第七十四話 エスカの誤算 6/6

 果たして朝食の為に食堂に現れたニームはいつものすまし顔ながら、どう見ても得意満面な風情で綺麗に畳まれたシャツを抱えていた。

 エスカはしかし、差し出されたシャツを直接は受け取らず、ロンドにプルクを呼びにやらせ、彼女にその仕上がり具合を直接吟味させた。

 エスカのシャツが煙を立てて炭になった時にも悲鳴一つあげなかったプルクだが、ニームから差し出されたシャツを広げたとたん、堪えきれずに悲鳴を上げた。

「なんて美しく仕上がっているのでしょう!」

 シャツの仕上がりが美しいだけで悲鳴を上げるほど感激屋のプルクである。その一枚のシャツと、ニームの目の周りの隈を見比べていったい何が起こったのかを瞬時に理解すると、こみ上げる思いを行動に現さずにはおれなかった。そのアルヴの大きな体で、小さなニームを思い切り抱きしめたのだ。

「あなたはファランドール中どこに出しても恥ずかしくない、立派な家政婦になれるわ」

 プルクに抱きしめられたニームが、「ぐえっ」という潰れたカエルのような声を出したのを確かに耳にしたエスカは、慌てて声をかけた。

「おいおい、オレの副官を勝手に家政婦にしてもらっちゃ困る。それよりはやくそいつに好物の果物でも出してやれ」

 エスカの言葉で我に返ったプルクは腕の中でぐったりしているニームを椅子に座らせると、既に皺だらけになっているエスカのシャツを手にして慌てて食堂を後にした。

 ロンドにニームがテーブルに着いた事を伝えに行ったのだろう。

「あ……」

 自分がアイロン掛けしたシャツが本人の手に渡る前に部屋から消えていったのを見送りながら、慌ててニームが小さく声を上げた。

「安心しろ。ちゃんと見せてもらった。プルクの言う通り、完璧だったぜ」

 エスカはそうニームに声をかけると、目配せして見せた。

「マジで驚いたぞ。スノウでもあそこまで完璧にはいかねえよ」

 その言葉にニームは嬉しそうな顔をしたが、すぐに真顔になってエスカをじっと睨んだ。

「まさかルーンを使ったとでも思っているのではないだろうな?」

 エスカは首を横に振った。

「お前の事が少しわかって来た。お前はこういう事にルーンは使わねえよ」

 ニームはエスカにそう言われると、不思議そうな顔でエスカの本心を探るようにじろじろと見つめていたが、ロンドが新しく果物の皿を目の前に置くと、興味の対象はそちらに移った。

 ロンドがテーブルに置いたニームの為の一皿は、旬を誇る秋の果物の見事な盛り合わせだった。

「それを食べたら、今日は昼過ぎまでは部屋でゆっくりしとけ」

 果物の皿に目を輝かせているニームに、エスカはそう声をかけた。

「え?」

「溜まってた書き物をやっつけてたら、結局徹夜になっちまったんでな。悪いが俺は昼まで眠らせてもらうから、その間、お前も好きにしろ」

「そ、そうか?」

 エスカのその言葉を受けて、ニームが一瞬ほっとした表情を浮かべたのを、そこにいたロンドもエスカも見逃さなかった。

 ロンドはエスカの気遣いにほっとしていた。エスカが気付いた事である。当然ながら屋敷の全般を預かる彼がニームの徹夜を知らないはずがなかったのだ。

 ニームの前に置かれた果物は、エスカがその日の早朝に業者向けの朝市へ出向いて自ら仕入れてきたものだった。使用人に命じて、あるいはロンドを通じて仕入れさせれば事は済んでいたのだが、ニームのあの姿を見たエスカは、自分の思いを他人に任せる気にはならなかったのだ。もちろん、その事をニームには知られぬよう、ロンド達には強く口止めをしていた。



「悪かったな。ちょっと外の空気にあたろうぜ」

 咳き込むニームを抱きかかえるようにして、エスカは広間から続きになっているテラスの一つへと出た。

 そこは中央広場に面する迎賓館の裏側、つまり広場とは反対側に面したテラスで、美しく手入れされた造形的な中庭の向こうに王宮の「右翼」と呼ばれる建物が見えた。

 テラス自体も相当に広く、しゃれた花壇がしつらえてあり色とりどりの花で飾られていた。黒の一月とはいえ、冬のないエッダである。花に困る事はないのだろう。広間に通じているテラスは四カ所あったが、そのどれもが毎日鉢植えを入れ替えて違う造形を楽しませてくれていた。

「大丈夫か?」

 エスカは、腕の中のニームに声をかけた。軽々と抱きかかえられたニームは、まだ少し苦しそうにむせていたが、かなり収まっているようで、エスカに恨み言を言う元気があった。

「あなたはいつもそうだ。狙ってわざとやっているとしか思えん」

「いやあ……」

 エスカは何かを言いよどむように言葉を切った。

「どうした?」

「悪いが手が塞がっててな」

「それがどうした?」

「頭をかいてくれ」

「――え?」

「こういう時は『いやあ』って言って頭を掻くのがお約束じゃねえか。だから」

「訳がわからん人だな」

「どら、もう大丈夫そうだな。立てるか?」

 エスカはニームをそっと立たせようとしたが、ニームは両腕を首に回して、嫌だという風に頭を振った。

「おーい、ニームさん?」

「この格好が気に入ったのだ。もう少しこのままでいたい」

 ニームはそう言うと、エスカの首に回した両手に力を入れて、エスカの顔に自分の顔を近づけた。エスカは微笑むと、ニームの小さな唇をそっと塞いだ。

「おや」

 その時、横合いから野太い声がした。

「これは失礼」

「いえ」

 ニームから顔を離したエスカは、一瞬で相手の正体を把握した。

「場をわきまえずお見苦しいところをお見せしました。まだ新婚ゆえ恥ずかしながら……。平にご容赦を、カイエン提督」

「ほう」

 すぐに立ち去ろうとした巨漢の老アルヴは、見ず知らずの外国の貴族が自分の名を呼びかけた事に興味を示したようで、立ち止まるとゆっくりと振り返った。

 そこには礼儀正しく最敬礼するエスカとニームの姿があった。

 軍服ではなかったので気づかなかったが、カイエン提督と呼ばれた老アルヴは、そのドライアド式の最敬礼で二人が軍属の人間である事を知った。

「広いテラスです。我々が独占するなどもってのほか。よろしければご挨拶などもいたしとうございます。是非お留まり頂けますよう」

 カイエン提督は改めて二人を見比べると、付き従っていた側近を二人とも追いやり単身でゆっくりとエスカ達の方へ近づいた。

 カイエン提督を引き留めたのは、エスカにとっては何気ない情報収集のつもりであった。

 トルマ・カイエン。それはシルフィード王国の海軍元帥を頂く重鎮中の重鎮と言っていい存在である。そんな相手と周りの雑踏から離れて話ができるとは願ってもない機会であった。本音は聞き出せないまでも、会話を交わせば何かしら見えてくるものもある。そんな機会を逃すエスカではなかった。

 しかしカイエン提督をそこで呼び止めてしまった事が、ニームとの関係に大きな亀裂を生じさせるきっかけになるとは、エスカは無論、その時は夢にも思っていなかった。

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