎を調達する際にベックから知らされていたのである。

 だから楽しみにしていたのだ。エルデが眼を覚ますのを。

 エイルが部屋に戻った時に上機嫌だったのは、上等な林檎を手に入れた事ではなく、むしろこの豆の事を知ったからだった。

「うん……」

 エルデは足下に散らばる黒っぽい小さな豆を見て頷いた。

「かんにん……ウチ、もう『ぜんざい』の味、わからへんようになってもうた」

 その一言で、エイル以外の一同は理解した。エルデがルーンで何をやったのかを。

「ちくしょう!」

 エイルは動く方の右手で床を叩いた。

 その振動で左腕に激痛が走った。だが、そんな痛みはもうどうでもよかった。

 ただ空しく、悲しかった。

 エルデは間違いなく自分の嗅覚と、そしてセリフから察するに味覚をも「潰した」のだ。匂いから判断してルーンを使って両方の受容体を焼き切ったのだろう。おそらくそれが一番手っ取り早い方法なのだ。

 エイルの記憶が正しければ、味覚や嗅覚の受容体は口腔内だけで無く、一部食道にまで分布しているはずであった。つまり結構な範囲を炎で削り取った事になる。さしものエルデが獣のようなうめき声を上げたのも無理からぬ事なのだ。むしろそれに耐えている事実に驚きを禁じ得ないと言うべきであろう。


「何という事を……」

 エルデがやったことにエルネスティーネも気付いた。だがそれ以上言葉が出なかった。そもそもかけるべき言葉など見つからなかったのだ。

「元に戻っただけや。それより、遅なってごめん」

 エルデは涙声のままそう言うと、ノルンの頭頂部をそっとエイルの肩に当て、ゆっくりとルーンを唱え始めた。



********************



 エルデは一人になると、新しくあてがわれた部屋の隅で膝を抱えてうずくまった。

 こらえていた涙が再び頬を濡らした。

 ぼんやりした視界に右手が映った。その中指にはめられた指輪にそっと呼びかけ、精杖ノルンに変化させると、頭頂部に光る小さな赤い石を見つめた。

 だが、ルーンは唱えなかった。

 しばらくの逡巡の後で、瞳髪黒色の亜神は小さく首を左右に振ると精杖を再び指輪に戻し、うつむいて膝を抱えた。

 狭い船室が、エルデには監獄の様に感じられていた。

 勿論自分の意思で、その船室からはいつでも自由に外には出る事ができる。扉を開ければいいだけだ。だが、その扉の取っ手に触れる勇気は、エルデにはなかった。

 いつまで経っても消える事のない呪いの言葉が、エルデの両手を枷に架けていたのである。

 化け物……

 エイルの声によるその呪言が、エルデの心を静かに石化させていくようであった。

 かつてヴェリーユの宿の一室でアプリリアージェに同じ言葉を投げつけられた事があった。同じ言葉にもかかわらず、アプリリアージェのそれはエルデを縛る力を持たなかった。だが、エイルの口から発せられたものは、計り知れない重力でエイルを押しつぶそうとしていた。

「ぐ……」

 エルデは嗚咽ではなく、笑い声を上げたかった。

 自分を嘲笑したかったのだ。そうすれば少しは心が軽くなるような気がした。

 しかし、漏れたのは乾いた、意味をなさぬ濁った短い声だけであった。エルデはそれで悟った。呪いが許すのは、いや、自分が許されているのは泣く事だけなのだと。



 エルデの強力な修復ルーンにより骨折が完璧に修復したエイルは、術後にかけられた睡眠ルーンで眠りについていた。

 その場で意識を失ったエイルをそのまま軽々と抱き上げて船室のベッドに運んだエルデは、さっそく「事件」の後始末にかかった。

 具体的には惜しげもなく様々なルーンを一行に披露してみせたのだ。

 まず白い炎で自らを焼いた。それを見ていた一行はさすがに驚いたが、それが洗浄ルーンだと知って胸をなで下ろした。エルデが思いあまって自害するつもりかと思ったのだ。

 高位ルーナーの中には、自らの老廃物や肌の汚れなどを除去して清潔に保つ事ができるルーンを使う者もいる。エルデならそれもお手の物だった。

 自分の体から血の跡を消したエルデは、次に食料庫の状態回復に当たった。

 同じく洗浄ルーンの一種を使って床に広がった血液を消滅させ、エイルの時と同様にベックの体を軽々と担ぎ上げ、いったんベックに割り当てられていた船室のベッドに横たえた。

 一行が改めて驚いたのはその後だ。エルデはしばらくベッドのつくりを吟味していたが、何かに納得するようにうなずくと、いきなりベックが眠っているベッドごと持ち上げたのだ。

 ベッドの強度を調べつつ、力をかけても問題無い位置を探り当てると、エイルはベックが横たわったままのベッドを持ち上げて見せたのだ。しかも盆を掲げるように片手で、である。

 それを見て言葉を失っている一行を尻目に通路に出ると、そのままエルデの部屋に入ってエイルの隣にそのベッドを設置した。

 同時に看病ができるからというのがその理由だった。確かに合理的な措置だと言えたが、それ以前の問題に一行はだ度肝を抜かれていた。

 エルデはそれまで、自分が普通の人間と違うように見られる事を極力避けていた。当然と言えば当然だろうが、ここに来てわざわざ自分の特殊性を見せつけるような事を続けているように思えた。

 以前のエルデなら、エイルやベックを運ぶ際には膂(りょ)力のあるアルヴのファルケンハインやティアナに頼んだに違いない。

 ベッドを移動するなら、あらかじめ手順を告げ、先に空のベッドをエイルの部屋に運んだあとで、ベックをそこに運べばいいだけだ。

 ルーンにしてもそうだ。洗浄ルーンなどは今までは誰も見ていないところで行っていたのだろうに、わざわざ一行の目の前でやってみせた。

 部屋中に散らばった豆の始末も同様である。ほうきとちり取りを使わず、ルーンで小さなつむじ風を複数発生させ絶妙の制御で一カ所に集め、そのまま炎のルーンで灰にした上で全体を圧縮させた。あとは親指大にまで凝縮された石ころのような個体をつまみ上げ、ゴミ箱に放り込めば終わりであった。

 惨状とも言える状況にあった食料庫がすっかり綺麗になると、エルデはエルネスティーネとファーンにこの後のエイル達の看病を頼み、「少し休みたい」と言って自分の部屋の扉を閉ざしたのである。

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