第四話 甘い罠 3/4
エイルとすればミエリッタという名称や立場が持つ意味はともかく、エルネスティーネ達と一緒に行動し、これからの目的に同道する大義名分程度にしか考えていなかった。
だが、エイルが考えている以上にミエリッタの称号を保持することは重い事であったのだ。エルネスティーネとエイルという二人の関係を考えるならば、ミエリッタの任命とはすなわち、エルネスティーネにとっては最上位にある意思表示であった。もちろん、上下ではない。エルネスティーネだから持っている、女が男に対して求める赤裸々な好意の表現手段だったのだ。
だとすればティアナが反対するのも無理はない。
エイルの事を仲間と認め、それなりに好意を持ってくれてきてはいるが、自分の主が特別な、そして決定的な相手として求めようとするのを黙って認めるわけにはいかなかったのだろう。
おそらくエイルがティアナの立場であっても、全力で止めに入ると思われた。
だが一方でこれほど嬉しい言葉を、エイルは生まれて初めて聞いたような気がしていた。ただ嬉しいだけではなく、体が熱くなり、脳の一部が麻痺するような感覚を伴っていた。この金髪緑眼の小柄な娘と今ここで溶け合えるのならそのまま死んでもいいとさえ思えてくる。
まるで麻薬のような……。
麻薬という言葉を思い描いた事でエイルは覚醒した。
エイルは麻薬がらみでやらねばならぬ事がある事を思い出したのだ。
ニアレー。
憎むべき相手であると決めた、その「麻薬」に等しいと認めたものに自分が溺れてどうするのだ?
エルネスティーネは麻薬なのだ。
そう思い込む事によって理性を取り戻そうとエイルが葛藤している最中、エルネスティーネが先に行動に出た。
だがそれはエイルにとってはありがたいものであった。
「私の気持ちをわかってもらえただけでも、今は良しとしなければなりませんね」
名残惜しそうに濡れた視線でエイルを一瞥した後で、エルネスティーネはベッドから降りた。
「私のわがままでみんなを待たせるわけにはいきません。参りましょう」
そう言ってエイルに手を差し出したエルネスティーネは、もう普段の表情に戻っていた。背筋を伸ばして、少し伸びた金髪を揺らし、はにかみながら微笑む、いつものエルネスティーネがそこにいた。面変わりをして普段の表情には鋭さが加わったように見える。しかし纏う空気はエイルがよく知っているエルネスティーネそのものであった。
エイルは何も言わず、エルネスティーネが差し出した右手をとると、恭しくエルネスティーネを部屋の外へと導いた。
それはエイル自身もびっくりするくらい自然な仕草で、もう長くそうやってエルネスティーネの導き役をやっているかのような姿であった。
「私はどうすればいいのでしょう」
ティアナは憔悴しきったような顔でアプリリアージェの横でそうつぶやいた。
「どうもこうもないでしょう」
アプリリアージェは微笑みながらそう返した。
そしてファーンが淹れた紅茶の香りを楽しむようにゆっくりと熱い液体を一口すすった。
「あなたはどうしたいのですか?」
今度はアプリリアージェがそうたずねた。
ティアナは出された紅茶に手を付けようともせず、うつむいている。顔は上気したままだ。無理もない。あの場はなんとか繕ったティアナだが、幼い頃から自分が見守ってきた王女の、あのような場面を目にしたのだ。その動揺は計り知れない。考えをまとめようとしても生真面目すぎるティアナは、簡単に答えなど出しようがないのであろう。
もがいて苦しんで、無意識にアプリリアージェに救いを求めたに違いない。
「私は……」
そこで言葉が途切れた。考えがまとまっていないのに言葉が見つかるわけがなかった。
「ネスティはもう立派な大人ですよ。十七、いえそろそろ十八歳になるのですから、普通の娘であれば既にああいうことがあっても当たり前でしょう」
「……」
「ティアナ、あなたはどうでしたか?」
「私は、その頃にはもうエリー様のお側付きでした」
「なるほど。という事はファルが初めてという事ですか」
「ええ」
ティアナはそう言ったところでしまったとばかりに息を呑んで顔をそむけた。
「恥ずかしがる事はありませんよ。私など人に偉そうにこんな話をできる経験など無いのですから」
「え?」
思わずアプリリアージェに顔を向けたティアナは頬から目の縁にかけて真っ赤に染め上げていた。アプリリアージェはティアナのその表情をみていつもとは違う、少し寂しそうな笑顔を作った。
「意外ですか?」
「正直に申しまして、驚きました」
「私も正直に言うと、ネスティやあなたがうらやましいです。それも、とっても」
「え?」
「意外ですか?」
ティアナはまったく同じ問答が続いている事に気付くと、今度は首を横に振った。
「ファルからは何も聞いていませんか?」
ティアナは頷く。
「ファルは……いえレインさんはそういう話はほとんどしてくれませんので……」
ティアナのもの言いに、アプリリアージェはクスっと声に出して小さく笑った。
「レインさん、はないでしょう?」
「す、すみません。こういう話は慣れていなくて……」
「ネスティとはそんな話はしないのですか?」
「そんな話?」
「ファルの話や、エイルの話です。私には縁がありませんが女同士はお互いに好きな人の事を話したりするものではないですか?」
アプリリアージェにそう言われて、ティアナは再び赤面してうつむいた。
「なるほど。ネンネにしてはいきなり大胆だと思いましたが、あなたが先生でしたか」
「答えるまで寝かせてくれないもので……つい……」
「あははは」
珍しく笑い声を上げたアプリリアージェに広間に居た全員の目が注がれたが、何でも無いというふうに手を振って見せた。
「なるほど、ティアナ、あなたはとても微妙な立場にいるという事ですね」
「笑い事ではありません」
「私ではなくファルに相談してみたらどうですか?」
「え? ……えええええ?」
ティアナは慌てて頭を振った。
「そんな事出来ませんっ」
「でしょうねえ。でも私はさっきも言ったとおり、こういうことには『からっきし』向いてないんですよ? むしろ私はティアナやネスティに教わる立場なのですから」
「いや、さすがにそれは……」
「エイルが嫌いですか?」
いきなりアプリリアージェは切り口を変えてきた。
ティアナもアプリリアージェのこの変化が何を意味するのかをそろそろ理解してきつつあった。
アプリリアージェの癖のようなものなのだろうが、問題をはぐらかしているような話を続けた後、一転して核心に戻し、あっさり収束へ向かわせる。
一見無駄とも思えるのらりくらりとしたやりとりの間に、おそらく解決策を模索しているに違いないとティアナは考えるようになっていた。
そしてその核心が告げられようとしていた。
「問題はそこに尽きると思いませんか? それともアルヴ族が瞳髪黒色と結ばれるのは主義に反しますか?」
「いえ……」
「それともネスティとエイル君では身分が違うと思うからですか?」
「違います」
ティアナはその件については即座に、しかもキッパリと否定した。
「はじめはそうでした。下々の者が姫君に馴れ馴れしくするなど、カラティア家の血を汚す、ひいてはアルヴ族の誇りに砂をかけるような行為だと思っていた時期がありました。でも、それは私が狭量であったが故のつまらぬ思い込みだと知りました」
「そして今ではティアナ自身、エイル君をけっこう気に入っている、ですよね?」
ティアナはうなずいた。
「どうにも短絡的で頼りないところもありますが、芯の強い、志の奇麗な少年だと思っています。不思議な戦いでしたが、剣技についても私など敵わない腕前だと言うことはもう理解しています」
「ではなぜ? 言っておきますが、ネスティはエリー王女ではない……つまりイエナ三世ではないのですよ。そしてこの先もイエナ三世になる事はないでしょう。そもそもネスティ自身もそれを望んではいないはずです。あなたが望んでいるというのなら、誰も望まぬつまらぬ望みなど、今すぐ捨てるべきです」
「違います」
「ではなぜですか? ティアナ・ミュンヒハウゼンがエルネスティーネの幸せを願っているのならば、彼女が望み求める相手と結ばれるのを祝福すべきではないのですか?」
「幸せになれるのでしょうか?」
「なるほど」
アプリリアージェは納得したという風にうなずいた。だが、
「あなたは……なれないと思うのですね?」
そう問いかけた。ティアナはうなずいた。
「なぜ?」
「なぜって……エイルにはエルデがいるではないですか! そんな事……リリアさんならとっくにおわかりのはず」
「エルデが怒ってネスティを傷つける、と?」
ティアナはゆっくりとうなずいた。
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