第七十四話 エスカの誤算 5/6

 精霊陣については今日に於いても様々な研究書が図書館の書架に並んでいる。歴史的に見てもルーン研究における主題の一つで在り続けている。

 だが、決定稿などと言うものは存在しない。

 精霊陣を自由自在に操れる人間が記述しているのならまだしも、ルーナーでもなく、まともに精霊陣の計算式を読み取れない者が研究者という肩書きを掲げて推論を綴っているにすぎないからだ。

 ルーンというものが緩やかに廃れようとしていく中にあっては、今後も我々が真相に触れる機会はないのかもしれない。


 精霊陣と一括りにされているが、実際には様々な形態のものがあり、目的も様々である。

 エルデのような例外はあるにせよ通常のルーナーの最大の弱点は、その詠唱時間の長さと、詠唱中は一切動けないという、どうしようもない「法則」にある。

 たとえ大賢者と言えどもその法則からは逃れられない為、ニーム・タ=タンというルーナーはその弱点を克服するために実に様々な工夫を凝らしていた。

 エスカはミュゼの屋敷でニームが見せた茶器を修復したルーンには心底驚いたが、ニームを知るにつれ、彼女のルーナーとしての力の強さよりもむしろ、ルーナーが持つ弱点を補う為に考えられた数々の工夫の方に舌を巻いていた。

 精霊波、すなわちエーテルの増幅装置としての側面が取りざたされる事が多い為、エルデを含む一部の頭の固いルーナーからは邪道だと言われている精霊陣は、増幅だけに使われるわけではない。

 ヴェリーユの「陣廊」もそうだがルーンを深く理解している者であれば、精霊陣をルーンの外部制御装置としても使いこなす事が可能なのだ。とはいえ、そういう精霊陣を張れるルーナーが殆ど居ない為に一般には理解されづらいものになっていた。

 それを大賢者天色の楔ことニーム・タ=タンは使いこなす事ができていたのである。つまり、ルーナー最大の弱点を克服する手法として彼女は精霊陣を積極的に利用していた。

 エスカが一番驚いたのは彼女が描く精霊陣が彼の常識としては冗談とも言える程極めて簡素なものでありながら、それが信じられないほど大きな効果を発揮することだった。

 エスカだけではない。複雑に入り組んだ図形と文字が所狭しと描かれているような精霊陣ばかりを知識として持っていた普通の人間は全て同じ感想を持つだろう。

 ニームが並のルーナーでは無いことはエスカにもわかっていた。だが、見た目通りまだ十五歳で成人になりたてだという少女が賢者、それも賢者の上に君臨する四人の大賢者の一人だと言われると、当初は腑に落ちてこないものがあったのは仕方のないことであろう。

 だが、彼女が操って見せる精霊陣と、複雑で多岐にわたるルーンを見るうちに、見た目と言うものが如何に人間の目を曇らせるのかと言う事をつくづく思い知った。そして自らもその曇った目の持ち主であることを改めて自覚し、深く自戒していたのである。


 ニームの精霊陣に話を戻そう。

 通常の精霊陣は幾何学的な模様と曲線・直線、数字、それに神痕と呼ばれる古代文字やディーネ語の「音」をファランドール文字に置き換えた単語等々が複雑に描かれ暗号化したものが多い。その精霊陣を描く為には、例えばドライアドの上級職にあるバードでも数時間から場合によっては半日以上もの時間を掛けるのが普通であったが、ニームはいつも懐に携行している特殊なインクが詰まったペンで、ささっと、それも簡単なものではものの数秒で描くだけで完成させた。

 精霊陣を描く物も、多岐にわたる。マルク・ペシカレフに施したような効果を持たせるには、パンを乗せる平皿に。遠隔で効果を発生させる場合は、たとえば船の甲板に仕込んだ。あるいは隠し効果を狙う場合は扉に感知ルーンを封じた陣を書くと言った風に。

 片やニームは詠唱文を短縮する為の精霊陣という物も開発していた。「結布(ゆいふ)」と彼女が呼ぶ「呪符(じゅふ)」の一種である。それは自分の髪の毛を織り込んだ特殊な木綿の布で、ニームの言う「特製の墨」で独自の精霊陣を描いてあった。

 呪医であるハロウィン・リューヴアーク、いや本名エウレイ・エウトレイカやメリドをはじめとするジャミールの里人達が使っていた神痕石、ルーン・ストーンとの違いは、ルーナーであろうが無かろうが、それを使う物が単体でルーンを発動させることができるルーン・ストーンに対し、ニームの結布はルーナーにしか、いやそれを作成した本人にしかその効果が得られない点であろう。

 つまり、ルーン・ストーンは自己発動できる単純なルーンを封じ込めたものであるのに比べて、ニームの呪布はいかようなものでも(ニームの能力に応じて)用意できるという違いがあった。

 その「結布」をニームはいくつも懐に隠し持ち、必要に応じてそれらの布を取り出して使用した。場合によっては何枚もの結布を腕に巻き、精杖をそれにあてるようにして発動させる事もあったという。

「そうだな。多分……」

 以前ニームは、精霊陣に関するエスカの質問に自信満々と言った笑みを浮かべながら答えたものだ。

「これほど精霊陣を深く理解して使いこなしているルーナーはいないだろう」

 その言葉を、エスカは額面通りに信じることにした。

 ジナイーダとリンゼルリッヒ以外の賢者を知っているわけではなかったが、少なくとも彼の知るドライアドのバードとは存在する世界自体が違うのだと思えた。それ程の格差がある事をニームを知れば知るほど思い知る事になっていたのである。

 マルク用の「倦怠パン」を作る際も、皿の底の精霊陣はたったの十数秒で描かれたものだった。単純とはいえ、完璧な真円といえるほど美しい円や綺麗に整った二等辺三角形などの図形を丁寧に書こうと思えば、エスカだと五分やそこらは最低でも必要だった。

「慣れだ」

 描き上げた皿の底の精霊陣を満足げに眺めた後、それに軽く口づけをしながら、ニームは事も無げにそう言ったが、エスカはもうその時にはニームの言葉の背景を理解していた。

 ニームはそれなりの努力をして、その類い希な描写速度と精度を手にした事を。

 一緒の館で暮らし始めてから、ニームが天賦の才を持ちながら意外にも努力家の一面がある事はすぐにわかった。本人はそれを人に見られるのを極端に嫌っているようではあったが。

 いくつか記憶に残る場面があるが、中でもエスカが忘れられないのは、シャツのアイロン掛けの件である。それはエッダへの出立準備が整うのを待つミュゼの屋敷での出来事であった。

 本来そんな仕事をニームがする必要など全くなかった。当然ながらニームにもシャツのアイロン掛け、いやアイロン掛けという作業自体の経験などあろうはずもなかったのだが、スノウ・キリエンカが毎日やっていたと聞くと、俄然興味を示し、執事長のロンド・キリエンカがそれ以上は曲げられないと言うほど腰を曲げ頭を下げて「後生ですからやめて下さいまし」と哀願したにも関わらず、ニームは「やる」と言って頑として譲らなかった。

 その話を聞いて、子供が興味本位で思いついた事だからすぐに飽きるだろうとタカをくくっていたエスカは、

「まあ、この屋敷は皆何かしら仕事を割り振られて成り立っている小所帯だからな。ニームにしても食って寝るだけというのも気が引けるんだろう。気が済むまでやらせてやれ」

 そう言って間を取りなした。

 案の定、ニームのアイロン掛けは吹き出すのもはばかられるほどひどいものだった。

 長くロンドの部下の一人としてエスカの館の家事を預かっていた老アルヴのプルク・ダリアコヴがニームのアイロンの師を買って出たが、彼女はニームが一枚、また一枚とエスカのシャツをダメにしていく度に、悲鳴を上げるのをこらえるのに必死だった。

 その夜の事である。

 出発前にやっておかなければと、たまっていた書き物をようやくまとめ上げたエスカが自室の壁の時計に目をやると、あと一時間程度で夜明けを迎える時刻だった。

 喉が渇いたエスカは既に空になっていた水差しを片手に厨房へ向かった。そこで厨房横の支度部屋に灯りが点っているのを見つけたのだ。

 さすがにそんな時間に灯りがあるのは珍しい。何事かと興味を持ったエスカは足音を忍ばせてそっと中の様子を伺った。

 するとそこには、アイロン台に向かう小柄なニームの姿があった。

 自分がダメにしてしまったエスカのシャツを練習台に、アイロン掛けの練習を行っていたのである。

 見ればアイロンの熱でニームの額には玉のような汗が滲んでおり、着ていた服も脇の下や背中は汗でびっしょりだった。

 思わず声をかけようとしたエスカだが、丁度仕上ったシャツを吟味しながら、ニームが口にした独り言を聞いてそれを思いとどまった。

「よし。もう少しだ。明日は絶対あの男を驚かせてやる」

 そして袖口で額の汗を拭うと、今仕上げたばかりのシャツに霧吹きで水をかけ、グシャグシャに丸めて皺だらけにした上で、再びアイロン台の上に広げた。

「もう一度だ」

 エスカはできる限り音を立てないようにそっとその場を離れると、衣装室に向かい、寝間着を普段着に着替えた。それから手近にあった外套を掴んで羽織り、そのままそっと屋敷の表に出た。外に出る際、もちろん主人の姿に驚いた当番の夜警に見咎められたが、唇に指を一本立てて黙らせると、エスカはそのまま明けやらぬ町へ出て行った。

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