第十二話 溶け始めた記憶 2/3

 瞳髪黒色の男は声に反応した。

 閉じていた目を開けて呼びかける。

「レティか?」

(レティ?)

「私」の記憶にはない名前だった。

 男の声に、レティと呼ばれた声の持ち主が応える。

「はい。いつものようにあなたの邪魔をしに参りました」

 声にいたずらっぽい色が混ざる。それはますます心の中に染みこんで、じんわりと広がっていく気がした。


 女の答えを聞くと、男は足をもつれさせるのではないかと思うほどの勢いで座敷から土間に飛び降り、すぐに扉に取り付いた。

「お前の邪魔ならば、大歓迎だ」

 土間に飛び降りた勢いそのままに、男は扉を大きく開くと、柔らかい声の主であるレティという名の女を家に招き入れた。

 女は白っぽいフード付きの外套で体を包み、容姿がわからない。

「みー」

 女が部屋に入ると同時に、低いところから小さな声がした。

 男に少し遅れて、どこからともなく黒猫が現れたのだ。

 黒猫は歓迎するかのように女の足下に絡みつく。

「まあ。セッカもお出迎えしてくれるのね」

 女はそういうと足下の黒猫を抱き上げた。

「ありがとう」

 その時、猫の胸に白い毛が見えた。全身真っ黒だと思っていた黒猫は、胸に白い三日月型があった。大きな目は空色で、なかなかに毛並みの良い猫だった。


 レティと呼ぶ女を招き入れた後も、男は扉を閉めようとはしなかった。外の様子をうかがっているようだ。

 それを見たレティは、自らの手で扉を閉めた。

 そして、扉に掌を押し当て、何事かをつぶやく。

(女はルーナーか)

 レティという名の女はまさにルーンを詠唱していた。声が小さすぎて届かない。雨に紛れてしまっているのだ。だからルーンの内容は聞こえなかった。

 でも、どう見てもルーナーに間違いない。

 声は聞こえなかったが、かけられたルーンの予想はつく。

 おそらくは扉が外からは開かぬようなルーンであろう。

(なるほど)

「私」は少しだけ二人の仲がわかったような気がした。

 レティと呼ばれた女が、凡庸なルーナーではない事は「私」にはわかる。「私」なら見ればわかるのだから。

 完璧に制御された四つの属性のエーテルが、薄皮一枚の状態で女を覆っている。男が纏う炎のエーテルよりもさらにさらに薄く。


「まさか、一人なのか?」

 ルーン錠を下ろしたレティナの行為を見て、男は意外そうな声をかけた。レティナはうれしそうな顔でそれにうなずいた。

「あの、ザルカの跡取りとかいう護衛のアルヴはどうしたんだ?」

(ザルカやて?)

「私」は男の口から出た名前に反応した。なぜなら、初めて知っている名前が出たからだ。

 レティはおかしそうな声で答えた。

「今夜の私は『ザルカの跡取りとかいう護衛のアルヴ』のレティナ様ではなく、頭の先からつま先まで、丸ごとあなた様だけのレティです。そう。今夜は特別なのです。無粋な供など連れて来られましょうや?」

 レティは愛称。そして本名はレティナ……。

 その時、私の胸が再びずきんと痛んだ。

 そしてまるで私の動揺に呼応したように、男と、そしてレティというルーナーの纏っていたエーテルが少しだけ揺れ乱れた。

 もちろん私のエーテルが反応したわけではない。私は「そこ」に居るわけではないのだから。


 レティの言葉が、二人に感情の高ぶりをもたらしたのだ。

 男は何も言わずその場でいきなりセッカという名の黒猫もろともレティナを抱き上げると、そのまま座敷に上がった。

 レティナは少し驚いた顔をしたが、何も言わない。もちろん抗いなどしなかった。

 男は自分が座っていた場所にレティナを運ぶと、そのままレティナを強く抱きしめた。

 今度は「あ」とだけ、ほんの小さく声を発したレティナだが、すぐに腕を男の背中に回して、自分から体を寄せて男に身をゆだねた。

「すっかり冷えているではないか」

 しばらく無言で抱き合っていた二人だが、男が沈黙を破った。

「お前なら濡れずに来られように」

 自分の懐にレティナを抱きかかえたままで、男はそう言った。

「ルーンを使うと、皆にばれてしまうではありませんか」

 レティはそういうとくすくすと笑った。

「それに、こうして暖めてくれました」

 男はそれには何も答えず、掌でそっとレティナの頬を包み込んだ。

「暖かい……」

 レティは自分の手を、男の手の上に重ねた。

 その拍子に頭を覆っていたフードが落ちて、ようやくレティナの顔が見えた。

 整った顔立ちであることがわかった。しかし目は閉じられていた。

 だが……。

(黒い髪!)

 私の体中の毛穴が開いた。汗が出る感じだ……。そして同時に全身に鳥肌が立ったのがわかる。

「冷えては、風邪を引いてしまうぞ」

 男は優しい声をレティナにかける。

 レティナはそこで閉じていた目を開き、自分をのぞき込む男にまぶしい微笑を見せた。

(瞳髪……黒色)

 レティの目は黒かった。二人はどちらもピクシィだったのだ。

「私が風邪を引いたとして、いったいどんな問題がありましょう?」

「お前はいくらでもルーンで治せると言うのだろうが、俺が心配で居てもたっても居られなくなる。」

 男が決まり悪そうな声でそういうと、レティはそれに答えるようにくすくすと笑う。

 レティの年齢は正確にはわからない。だが、ほとんど「私」と変わらないように思えた。そのレティがまるで幼子のようなくったくのない笑みを男に見せていた。

「何がおかしいのだ」

 困惑したように男がそういうと、レティナは男の手の上に載せた手を、今度は男の顔にのばした。

「そのようなかわいらしい顔をされては、レティナは嬉しくなってしまいます。だからこれは嬉しい笑いなのです」

「か、かわいらしいなどと言うな」

「うふふふ」


 男はうろたえている。

 明らかに年齢は男の方が上に見える。だが、一見男の胸の中で甘えているようなレティナの方が、いいように男をからかっていると言えなくもない。

「ちょっとふくれたそのお顔も、すこぶるかわいらしゅうございますよ、炎精さま」

(えんせい……やて?)

 再び総毛立つ感覚が私をおそった。

「その名で呼ぶな」

 どうしてか? とレティナが問う。

「炎精」と呼ばれた男は答える。その名が特別なものではないからだ、と。

(まさか……まさか?)

「私」は頭に浮かんだ可能性を探る。よくわからない夢の中の、要するにむつまじい男女の光景に、ある事実を重ね始めていた。

「だってあなた様はご自身の名前をお忘れなのですから、仕方がございません」

(名前を忘れている?)

 そこに奇妙な符号を感じる。

「私」は改めてレティの顔を観察した。

 卵形の白い肌。腰より下に流れる豊かでまっすぐな黒髪。前髪を後ろで束ねている為、広い額が見える。つまりは顔全体がよく見える。

 目はどちらかというと丸くて、そして優しく目尻が垂れている。

 美しかった。

 いや、美し過ぎると言い換えよう。

 そしてあの笑顔。

 まっすぐに「炎精」と呼ぶ男を見つめる黒目勝ちの目。それを細めて笑う表情はどうだ? 加えて上気した頬が、美しい中に愛らしさを湛える。

 そんなレティナを見ていて、ふと思った。

(私も、あんな顔だったら良かったのに)

 脈絡もなく「あいつ」の顔が浮かぶ。

 レティのような優しい目をしていれば、もっと上手な笑顔を向けられるのに……。

 つくづく自分の鋭くきつい目が恨めしい。


「炎精」は、頬に当てた手をそっと浮かすと、ゆっくりとそれを下に這わせていく。すぐに向かう先がわかった。

「私」は思わず赤面する。それでも目を逸らせない。だから「炎精」の表情を見る。

「炎精」の顔は、傍目で見ても気の毒なほど緊張でこわばっていた。私はそれを見て、なぜか「かわいいな」と思ってしまう。

 レティはためらいがちに伸ばされる「えんせい」の手をもどかしそうに取ると、自らそれを胸の上に置いた。

 そして上気した顔でつぶやく。

「私が恐ろしゅうございますか?」

「炎精」は首を振る。そして直後に首を振った事を否定する。

「いや、怖いのは怖いのだ。だが『亜神』が怖いのではない。愛らしすぎるお前とこうしている事が怖ろしい。これは夢ではないのかと思うと、冷める時が来ると考えてしまう。それが怖ろしいのだ」

(え?)

 炎精の言葉に、レティナは目を細めた。私はその目尻に浮かぶ涙を見つけた。

 やがて二人は、お互いに引き寄せられるように顔を近づけると、唇を重ねた。

 そこで私の意識がまた沈む。

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