第八十四話 エッダ包囲網 3/3

 しかしサミュエルには事態を整理する時間は与えられなかった。シルフィード大陸南方方面軍司令官であるヘルルーガ・ベーレント准将はもっと大きな問題を口にしたのだ。

「五個師団。約六万五千名がエッダに馳せ参じております。宿営地のご指示も併せてお願いします。できれば早急に」

 ヘルルーガが急かすように続けたその言葉に、サミュエルは思わずガルフを睨んだ。

 

 ヘルルーガの言葉でその日エッダの四つの大通りを埋め尽くした兵士の数が初めて判明した。六万五千人はもちろん、サミュエルの「二個中隊」の予想を大きく超えた数字であった。

 六万五千という事は同時に大通りを埋め尽くしたおびただしい数の兵が、全体からすれば一部に過ぎない事も意味していた。立錐(りっすい)の余地無く兵士を並べたならばあるいは全員がエッダに入ることが可能かも知れなかったが、さすがにそれは不可能である。半数以上はエッダの城壁の外で待機している状態であろう。

 内と外に合計六万五千人の兵。要するに陸軍は完全にエッダを占拠していると言って良かったのである。

「おや。エッダには宿営地の用意はございませんかな?」

 ヘルルーガに対する対処を考える前に、今度はティルトール・クレムラート少将の大声が広場に響き渡った。

「だとすれば近衛軍の仕事について、私は思い違いをしていたという事になる」

 少将の言葉に、近衛軍の兵士達は色めき立ってざわめき始めたが、サミュエルは精杖を持ち上げてそれを制した。


「むう。用意がないとは想定外」

 二人の提督の言葉を受け、芝居がかった声でそう言ったのは他ならぬガルフであった。

「ミドオーバ近衛軍大元帥閣下のご様子を見ると、どうやらエッダにはお主達を受け入れるだけの用意はないようだぞ。一言で言えば『迷惑な客』扱いであろうな」

「僭越ながら私の方でも一応宿をあたってみましたが、本日の大葬の関係でどこも一杯のようです」

 サミュエルが言葉を挟む前に、すかさずリーンがそう補足した。

「これは弱りましたな。我らは王国軍大元帥の命により馳せ参じたに過ぎず、普段通りこちらの受け入れ準備は万全だとたかをくくっておったので、野営の準備すらもしておりませぬぞ」

 ティルトール・クレムラート少将の、広場中に響き渡るかと思える程の大音声で発せられる、これまた芝居がかったいかにも「困った」という台詞を受けて、ヘルルーガ・ベーレント准将も自らの台詞を澄んだよく通る声で続けた。

「私も同様。兵達には今宵の携帯食すらありませぬ。このままエッダの外で野宿するにしても、六万五千もの兵の食事や手洗いなどの準備をいったいどうすればよろしいのでしょうな?」



「ニーム」

「なあに?」

 エスカに名を呼ばれたニームは、自分でも無意識で甘えたような声色になっている事に気づいてバツが悪そうに顔を赤らめた。

「あの猿芝居はいったいいつまで続くと思う?」

「さ、猿芝居だと?」

 ニームは咳払いをして今の甘えた声を誤魔化すと、できるだけ平静を装った声でそう答えた。

「そろそろ目を開けて窓の外を見てみろ」

 

 ニームはそう促されるとエスカの膝に抱かれたまま首を伸ばすようにしてのエスカの視線を追った。窓の外では対峙する近衛軍と親衛隊、いや近衛軍一個中隊と王国軍五個師団の一部……の様子を伺った。


「ええっと……」

「いい加減にこっちへ帰ってこい、ニーム。いくら俺に夢中だと言っても、この場はしっかり見ておけ。こりゃあ多分、後世に残る歴史的な事件になるだろうぜ」

「なん……」

「何だよ?」

「だ、誰が誰に夢中なのだ?」

「お前が俺に夢中なんだろ?今更格好つけるなよ、ふにゃふにゃになってたくせに」

「だ、誰が!」

 真っ赤な顔になったニームは興奮してエスカの腕の中から飛び出そうとしたが、エスカはその両腕で抱えるようにしてそれを妨げた。

「よせ。暴れるな。そういう俺も恥ずかしながらどうやらそのお子ちゃまに夢中なんだからよ。ま、おあいこだ」

 エスカのその台詞はニームの動きを凍らせるのに充分な力を持っていた。

「ズルいぞ」

「何が?」

「あなたは、いつもそうやって私を何も言えなくしてしまう」

「天賦の才能ってやつかな。天は兄上には絵の才能とスノウを、俺にはお前と、お前によく効く力を持ったを言葉を与えてくれたんだろうさ」

「まったく……女たらしだという事は調べがついていたが、まさか自分がそのようなものに影響されるとはつゆほども思ってはいなかったのだが……」

「だが?」

「そこまで言われてあなたに夢中にならない人など、きっとファランドールにはいないだろうな」

「そりゃどうも。今のはなかなか赤裸々な告白で良かったぜ」

「あ……」

「暴れるなよ」

「暴れるものか。子供扱いするな。私はもう十五歳。成人なのだぞ」

「なあ、ニーム?」

「こんどは何?」

「今更こんなことを聞くのもどうかと思うが、大賢者という立場にある人物がだな」

「何よ?」

「つまり、そういう浮世離れした存在がフェアリーでもルーナーでもない俺みたいな人間と、その、あれだ。世間、お前らの言う現世(うつしよ)にありがちな『関係』を持ってもいいのか?」

「だ、大賢者は何をしてもいいのだ」

「は?」

「ふん。今のはなかなか赤裸々な告白で良かったぞ」

「コイツ……」

「言ったはずだ。タ=タンは人の筆頭。あなたが差し出した手をとった時に、タ=タンはあなたのもの。そしてタ=タンとは今は私自身の事。タ=タンを……私を縛る者は誰もいないのだ。正教会や賢者会にもそんな権限はない。ただ一つの例外をのぞいて、な」

「《深紅の綺羅(しんこうのきら)》 、か?」

「あなたはいつか私に尋ねた。『なぜそこまでして《深紅の綺羅》 を助けるのか』と。私がアリス、すなわち《深紅の綺羅》の守護であると同時に実の母親であるという理由はもう知っている通りだ。だがもう一つ大きな理由がある」

「大きな理由だと?」

「簡単な話だ。《深紅の綺羅》が私を縛る唯一の者だからな」

「縛る?」

「そうだ。だから私は許しをもらいに行かねばならぬ。『いい加減にタ=タンを、私をつまらぬ因習から開放しろ』とな」

「ニーム、お前いったい」

 エスカは改めて若き大賢者の大きな茶色い瞳を見つめた。最初に出会った時に感じた、妙に浮世離れした深く遠い目付きに戻っていた。

 それはしばらくニームの表情に浮かんだことのない、むなしさを誘う瞳の景色だった。

「十二色に掛けられた呪いは、そろそろ誰かが解かなくてはならん。《深紅の綺羅》 の件もある。今は良い機会なのかもしれぬ」

 そう言いながら王宮前広場を見下ろすニームの目は、しかしもっと遠くを見ているかのようであった。

 この手の話を始めたニームは、決して確信に触れるような具体的な説明をしてはくれないことをエスカは既に知っていた。そして同時にすぐ側にいるはずのニームの存在が希薄になっていくような錯覚に囚われるのだ。

 今も腕の中にあるこの確かなぬくもりが、どうにもあやふやなもののように思えて仕方がなかった。

 エスカは無意識のうちにニームを強く抱きしめていた。

「お前がやる必要があるのか?」

「――そうだな」

 ニームはそういうと一度言葉を切り、エスカに体重を預けてから言葉を継いだ。

「アリスの守護であるタ=タンの王は《深紅の綺羅》が命じた事には逆らえない事になっている」

「どういう事だ?」

「言葉通り。そのままの意味だ。この額の眼を受け継いだ時から、そういう呪縛下にあるのだ。私は」

 ニームはそう言うと形の良い額の真ん中あたりを指さした。

「そういう風になってるって、どういう風になってるんだよ?」

「例えば《深紅の綺羅》がエスカ・ペトルウシュカを殺せと本気で私に命じたら、私には逆らえない。私は《深紅の綺羅》の文字通りの僕(しもべ)。いえ。私の意志ではどうにもならない事なのだから、もはやただの道具に成り下がるのだ」

「《深紅の綺羅》の言葉には守護の人間を操る力があるということか?」

 ニームは曖昧にうなずいた。

「そう言われている。真実は知らぬ。何しろ私はまだ《深紅の綺羅》に会ったことがないのだからな」

「そんな物騒な奴には絶対合わせねえと言ったら、お前はどうする?」

 エスカのその言葉を聞いたニームは目を閉じた。

「いや、私にはもう一つだけ《深紅の綺羅》に会わねばならない……いや、違うな。会いたい理由ができた」

 そうつぶやくニームの目尻から、涙が一筋伝うのをエスカはみとめた。

「どういう意味だ?」

 エスカの心にざわめきが走った。思わず尋ねた声に、しかしニームは反応しなかった。

「ニーム?」

 何も答えないニームに、ざわめきは不安に転じた。何かはわからない。しかし心を覆い尽くそうとする嫌な感じにエスカは思わず強い声をニームに投げかけた。

「答えろ、ニーム」

 ニームはようやく目を開いた。長い睫から落ちた涙の粒が、腰に回していたエスカの腕に落ちた。

「ありがとう。もう十分だ」

「何を言ってるんだ?」

 だが、ニームの答えを待つ時間はエスカには無かった。

 広場に動きがあったのだ。

 どよめきが上がった広場をエスカと、そしてニームも注目した。

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