第六十九話 クレハが守ったもの 2/4

「さて、と」 

 エルデはそう言うと工房内を見渡した。

 クレハ・アリスパレスという名の女デュナンの体が消え、貯蔵槽に満たされていた液体の色が抜けた事を除くと、その場にある構造物は何一つ変わっていなかった。

 もし精霊陣が解かれたとすると、何らかの変化が生じる可能性があった。しかしエイルは現時点では何の変化も感じなかった。

 それはエルデも同様だったのであろう。小さなため息をつくとシグに一礼した。

「助かったで、師匠。おかげでなんとか元通りや」 

 しかし、シグは厳しい声で返した。

「いやいや、元通りではありませんぞ。そもそも……」 

「わかってる!」 

 エルデはシグの言葉をピシャリと遮ると、精杖の頭頂部をシグに向けた。

「戻れ、シグ・ザルカバード」 

 エルデの声はシグというエーテル体にとってはあらがうことのできない命令ルーンそのものなのだろう。何の抵抗もないままにシグ・ザルカバードのエーテル体は空中からかき消えた。

「元通りじゃないって、どういう事だ?」 

「ああもう、アンタからこっちの体に移って間もないから、まだ本調子にはほど遠いっちゅう事や」 

「本当か?」 

「嘘ついてどうすんねん。全く年寄りっちゅうのは小言が多いわ」 

「そりゃ心配するだろ。オレだってそんな事言われたら心配しちまうよ」 

「へえ?」 

 エルデは嬉しそうにニヤリと笑うと、エイルの言葉尻を捉えた。

「ウチの事、心配してくれるんや」 

「そ、そりゃそうだろ。だいたいあんな事があったばかりだし」 

 エイルはエルデの顔から視線をゆっくりと下に移した。ほんの数時間前にエルデの言う「小洒落た服屋」 で買ったばかりのサクランボの花を大きくあしらった服には、ひどい破れがあった。それよりも何よりも、エルデの血で赤黒く汚れて当初の美しさは見る影もない。

「せっかくエイルが選んでくれたのに、台無しにしてもうたな」 

 エイルの視線に気付いたエルデは、そういうと破れた胸の辺りを手で隠した。

「その服、店にもう一着あったじゃないか。後でまた買いに行こうぜ」 

「そやな……」 

「それにしても……」 

 エイルはエルデが手で押さえている胸の辺りを見つめたままつぶやいた。

「ん?」 

「照準がいやに正確だったな、って思ってさ」 

 今更ながらだが、こうして落ち着いたからこそ思い出される事がある。射出装置がそれなりに精密なルーンで制御されているとは言え、的はおそらく壁の扉であったはずだ。そう考えるとエルデの心臓をああまで正確に狙えたのは驚異であった。

 だが、エルデはエイルの疑問を事も無げに鼻で笑ってみせた。

「ああ、あんなもん」 

「え? 何かからくりでもあるのか?」 

 エルデはうなずいた。

「青緑女に血行回復と疲労物質の分解ルーンをかけたときやけど」 

「あれって、そういう細かい機能があるルーンだったのか」 

「ふふん、回復・治癒系なら相当細かい機能のルーンも使えるで。たとえば朝起きたときに目やにができにくくする為に涙腺付近にかける涙サラサラ濾過ルーンとか」 

「いや、そう言うのはいいから照準が正確だった理由を教えてくれ」 

 細かい制御ができるルーンの話を得意げに始めたエルデは、エイルに話の腰を折られて少々ムッとした顔をしたものの、すぐに真顔に戻った。

「ウチがルーンをかけたあと、あの女はウチの背中を触ったんや」 

「あ」 

 エイルもその時の事を覚えていた。

 確かにキセンはエルデの背中に触れていた。エイルには去ろうとするエルデを呼び止めようとして思わず体に触れたとしか見えなかったのだが、エルデは間違いないと言った。

「今思えば触られたのは背中の左側、まさに心臓の真後ろやった」 

 エイルは納得していた。あの時に何らかの方法でエルデの背中に的を記したのだ。もちろん、あの木製の精杖をそこへ誘導する為の。

「知り合いが一人も居ない異世界にあって信じられるのが自分だけ、っちゅうのは想像以上に過酷なんやろな。使い途があるかどうかもわからへんようないろんなものを『もしもの時の為に』考えてたんやろな。たぶんあいつは、そういうのを無数に持って歩いてたんや」 

 エルデは想像して思わずつばを飲み込んだ。それはおそらく筆舌に尽くしがたい苦痛の日々であったに違いない。

 少なくともエイル自身はそんな生活には何日も耐えられないだろう。それは確信を持って断言できた。

 そして同時に、そういう状況にはならなかった自分を幸運だと確信もできた。

 だからエイルは、その気持ちを言葉に出した。


「オレには、お前が居てくれてよかった」 

「な、なんやねん」 

「そう言いたい気分になったんだ」 

「ふん」 

 エルデは顔を赤くすると目を逸らした。

「ウチかて、アンタのおかげで文字通り一命を取り留めたんや。礼を言うのはこっちの方や」 

 そっぽを向いたまま不機嫌そうな声でそう言うエルデを見て、エイルは思わず笑みがこぼれた。

「やかましい」 

「オレ、何も言ってないぜ」 

「その笑い顔がやかましいんや!」 

「むちゃくちゃだな、おい」 

「まあ、あの時は全く気付かへんかったから、アイツがいかに恐ろしい女かって事をしみじみ感じるわ。今思えば昔ヴェリーユでウチがやられたんは、あの青緑が入れ知恵したか売りつけたかした、ルーンの効果を吸い取る呪法入りの武器やったんやろな。それもたぶん、クレハの血を使った呪具やろ。なにしろ亜神のウチの治癒力が追いつかへんかったんやから。おおかた解析中の不完全なエアの術式でも仕込んでたってとこやろな」 

「なるほどな」 

 そう言われるとなんとなく納得ができた。ヴェリーユで自らの体を放棄しなければならない事態に陥ったのは「陣廊」 の力だけではなかったのだ。

 エルデはいったん言葉を切ると、しゃがんで血が付いたまま床に放置されている精杖を手に取った。

「不幸中の幸いっちゅうやつかもな。ウチを貫いたこの精杖にはそれがない。理由はいくつか考えられるけど、今言うたようにそんなもんが必要ないくらい正確に的に当てられるっちゅう自信があったからか、この装置を取り付けたんはもっとずっと以前で、呪法を編み出す前やったか、あるいは……」 

「あるいは?」 

「いや……何度も使えへんかった呪法なんかなって思て」 

「それって……、材料とか原料に限りがあった、とか?」 

「今になっては正解はわからへんけど、どっちにしろあんまり深う考えると不愉快な気分になるわ」 

「そうだな」 

 エイルは材料という言葉を出した事を後悔していた。

 それが何を意味するのかはわかりきっているからだ。

 だから話題を転じる事にした。

「その精杖はまるで『グングニルの槍』だな」 

「ぐんぐにるの槍?」 

「フォウの神話に出てくる大神が持つ槍でさ。どんな的でも狙いを外さないって言われてるんだ」 

「ほう」 

「あ、でも神の持ち物だから違うな。忌まわしいという事で言えば、むしろ『ロンギヌスの槍』か」 

「それも神話か?」 

「神話というより伝承みたいなものかな。フォウで一番有名な宗教上の聖人が時の為政者の陰謀で死罪になった時、本当に死んだかどうかをその槍で突いて確認したっていう話があって……」 

「その槍を使ってたヤツがロンギヌスっちゅう名前なんか?」 

「まあな。でも、そんなものは後世のでっち上げさ。フォウの宗教なんてでっち上げ話の集大成みたいなもんだからな」 

「でっち上げ話の集大成なんはマーリン正教会も同じ様なもんやな、少なくとも表の正教会は」 

「でも、どっちにしろその精杖は槍じゃないし、何よりお前は死んでない」 

「そやな。なら、変なでっち上げ話が後世に残らんようにしとこか」 

 エルデはそう言うと、手に持った精杖を無造作に放り投げた。精杖は大きな風切り音を残し、一瞬後には部屋に立ち並ぶ貯蔵槽の一つに見事に突き刺さった。

 貯蔵槽は見た目よりも薄い金属で覆われていたのだろう。エルデが投げた木の精杖が深々と突き刺さっていた。

 もっともいくら金属が薄いとは言え、エイルが投げつけた程度では貯蔵槽に弾かれて終わりだったろう。エルデの持つ力の強さがそこでも証明された事になった。

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