第十七話 化け物の正体 3/3

 船室で起こったこの一連の「事件」に立ち会っていない者が何名かいた。

 アプリリアージェとテンリーゼンは甲板で「操船」に当たっていた為に騒動を知らなかったし、エウレイもアプリリアージェと話をする為にそこにいた。

 アプリリアージェとテンリーゼンは、風を作り、それをまっすぐに船の帆にぶつけ、一直線に、しかも高速に船をエルミナへ向けていた。

 操船ができる風のフェアリーは三人いたが、二人ずつ交代でその作業に当たる事で、一人が休憩出来る割り振りになっていたのだが、予定の時間よりもずいぶん早くファルケンハインが甲板に姿を見せた。

 アプリリアージェは敏感に異変を察した。

 いや、ファルケンハインの表情を見れば、アプリリアージェでなくとも船室で何か問題が起こった事を察したであろう。


「よいのですか?」

 アプリリアージェは間を置かず、エウレイに席を外すように頼んだ。それを受けたエウレイが何も言わずに船室へ下りていくのを見送ったファルケンハインは、まずそう訪ねた。

 アプリリアージェは笑って答えた。

「ただの世間話をしていただけです。大賢者様は『お仲間』、特に『四聖』さまの近くには居辛いので、ここへ逃げ込んでいただけですよ。向こうは暇つぶしでしょうが、私としては集中力が欠けることこの上ないので、いい加減鬱陶しいと思っていたところなので助かりました」

 アプリリアージェはそう言ったが、ファルケンハインには、かつての図書館長、そして少し前まで呪医であったハロウィンと、正教会(ヴェリタス)の人間、エウレイ・エウトレイカ……いや大賢者銀の篝(しろがねのかがり)に対するアプリリアージェのあからさまな態度の違いに、二人の間に生じた大きな溝を実感していた。

「それで?」

 アプリリアージェに促されてファルケンハインは言いにくそうに口を開いた。

「実はその……本来ならば正教会(ヴェリタス)の最高位に有るべき人物……いや存在に関する事です」

 アプリリアージェの緩い顔が、その言葉を聞いて少し引き締まる方向に変化した。

「リーゼ、お願い」

 アプリリアージェの呼びかけに、テンリーゼンは小さくうなずいた。それは風の制御をしばらく預けるという意味である。込み入った話だと悟ったのだ。

 操船が一人になるという事は、単純に二人分の風力が一人分に減るという単純な話ではない。

 それまで二人は、それぞれ分担を分けて操船を行っていた。一人が追い風をつくり、もう一人が乱流制御を行って進路を微調整するのである。そうやればある程度は舵を使う事なく船を進められるのだ。一人になるということは、つまり進路の微調整が出来なくなる事を示している。あとで舵を使い進路制御を行う必要があった。

 完全な追い風を作り出せる風のフェアリーがいれば帆の調整がほぼ必要なくなる。とはいえ船は風だけに動かされているわけではない。潮流の影響を大きく受けるのだ。だから単純にただ風を吹き付けていればいいというものではない。つまりその為の制御役なのだが、その制御が無くなったわけである。

「大丈夫。速度を落とせばリーゼ一人で制御もできます。知っているでしょう?」

 チラリとテンリーゼンの方をみたファルケンハインにそう言ったあと、アプリリアージェは改めて報告を促した。


「腕をへし折ったんですか」

 一通り話を聞いたアプリリアージェは、珍しく表情に陰を作っていた。

「あっという間に癒着・再形成されていましたが、高熱が出ていますね。今は体を回復させる為にエルデがかけた睡眠ルーンで眠っています。ベックは頭皮を修復されているので失血による失神から目覚めれば、後は無理に体を動かさず、血になるものでも食べていれば大丈夫だと」

「まあ、そちらはファーンがついているから心配はないでしょう」

 アプリリアージェはそう言うと困惑したような表情のままで考え込んだ。

「そちらは、というと、むしろエルデの方が心配ですか?  確かに今回の事は相当に参っているようでしたが」

「いえ、エルデは大丈夫でしょう」

「というと?」

「味覚と臭覚を自ら切り捨ててまで我々と、いやエイルくんと一緒に居ようとしているんです。きっと妙な事はおこしませんよ」

「なるほど」

「それに彼女は亜神です。人間より遙かに精神力も強い」

「言われてみれば確かにそうですが……」

「そうね。エルデを見ているとそうは思えないところも多いです。だからたぶん、ですけどね」

「では、何か別に心配事でも?」

「いえ。どちらかというと心底怖ろしくて、そして心からホッとしている、と言ったところです」

 アプリリアージェが言おうとしている事が理解できなかったファルケンハインは、説明を求めようとしたが口をつぐんだ。

 目の前の小柄なダーク・アルヴが背伸びをしながらファルケンハインの首筋に手を伸ばしてきたからだ。

「腕で良かった……」

「え?」

「ここが折れていたら、即死ですよ。いくらハイレーン、いやエルデでも死人を生き返らせる事はできない……それはわかっていますね?」

 心底怖ろしくて、心の底からホッとした……アプリリアージェの言葉の意味がようやくわかった。

 多くの場合、捕食者はまず獲物の息の根を止めてから「食事」を行う。

 獲物が小さな場合はそのままかじりつくのだろうが、大きな場合は相手の動きを封じるのが自然だろう。

 つまり亜神も人間を襲う場合は生きたまま、抵抗を受けながらの食事よりも動きを封じてからじっくり「味わう」のではないか? 

 だがエルデは腕の動きを封じただけだった。

 普通に考えるなら高い確率でエイルは既に生存しておらず、正気に返ったエルデは事実を知り、再び正気を失う可能性があった。

「エルデはまだ誰も人を襲った事はないと言っていました。だからエイル君は助かったのかもしれませんね。捕食者として未熟で狩りのやり方に合理性を欠いていたという事でしょう」

 心底怖ろしい事とは、エイルが殺され、我に返り自分のした取り返しのつかない罪にエルデが心神喪失でもすれば、犠牲はエイルだけでは無かったかもしれないという最悪の事態を想像する事。

 心の底からホッとしたのは、もちろんエイルが助かりエルデもすぐに正気に戻り、その意識のある時の強い精神力で血まみれのベックを見ても同じなかった事。


 ファルケンハインはそこまで思いを巡らせると、もう何も言えなかった。

「ファル、知っていますか?」

「え?」

 アプリリアージェはファルケンハインの首から手を離すと、その指で自分の唇を指さした。

「味覚と臭覚の受容体は、損傷したら再生しないのですよ」

「なるほど……」

「でもそれは一般論。不可能を可能にできるエルデの治癒再生ルーンならたぶん再生可能でしょう。でも、彼女は決して受容体を修復しないでしょう。悲しい事ですが、嗅覚と味覚を二度と手にするつもりはないに違いないと私は思います」

「あ……」

「ベックの件を見てもわかるように、今のエルデなら、意識がある時は本能を制御することができています。だから私は今の今までエルデの危険性を失念してさえいました。私が忘れるくらいですから、エルデ自身も大丈夫だと思っていた事でしょう。でも眠っている時はどうしようもない……盲点でしたね。そしてエルデはその事に気づいたのですから、あとはもう、そうするしかないでしょう?」

「他に何かいい方法はないのでしょうか?」


 ファルケンハインが甲板に姿を見せた理由は、勿論今起こったばかりの重大な事件を報告する為である。だが、彼は期待していたのだ。アプリリアージェなら、何かいい知恵を持っているのではないのか、と。いや、持っていて欲しいと。

「今言ったとおりです」

 だが、アプリリアージェは事も無げに答えた。

「え?」

「私なら、目が覚めたら受容体を修復して、寝る前に破壊します。毎日それを繰り返せばいいだけです。痛みを感じなくするルーンをかけておけば、苦痛もありませんしね」

 確かにそれは合理的で「いい知恵」だと言えた。

 同時にアプリリアージェはエルデは絶対それをしない、と否定していたのだから、つまり「方法」などという言葉を使う事自体がお門違いなのだ。

「エルデの心の問題だと?」

「さあ。私はエルデではないのでわかりません。ただ、話を聞いていると、エルデはエイル君と一緒に居る限り、この後も何かある度に自分を壊していくしかないでしょうね」

「そんな」

 言いようのない沈鬱な影がファルケンハインの胸に広がった。だが、アプリリアージェはエルデの話題をそこで打ち切った。

「それはそうと、ネスティの様子はどうですか?」

「ネスティ……ですか?」

「目の前で亜神の捕食行動を見てしまったわけですからね。しかも捕食されているのはどうしようもなく惚れてしまっている相手ですよ」

 確かに改めて指摘されるとその通りだった。

 だがエルネスティーネはベックの部屋に姿を見せた時には、取り乱してはいなかった。ただ、涙を流した跡はあった。

「そうですか」

 ファルケンハインの答えに対してアプリリアージェは短くそれだけ言うと、黒髪を翻して風上に顔を向けた。そしてそれ以上、エルネスティーネには言及しなかった。

「私がもう少し優しい女なら……エルデの代わりに大声で泣くのでしょうね」

 ファルケンハインはアプリリアージェの独り言を聞こえなかった事にしようと決めた。

 彼が知るアプリリアージェは、それこそ悲しくなるほど優しい人間だった。しかし、かといって「そんな事はない」と独り言を否定するつもりは毛頭なかった。

 アプリリアージェの優しさは違う種類のものなのだ。

 それに……。

 黒い髪を風で乱しながら風を読んでいるアプリリアージェの後ろ姿は、ファルケンハインの目には泣いているようにしか見えなかった。

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