第十五話 フラウトの三人 2/5

 エスカ・ペトルウシュカはエッダで起こった例の大葬の混乱の中でマルク・ペシカレフを船に乗せ、後の事をフェルン・キリエンカに任せてなんとかドライアドに送り出した後、自身はリンゼルリッヒ・トゥオリラを従えて、ここ、すなわちウンディーネ連邦共和国北部にあるフラウト王国に滞在していた。

 名目は頭部に負った大怪我の治療および療養の為である。頭部の怪我とは勿論、右目を失った際に勢い余って傷つけた眼窩の損傷の事であるが、そもそもその傷は既に癒えていた。

 フラウト王国を選んだ表向きの理由は頭骨修復に長けたハイレーンが複数存在するというものであったが、実態はフラウト王国の現王、リムル二世がペトルウシュカ家の傍系であり、交流が深かったからである。

 いや、端的に言ってフラウト王国とはエスタリアがウンディーネに作り上げた橋頭堡であった。

 その領主リムル二世は、王と言えば聞こえがいいが、要するに城塞に囲まれた都市国家のエスカの息がかかった元締めであった。

 ウンディーネ連邦共和国を構成する都市の中には、フラウトのように王国を名乗る小国家がまだいくつか存在していた。だが、それらに於いても国の実権を握るのは国王ではなく産業を牛耳る団体であるのが常で、事実フラウトも有力な数人の流通役、すなわち商人によって都市は運営されていた。

 他の小国家とフラウトが大きく違うのはただ一点。国王その人が大商人でもあった事である。

 フラウト王国は港湾都市ヴォールにほど近い内陸部に位置し、表向きは岩塩の採掘・精製を主な産業としている小国家である。国王リムル二世はその岩塩の採掘権を全て握っていたのだ。

 数年前に父王リムル一世から国を引き継いだリムル二世はアルヴの血が入ったデュアルだったが、外見は完全にデュナンで、見た目ではアルヴの血が入っている事はわからなかった。

 エスカはそのリムル二世とは幼少の頃から親交があり、アキラが通された応接間とも居間とも言える居心地のいい部屋は一応客間という事になっていたが、実際は大きいとは言えないフラウト王宮に作られたエスカ専用の部屋の一つであった。

 つまり、壁紙も絨毯もカーテンも照明も調度も、エスカの趣味なのは当たり前だったのだ。なぜなら全てエスカが取りそろえたものだからだ。


 アプリリアージェ一行を見送り、メリド・ジャミールとゾフィー・ベンドリンガーをそれぞれ無事に送り出した後、アキラはミヤルデ・ブライトリング中尉とセージ・リョウガ・エリギュラス少尉を従えてフラウト入りしていた。

「それで、どうするつもりだ?  俺の方は副官が女房と一緒に横に居ても一向にかまわんぞ」

 エスカは新しいワインの瓶に手を伸ばしているアキラにそう言うと、自分も空になったグラスにワインを注いだ。

「俺よりもお前の婚儀が先だろう?」

 エスカはミヤルデの話を聞いてからかっていたのだが、アキラにとってはそのからかいすら心地よいものだった。

 そのからかいにアキラが返した言葉が意味するものはニームとエスカの婚儀ではなく、正式な、つまりは正妻の件だった。

 だが、エスカはニヤリと笑うと切り返してきた。

「そうできるようにお前が働いてくれるなら、そうなるだろうぜ」

 それはどちらともとれる発言だったが、アキラは真意をただすつもりはなかった。それは今すべきことではない。ニームに対してのエスカの気持ちに嘘偽りがない事をアキラはもう理解していたし、ニームが正妻に収まらない事もわかっていた。だからといってエスカの正妻についてアキラが言及する事は何一つない。

 補佐役の立場とすれば、外交上は正妻が居た方が何かとやりやすいのは確かである。だがその正妻が誰でもいいわけではない。エスカが見据えるのは数ヶ月先に起こるであろう戦いだけではない。その先の先を考えているはずである。いや、考えていなければならなかった。だからこそアキラはエスカの思惑を尊重するつもりであった。

 そもそも、その時がくればその時に自らが納得する言葉を見つければいいのだ。


 エスカと共にワインを飲み、他愛のない話をする。それはいつもアキラに自分の意識が拡張していくような高揚感を与えていた。

 兄と、そしてその弟の両方に通じているアキラだからこその感覚であろうが、同じ兄弟であっても作り出す空気がこれほど違うものかとアキラはしみじみと感じていた。

 ミリアの居る空間も心地よい。しかしそれは身を無理矢理引き締める時に感じる痛がゆいような緊張の中にある心地よさだ。自分の知を司る部分が新しい扉を開け、その感動に震えるような、そんな体験ができるのが、ミリアとの会見である。

 だがエスカが作りだす小宇宙は、それとは根本的に異質なものだった。

 どこまでも自分の感情を広げていけるような、とりとめもなくゆったりとした意識の拡張に、恍惚となる。そして様々な雑事を忘れ、雑念が消え、その感覚に積極的にのめり込みたくなる、そんな気分になる空気を作り出すのである。

 だから普段のアキラの口からはおよそ出ないような本音が顔を見せる。

「確かにミーヤは魅力的な女性だが、男と女の関係にはなりたくない」

「ほう、なぜだ?  その言い方だとお前も憎からず思ってるって事じゃねえか?」

「だからだ」

「ふむ、なるほど。いや、そうじゃねえ。俺としちゃ、お前の事はどうでもいいんだよ。向こうの気持ちはどうなんだって話だろ?」

 エスカはそう言うと「なあ?」と言ってその部屋にいる第三の人物に話を振った。

「現世(うつしよ)の人々の暮らし振りを見ればわかりますが、男と女が肌を合わせれば、その時点で以前とはまた違う感情が生まれる、なんてのはよく聞く話ですな。優秀な人間との関係を深める為には信頼という精神的な絆に加え、体の繋がりが加わればその効果は二倍三倍になるというのもよく聞く話です。まあ、もっともアキラ殿に中尉の存在を霞ませてしまうほどの意中の女性が居なければという前提ですが」

「リリの言うとおりだ。わっはっは」

 エスカはそう言うと嬉しそうに笑った。

 リンゼルリッヒもそれに呼応して楽しそうに笑うと、持っていたワインのグラスを一気に空けた。

「ずっと思ってたんだが、あんた、本当に賢者なのか?」

 愉快そうに笑い、美味そうにワインを飲むリンゼルリッヒにアキラは思わずそう言った。

「一応今のところは。少なくとも賢者会からはじき出されたという話もお達しもありませんからね。もっとも賢者とは言え、末席ですけどね」

 リンゼルリッヒは不快な顔一つせず、そう言うと目配せをして見せた。

「だからあまり、アキラ殿が見てきた賢者会の他のお歴々と比べてもらっては困ります。と申しますか、比較対象にもなりませんよ」

「いや、ルーナーの能力というのじゃなくて、だな。なんというか相当砕けた物言いをするものだな、と思っただけだ。他のお歴々はもう少しもったいぶっているというか、怖いというか、距離が遠い感じがしてな」

「そんな事を言っているようでは、エスカ様の側に居る大賢者さまをご覧になると腰を抜かしますよ」

「と言うと?」

「あまりに少女過ぎて、ね」

 リンゼルリッヒはそう言うとまたもや目配せをしてみせた。

 それが嫌みのこもったからかいでないのは、その笑顔に全く邪気を感じなかったからである。元々はその「大賢者」の付き人のような存在だという紹介を受けていたから、アキラはそう思ったのかも知れない。だが、少なくとも目の前の《黄丹の搦手(おうにのからめで)》ことリンゼルリッヒ・トゥオリラという男はニーム・タタンという少女の事を話す時には、思わずこぼれる嬉しそうな笑顔を隠そうとはしなかった。

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