第七十三話 黒い翼のエルデ 4/4

 おぞましい咆哮を上げ、エイルを、いや目の前の餌を喰らおうと五本ある手を無秩序に伸ばしてきたスカルモールドは、前屈みの姿勢で熱の球体に包まれた。そして次の瞬間にはその熱で蒸発し、あっという間に広場から姿を消した。

 立て続けに起こる想像もしていなかった出来事に、もはやシーン達は言葉を失っていた。ただ呆然とスカルモールドが消滅した空間を眺めているだけであった。

 しかし、それで事が終わったわけではなかった。彼らは間を置かずにさらなる脅威を体験する事になった。


 さすがにシーンは自分達が戦おうとしていた相手が、普通の剣士やルーナーではない事にもはや何の疑いも抱かなかった。そして今の自分達に出来る事は唯一、この場からの離脱であることも。

 だが相変わらず体は言う事をきかない。

 シーンはせめて自分の置かれている状況をもう一度把握しようと、首を曲げてあたりを見ようとした。

 次の異変はその時に起こった。

 一日の始まりを象徴するかのように、白み始め、輝きを増していた空が急に暗くなったのだ。それはまるで時間が夜の方向へ巻き戻ったかのようであった。

 同時に体が重くなり、意のままに動かない四肢から力が抜けていくのを感じた。

 今までは自由に動かないだけで筋肉に力を込めようとする事はできた。しかし、今度は力そのものが入らない。それどころか、何かに力を込めようとしても、どんどんだるくなっていくのだ。

 そして意識が混濁を始め、やがて何も考えられなくなった。

 それはシーンだけでなく、その場にいた新教会全員に等しく訪れていた現象であった。

(これは何だ?)

 さっきまでその場に立っていた人間は、エイルとエルデだけであった。今度はその場で動いている、いや意識のある人間が二人だけと言う状況になっていた。

 そのほかの全員……今までもがき、わめいていた新教会の全員が、もうぴくりとも動かなくなっていた。


 ラウとファーンはこの時、単に幸運だったと言うべきであろう。

 エルデがラウとファーンの居た場所を意識していたとは考えにくい。エルデからそれなりの距離があった為に、単純に「神の空間」の及ぶ範囲ではなかったのだ。

 最初にエルデが作った「神の空間」は、その真の機能の発動に合わせて範囲を拡張した。その範囲からはギリギリで外れていたのだ。

 だから彼女たちは目の前で起こった事を、克明に観察する役を得た。


 その時……つまり明けかけていた空の時間が逆戻りしたかのように暗くなった時、彼女たちは頭上に浮かぶ二つの大きな渦を見つけた。

 それほど高い地点に存在していたわけではない。だがその真っ黒な渦は、ぐるぐると回転しながら大きくなり、明け始めた空を包み込むように覆っていった。

「翼?」

 ファーンがそうつぶやいた。

 一方ラウは言葉が出なかった。ただ、心の中で同意した。

 二つの黒い渦は、まるで水に絵の具が溶けるように広がっていき、やがて一対の翼のような形を作っていた。そしてその翼は、地上のエルデに繋がっていた。

 見ようによってはエルデはその場で巨大な黒い翼を広げたような格好であった。

 翼の完成に呼応するかのように周りにいた新教会陣営と思しき集団がその動きを完全に止めた事もラウ達は認めていた。

「あれが上席様の力?」

 独り言とも、問いかけとも取れるファーンの言葉に、しかしラウは回答を用意できないでいた。ラウとて初めて見る現象であった。エルデが潜在能力としてとてつもない力を有している事は知っていた。

 だが、空間をすべて飲み込んでしまうようなこんな力の発現は初めて見た。しかもそれはどう見てもハイレーンが使う治癒系のルーンとは言いがたかった。治癒や治療といったものとは真逆にあるかのような、まがまがしく絶望に満ち、深い闇にも似た恐ろしい翼がそこには広げられていたである。


 声が飛び交っていたその場に、重苦しい沈黙が流れていた。いや、静寂と言った方が正しいであろう。そもそも声を発する事ができる者はほとんどいなかったからだ。エルデとエイル以外には。

 ラウとファーンが息を呑んで見守る中、エルデの黒い翼はまたしてもその形を変えた。

 一対の翼は互いにねじれるように絡み合うと、今度は一本の渦を成した。しかしそれはほんの短時間で、あっという間にかき消えてしまったのだ。

 ラウは我が目を疑った。

 今そこにあった闇の帳が一瞬でその姿を消すと、次にその空間を満たしたのは、真っ黒な無数の羽毛のようなものであった。

 無風の空間をゆっくりと舞い降りる黒い羽毛は、落下の途中で色を白く変えていった。そして全ての白い羽毛は、ある地点に向かって降り注いでいった。

 ある地点とは、一人の小柄な人間が横たわる場所であった。

 ラウからはよく見えなかったが、その人間とは誰あろう意識を失ったままのキアーナ・ペンドルトンであった。

 白い羽毛は柱のように一カ所に集まると、横たわる一人の少年、キアーナの体に次々と吸収されていったのだ。


「エルデ!」

 瞳髪黒色のルーナーの現名を呼ぶ声に、ラウは我に返って声のする方へ視線を向けた。

 そこには精杖に寄りかかって、やっとの事で立っているエルデ・ヴァイスの姿があった。

 エルデは瞳髪黒色の少年が自分の名を呼びながら駆け寄ってくるまで、何とか堪えていたようだった。だがエイル・エイミイがすぐ側に来た時、自らの体を支えていた力が尽きた。

 エルデはエイルに全てを預けるかのようにして、その胸に倒れ込んだ。

「おい、エルデ! しっかりしろ!」

 エイルの声が再びあたりに響いた。

 ラウとファーンは顔を見合わせるとうなずき合い、自分達もエルデのもとへ駆けだした。



 西暦四〇二七年黒の一月十七日にハイデルーヴェンでおこったとされるハイデルーヴェン城消失事件は、前触れもなく始まり、そして瞬きする間に終わった。

 この時消失・倒壊した建物は旧ハイデルーヴェン城を含んで十とも二十とも言われており、その原因は現在も不明のままとなっている。

 もっともごく少数は存在していたとされる目撃者の証言などから、一般的には正教会と新教会に属する高位ルーナー同士の小競り合いによるものと認知されており、多くの人々は「その事件」を当たり前のようにそう認識している。

 そしてもちろんこの事件はこの後始まることになる第三次大規模世界大戦、通称「月の大戦」と呼ばれる大きな戦いの呼び水の一つとなった事件としてあまりにも有名である。

 しかしこの事件は地方で起こった初めての紛争らしい紛争という意味合いに捉えられているに過ぎない。

 だがこの時の戦いは、実のところ一地方の街で起こった二つの陣営からなるただの小競り合いなどではなかったのである。

 エルデ・ヴァイスが「神の空間」を作り上げ、エイル・エイミイがエレメンタルの結界を構築し、四聖白き翼がその力を解放したこの事件は、ファランドールに様々な影響をもたらしていた。

 最も近いところでは、もちろんアプリリアージェ一行に。

 少し離れて、同じウンディーネ連邦共和国の首都島アダンに。

 そして、サラマンダとは別の大陸の内陸部にある小さな湖の畔に。

 そう。

 感知出来る者が居たのである。

 彼らにとってこの事件は、次なる行動を起こす為の大きな鐘響(どうきょう)となった。

 ある者は四番目の亜神の存在を知り、またある者は四番目のエレメンタルの存在を認識した。

 そして最も遠い場所にいるある者は、自らを閉じ込めていた戒めが綻びたのを感じ、その重いまぶたをゆっくりと開いた。

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