第八十六話 遷都宣言 2/5
「話を元に戻すぞ、ミドオーバ近衛軍大元帥」
列席した各国の要人達は一つの事柄について長く考える暇を与えられなかった。
考えてみればイエナ三世が登場してから行ってきた一連の事柄は、国儀という名前を但し書きに使い、言わば「内輪の話」という形を取りながらも実のところ彼らが興味を持っていた事柄に対する回答になっていた。
その事に気付き始めた人々は、そうなるとイエナ三世が作り始めた流れに身を任せる事を積極的に選びつつあった。
「『はい』か『いいえ』で答えよ」
例によってイエナ三世は相手にあまり余裕を与えない作戦で打って出た
「遠方よりはるばるエッダにはせ参じた我らが王国軍隊の受け入れ体制はあるのか?」
サミュエルはしかし、群衆の予想を裏切って冷静な声で答えた。
「はい」
イエナ三世が用意した陽動作戦にまんまとはまったとは言え、彼としてもそのままほぞを噛んだままで終わりという訳にはいかない。
イエナ三世がウーレンハウト近衛軍元帥とバレニー法務大臣とやりとりをしている間に、彼はこの場を切り抜ける脚本を書き上げていたのである。
しかし……
「この期に及んで陳腐な比喩は要らぬぞ、ミドオーバ大元帥。見よ」
イエナ三世はそう言うとミドオーバの背後、つまり大通りを埋め尽くす王国軍の兵士達を指さした。
「彼らに必要なのは休息の為のベッドと、汗と埃と泥を流す風呂、それに腹を満たす食事だ」
そしてひときわ大きな声で件の王国軍の兵士達に呼びかけた。
「そうであろう? 兵士諸君!」
「おおー!」
女王がそう言うと、四つの大通りを埋め尽くした王国軍の兵士達は一斉に手に持った槍や剣を空にかざし、怒号を上げた。
その大音声に広場にいた大葬の参列者や近衛軍の中隊は思わず耳を塞いだ。だが兵士達のそれは地鳴りのようなもので、耳を塞いでも体を震わせて腹の奥に響き渡った。
イエナ三世が右手をすっと横に下げると、その怒号は波が引くように静まった。
「おっと、私とした事が肝心なものを忘れていた」
静けさが戻った広場で、イエナ三世の大声がさらに響いた。
「食事だけでは申し訳ない。彼らに必要なのはうまい食事と、それに合ううまい酒だ!」
イエナ三世がにっこり笑いながらがそう言うと、「シルフィードの宝石」と呼ばれるその笑顔に呼応するかにように兵士達が今度は銘々の言葉で歓声を上げた。それは先ほどの鬨の声とは桁違いの大きさで、通りに面した建物の窓という窓は文字通りびりびりと震える程であった。
その窓の側で事の成り行きを見守っていたエスカとニームは思わず窓から体を離して互いに見合ったが、一連の出来事にあっけにとられ、交わす言葉を失っていた。
「比喩やつまらぬ頓知では彼らの腹は膨らまんのだぞ、サミュエル」
一度上げた手を下げ、再び兵士達に沈黙を求めたイエナ三世は胸を反らしてサミュエルにそう問いかけた。
「余をやり込める言葉遊びや、この場に居るお歴々を煙に巻く美辞麗句をいくら唱えようとも、そこに実際に存在する五個師団の兵達の腹は膨れぬし、喉の渇きを潤す事も出来ぬぞ?」
さすがにサミュエルにはその問いに答える言葉はなかった。いや、答えられないように誘導されていたのである。彼に許されているのは「はい」か「いいえ」である。それ以外の言葉を発したとたん、イエナ三世はその言葉を遮るであろう。そして「はい」や「いいえ」で答えられない言葉に対して沈黙を守っているならば、ここにいる人々はサミュエルには答えられないのだと思ってしまうだろう。理不尽な話ではあるが、人間の心理をついた単純だが巧妙な作戦と言えた。この場に於いて、唯一王ならばこそ使える「手」である。
サミュエルはイエナ三世と、自分の背後にいるはずの人物に対して唇を噛んでいた。
答えがないとみると、イエナ三世はすぐに次の行動に移った。
「バングル総務大臣」
イエナ三世が呼びかけたカラミティ・バングル総務大臣はサミュエル・ミドオーバ近衛軍大元帥の幕僚である。近衛軍が関係する宮廷催事などの実質的な段取り全般を司る立場にある人物であった。
「は」
自分に声をかけてきたイエナ三世の小さな背中をぼんやりと見つめていたカラミティは背筋を伸ばすと返答をした。
「実務の事を大元帥に聞くのは酷だったかもしれぬ。そちに尋ねるが、今余が言った事柄はもちろん準備済みなのであろうな?」
カラミティは全身の毛穴から汗が一気に噴き出すのを感じた。
彼は思わず周りを見渡した。もちろん救いをさしのべてくるような人間は居ない事など百も承知だったが、そうせずにはいられなかったのだ。
「余は気が短い。さっさと答えよ。言っておくが五個師団分である」
カラミティ・バングルは遠く離れた場所で長い精杖を手に立っているサミュエルの顔をちらりと見ると、観念したように首をうなだれた。
「私の方ではまだ準備は整っておりません」
「『まだ』だと?」
カラミティの言葉を聞いて振り返ったイエナ三世の表情は厳しかった。大きく見開かれた緑色の目は明らかに怒りの色を帯びていた。
「では聞こう。それはいつ整うのだ? 具体的に申せ。一時間後か? 三時間後か?」
哀れな総務大臣は首をさらにうなだれた。もうまともにイエナ三世の顔を見る気力は彼にはなかった。
「申し訳ありません…… 一両日程度では、準備は不可能でございます」
そもそも無理な事がわかっていて聞いているのである。カラミティはそれでも「『まだ』などというあやふやなごまかしの言葉で自らの立場を弁解しようとしてしまったのだろう。それは彼が純粋なアルヴではなく、デュナンの血が入ったデュアルであったからかも知れない。
「これは困った」
膝をついて詫びたカラミティに一瞥をくれたイエナ三世は広場に視線を戻すと、腕組みをして自分に注目している数万人に向かってそう独り言を告げた。
「王国軍の兵士と言えばシルフィードの要(かなめ)。国王としては尊ぶべき存在。たとえ元帥会議が主催した大葬とはいえ、我が父との別れのために集った彼らを居場所が無いから出て行けなどとはさすがに言えぬ」
その言葉もまるで独り言のような調子であった。
次にイエナ三世は腕を組んで舞台の上をゆっくりと歩きながら行ったり来たりを繰り返した。もちろん全ての言葉は明瞭で広場中隈無く届いていた。
「バングル総務大臣に不可能であるというならば、それができる人間に任せるしかないということか」
イエナ三世はそう言うとポンと手を打った。
「バングル」
再び指名を受けた総務大臣は顔を上げた。
「は、はい」
「お前の方で無理だというのならば、その仕事、余が引き受けよう。そもそも彼らに対して責任をとるべきは近衛軍大元帥ではなかった。国王が責任をとるべきなのだ。よいな?」
イエナ三世の言葉は、先ほどと違い極めて優しい響きが込められていた。それは針のむしろに座っていたようなカラミティ・バングルにとってまさに渡りに船のような甘い響きであった。
しかし、その言葉を聞いて、カラミティとは逆にその顔に緊張を走らせた人物が二人いた。
サミュエル・ミドオーバとバレニー法務大臣である。
「はい。それはもう……」
「よし」
しかしサミュエルがカラミティを制する時間はなかった。
「皆の者、今のやりとりを聞いたであろう? 総務大臣は余に王国軍受け入れの全権を委任するそうだ。これだけの証人がいる。敢えて書面に残す必要も無かろう」
イエナ三世のその言葉を聞いたサミュエルはがっくりと肩を落とした。完全にしてやられた事を悟ったのだ。
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