第三話 エルネスティーネの誘惑 3/3

「私だって女です!」

 エルネスティーネは用意していたものと思しき行動に移った。

 埋めていた顔を上げ、エイルを見上げて強い調子でそう言い返したのだ。

 だが、声の調子とは裏腹にその顔は上気し、宝石のような緑色の目が潤んでいる。そしてその表情は悲しげで切なくなるほど優しい笑顔を浮かべていた。

 エイルの言葉はある意味で脅し、いや威嚇のような意味あいが込められていたが、エルネスティーネのそれは挑戦と呼ぶべきものであった。

 つまりこの場面における両者の言葉には決定的な違いがあった。

 すなわちエイルの言葉は弱く、エルネスティーネの言葉は強かったのだ。

 わかりやすく説明するならば、エイルは自分の衝動を正当化する理由を相手の「せい」にしようとした、つまり転嫁しようとしたのに対し、エルネスティーネはその場に停滞する衝動の出口を自らこじ開ける、すなわちエイルの行動を受け入れる事に何の問題も無いのだと言い切ったのである。

 エイルが隙を見せたならすかさずそこを突こう……エルネスティーネは最初からそう覚悟を決めていたに違いない。

 覚悟を決めたアルヴ族の女にためらいなど微塵もない。

 自分が投げた言葉にエイルが虚を突かれた瞬間を、そんな「覚悟を決めたアルヴ族」であるエルネスティーネが見逃すはずがなかった。


「あ……」

 そう言ったはずだった。

 だが、エイルの口はその言葉を発する前にふさがれていた。

 柔らかく、そして少し湿ったエルネスティーネの唇によって。

「私の……エイル」

 その唇からため息のような声が漏れ、耳に届いた時。エイルはそれまでなんとか持ちこたえていたものが全て吹き飛ばされるのを感じた。

 腕の中で甘くなまめかしいため息をつく小さな生き物が、この世で最も愛らしいものに思えた瞬間であった。

 もはや相手が本来であれば一国の女王であるという遠慮などはエイルの頭から蒸発していた。ただ腕の中の柔らかい体を、思い切り貪りたいという思いだけが行動原理と化していたのである。

 エイルは自分からエルネスティーネの唇を求めていた。もちろんエルネスティーネは拒まない。エイルの強引な責めをため息と共に柔らかく受け止めると、そのままエイルと共にベッドに倒れ込んだ。

 そして……



「ああああ!」

 その声は入り口の方から聞こえた。

 正確には扉が開く音とほぼ同時に声が響いた。

 もちろんエイルにもエルネスティーネにも聞き覚えのある声だった。

 少し高くて澄んでいて、普通にしゃべっているとまわりを抱きしめるような優しい響きすら感じるその声は、エルデ・ヴァイスの小さな悲鳴だった。

 エイル・エイミイはその声で覚醒した。同時に自分が何をしようとしていたのかに気付くと、慌ててエルネスティーネから離れ、その拍子にベッドから転がり落ちた。

「いや、これは違うんだ」

 エイルは入り口に目をやるととりあえずそう言った。

 何が違うのかわからない。いや、自分が何を言っているのかすらよくわからないまま、ただ状況を否定しようと躍起になっていた。


 入り口には三人の姿があった。

 エルデとアプリリアージェ、そしてその後ろに大柄なティアナの姿が見えた。

 アプリリアージェは珍しく目を丸くして驚いていた。ティアナも同じように目を丸くしていたが、驚いているというよりもこっちは何が起こっているのかわからないといった表情だ。

 そしてエルデは……

 もうそこにはいなかった。

 エイルが次の言葉を探している間に、きびすを返して走り去っていったのだ。まさに脱兎のごとくという表現がふさわしいほどの行動の早さであった。


「だから私はあれほどノックをしてから入れと言ったのに……」

 少しの沈黙の後で、ティアナはそういうとエイルとエルネスティーネから顔をそむけた。

 二人の状況を直視しないようにというティアナなりの気遣いなのだろうが、エイルにとってそれはかえっていたたまれないものであった。

「ティアナがそんな事を言わなければ、エルデはちゃんとノックをしてから扉を開けたと思いますよ」

 びっくりした顔は一瞬で、すぐにもとの笑顔に戻ったアプリリアージェはため息混じりにそう言った。

「え?」

「この扉のすぐ近くまではエルデはいつも通りでしたよ。その証拠に、エルデが右の拳を握るのを見ました。でもあなたがその一言を言った瞬間、顔色を変えて拳を開き、あっという間に取っ手を持って扉を開け放ったんです」

 アプリリアージェの説明でエイルはノック無しの原因をようやく理解した。「そんな事」を想像すらしていなかったエルデが、ティアナの言葉で想像してしまったのだ。それで慌てて開け放ってしまったのだろう。

 もっとも、ノックをされてもその音に気付いたかどうかはエイルには自信がなかったのだが。


「何にせよ」

 アプリリアージェは視線をティアナから部屋の中に移すと、小さく肩をすくめて二人に声をかけた。

「その続きは夜の楽しみにでもとっておいて、お二人には取り急ぎの相談があります。まずは広間の方に来て下さいな」

「わかりました」

 エイルは反射的にそう答えたが、エルネスティーネは無言のままだった。

「そうそう」

 アプリリアージェはその場を去ろうと扉を閉じかけたが途中で動作を止めた。そして思い出した様にこう続けた。

「二人とも鏡で自分達の姿を見てから、しかるべき処置をした後で来て下さいね」

 扉が閉じるのと同時に、エイルは自分の顔が恐ろしく熱を持っているのを感じた。突然のちん入者によって一気に頭のてっぺんまで上った血が、ようやく顔のあたりに降りてきたのだろう。

 アプリリアージェはああ言ったが、実のところその部屋には鏡などなかった。注意力の権化のような人間がその事に気付いていないはずはない。

 にも拘わらずそう告げたということは、彼女なりの嫌みのつもりなのかもしれなかった。だがもしそうだとしたら、エイルはアプリリアージェらしくないと思った。

 エイルの場合は勝手にアプリリアージェを崇高な人間だと思い込んでいる節がなきにしもあらずであったが、それでもあからさまにそういう嫌みを言う人間には思えなかったのだ。

 だが一方でそういう嫌みを言われるほどの事を自分達がしていたのだという事を改めて思い知る事にもなった。

 いや……。

 エイルはそこまで考えて首を横に振った。

 まだ「そこまで」はしていない。唇と唇だけだ。理性は飛んでいたが、自分のした行為は脳裏に焼き付いていた。

 もっともそれは都合のいい言い訳でしかない。あの時扉が開かなかったら……。

 エイルはそこで考えるのをやめてベッドの上に座り込んだままのエルネスティーネをみやった。

 自分の事ばかりを考えすぎていた事に気付いたのだ。

 男の自分よりも女のエルネスティーネの方が何倍も恥ずかしい思いをしているはずであった。

「って、おい、ネスティ!」

 エイルはエルネスティーネの姿を見て愕然とした。

 エルネスティーネは、もう少しで胸の全貌が露わになるところまで服がはだけていた。エイルに声をかけられて初めて自分の様子に気付いたエルネスティーネは慌てて背中を向けると、服の乱れを直しにかかった。

 エイルも顔をそむけると、ふと思いついて自分の胸を見た。

「え?」

 ボタンがほとんど外れていた。肌着が少しまくれ上がっている。

「どうしましょう。こんな顔ではみんなの前に出られません」

 背中を向けたままでエルネスティーネがうろたえる。勿論独り言ではなく、それはエイルに向けたものだ。声にどこかしら甘えたような調子が入っているように思えるのはエイルの勝手な思い込みなのかどうかはわからない。

「オレもだ」

 エイルは自分の服を直し終わると頬を手で触った。この状態が一晩続くと生死の境をさまようのではないかと思えるほど熱かった。

 無意識に自分がやっていた行為を思うとさらに血が上ってきた。

 いや、自分だけではない。エルネスティーネも同じ事を自分にしていたのだ。

 おそらくエイルと同じく、それは本能に突き動かされるままに。

 そしてアプリリアージェの言葉が嫌みでも何でも無いという事を思い知って、より深く恥じ入った。

 確かに部屋に鏡はない。だがそれは服装や髪の乱れをお互いにきちんと確認し合って恥ずかしくない姿でやってこいという意味だったのだ。

 放心状態のままで部屋から出るなとアプリリアージェは釘を刺したのである。

 そしてエイルはさらに思った。

 この姿を目の当たりにしたエルデの怒りはもっともだと。

(怒り? )

 エイルは自分の頭の中でつぶやいた言葉に自分で疑問を持った。

(エルデは怒っていたのか? だとするとなぜ? いや、なぜって言う事はないけど、でも……)

 エイルはそこでようやく多少なりとも冷静になる事ができた。エルデの気持ちを考える余裕が出てきていた。

 そう。

 自分が逆の立場であったらどうだったのかを。

 そしてその時自分の中に芽生える感情は本当に「怒り」なのか? と。


「ごめん、ネスティ。今のは……」

「お黙りなさい!」

 エイルは自分のした事を詫びようとした。

 だがそれはエルネスティーネの怒声により、間髪入れずに遮断された。

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