第六十一話 亜神を滅するもの 1/3

 叫ぶと同時に、エイルは妖剣ゼプスの柄に手をかけた。

 だが、剣を鞘から抜く事はできなかった。急に体が硬直して動かなくなったのだ。

「くっ」

 その感触をエイルは知っていた。時のゆりかごでエルデにかけられたものと同じ、空間固定ルーンだった。要するにエイルは体の自由を奪われたのだ。

 もちろん、そのルーンをかけた人物は明白だった。怒気でつり上がったエイルの目が見つめる先……そこに平然とした顔、いや、それはもはや無表情と表現した方がいいだろう……で仁王立ちになっている青緑の髪の女性だった。

「だましたな? 最初からオレ達をだましてたんだな」

 幸い言葉はしゃべれるようだった。ほとんど叫び声と言っていい大声で、エイルは自分を見下ろすキセンに問いかけた。

 いや、問いかけたのではない。怒鳴り声を投げつけたと言った方が正確であろう。

 だがキセンは眉一つ動かさなかった。

「心外ね。そんなつもりは全くなかったわ。だってこれはついさっき思いついたんだもの」

 その声はしかし無表情な顔とは違い、どこか嬉しそうな響きを持っていた。

「何だって?」

 エイルは信じられないといった表情でキセンを見つめた。信じられないのはキセンの言葉の内容だけではない。その明るい口調に対しても強い違和感を覚えたのだ。

「エルデはお前をルーンで治療してやったじゃないか。なのになぜだ!」

「だからなのよ」

 キセンはそう言いながら横たわるエイル達の側に近づいてきた。

「え?」

「ペンドルトン君の説明を聞いてまさかと思ったけど、自分で体験してみると文字通り聞きしに勝るすごい回復力だったわ。あの治癒の亜神の力はすごい。それにどう考えてもあれでも最高出力じゃない。それどころか指先をちょっと曲げただけの、言ってみればあの子にとっちゃ朝飯前程度のルーンなのに、私はまるで生まれ変わったかのように体が軽くすっきりしたのよ。物心ついた時から私は肩こりには悩まされていたから、今はそりゃあもう生まれ変わったようなスッキリした気分だわ」

 エイルにはキセンの言っている事がまったくわからなかった。

「だったら」

「そんな力を見せられたら、普通は自分のものにしたくなっちゃうじゃない?」

「何だって?」

 キセンはエイルのすぐそばまで歩み寄ると立ち止まった。無表情だったその表情が変化しているのをエイルは認めた。無表情だったキセンの顔は、一転して何かを成した遂げたような満足感あふれた笑顔に変わっていた。そこには人を殺したという罪悪感のかけらすら存在してはいなかった。

「でも、これがこんなことに役立つとは思わなかったわ」

 キセンはそういうと足下に転がっているネジ釘状の精杖を拾い上げた。放たれた三本のうちの一本で、エイルの体をえぐるようにかすめた二本の内の一本だった。精杖の長さはちょうどキセンの身長ほどだった。

「的を正確に狙ったのはいいとして、まだ精度が完全じゃないわね。それに稼働は三本。二本も不発があったというのは考え物ね。再調整が必要だわ。まったく面倒ねえ」

 キセンは独り言のようにそう言うと、その精杖の先についている血を見つけてエイルに視線を戻した。

「『そっち』はどんぴしゃだったけど、君は運が良かったわね。確かあの時、君はとっさに動いたように見えたけど、まさかこれに気付いたの?」

「あんたは、オレの事をよく知ってるんだろ?」

「ああ、そうかそうか。『敵の動きがわかる』ってやつ?でもあなたは私を敵だとは思っていなかった。だって本当にこれを作動させる直前までは敵じゃなかったしね。だから気付かないはずよね? それより『先生』から『あんた』に格下げ? まあ、無理もないわね」

 キセンはもう興味を失ったといった風に手に持っていた木製の精杖を無造作に床に放り出した。精杖は床で弾むと、そのまま惰性で壁に向かって転がっていった。顔が固定されているエイルは、見るともなしにその動きを視界に捉えていたが、その視界に別のあるものを見つけ、鼓動が高鳴った。

「私は『これ』が手に入ればよかったから、君を殺すつもりは全くないのよ」

 あごでエルデを指しながら、キセンはこともなげにそういった。

「それにしても君、よく見ると結構な大けがね。でも運がいいわ。君には最初の実験台になってもらうつもりよ。もちろんこの亜神の治癒能力の効果確認の為のね。この子の体液や組成物の持つ潜在能力はいったいどれほど私を驚かせてくれるのかしらね。今からドキドキするわ」

「外道め」

 その言葉を聞いたエイルは思わず唸った。

 そして同時に悟ったのだ。

 キセン・プロット、いやヴェロニカ・ガヤルドーヴァという希代の科学者がなぜフォウであれほど敵が多かったのかを。ガヤルドーヴァ博士の功績を称える人間は居ても、功績を成した「人物」に焦点が当てられる事はあまりなかった。それどころか、天才科学者「ガヤルドーヴァ博士」という人物についての評価はお世辞にも偉人を称えるものばかりとは言い難く、妙な噂の方が多かったのだ。それも圧倒的に、である。

 エイルはそれを現象だととらえていた。あまりに偉大な人物に対する妬みや嫉み、つまり嫉妬が高じて、世の中をしてそうさせるのだろうと。

 だが、エイルは自分の考えこそが大間違いだったという事を思い知った。違うのだ。

 エイルを見下ろす青緑色の髪の科学者は、つまり本当に純粋に自らの好奇心以外には何の価値も見いださない、いや見いだせない特異な人間なのだ。

 言い換えるならば、それは価値観の相違というものだ。キセンにとって自分の好奇心を満たす行為は是であり、道徳も宗教も、あまつさえ法律さえ防波堤として機能する事はないのである。

 天才と狂人は紙一重という言葉を、エイルは自分の体で実感する時が来るとは思わなかった。だが、まさに目の前に立っている人物はそれを地で行く究極の「人でなし」だった。


「科学者に外道も内道もないわ。事実があり、その事実を知ろうとする欲望があるだけよ」

「狂ってる」

「フォウではよく言われたわね。でもこっちでその言葉を聞くのは久しぶり。懐かしいわね」

 エイルの言葉はキセンの感情を揺らす事は出来ないようだった。それどころか、もうその話には興味がないといった風に話題を変えてきた。

「ねえ、君は知ってる?白木の杭」

 よほど気分が高揚しているのだろう。それまで見せた事もないような笑顔でキセンはエイルにそう尋ねた。

「白木の杭?」

「そうよ。あなたも聞いた事があるでしょ?吸血鬼の伝説に必ずついて回る、奴らが苦手なもの、つまり弱点よ」

 一般にフォウでは吸血鬼は不死とされているという。だがその強大な力の反動として数々の弱点があるとも言われる。その一つが白木で心臓を貫くと不死の化け物も息絶えるというものである。

 それはまさに今、キセンがこの場で実証したものであった。もっともファランドールの亜神は、圧倒的な腕力と回復力があり、相当な長寿であるとされるが、フォウの吸血鬼とは違い、もともと不死ではない。

「他にもいろいろあるわよね。十字架、流水、太陽光線、炎、ニンニクなんていうのも」

 キセンは得意げに語りだした。

 彼女に依れば、フォウの吸血鬼の弱点のうち亜神に対して効き目があるのは唯一白木の杭だけなのだという。

「まあ、そもそもフォウでも十字架やニンニクなんていうのはでたらめみたいなものでしょうしね。十字架はキリスト教の最も重要なアイコンで、それが魔物に恐れられているというのは宗教の宣伝を考えると効果的で、まさに宣伝効果をねらったご都合主義の権化みたいな例だし、太陽の光については神の力の象徴で、人間には御利益があるけど、化け物は闇の世界にしか生きられない、なんていう単純でわかりやすい明暗系道徳観ね。ニンニクは臭いの代表ってだけで、そもそも嗅覚が人間より発達している彼らは、においが強いものに対して人間より刺激が強くて、クサいものを嗅ぐと参っちゃう、ってだけでしょうよ」

 キセンの話を聞きながらも、エイルの視線は声の主の向こう側に向かっていた。

 エルデが倒れた瞬間に、エイルにはキセンに対する明確な殺意を持った。だが怒りで我を忘れそうになる前に固定ルーンで体が動かなくなってしまった事が、頭に上った血を冷ます機会をエイルに与えた。しかし冷静さを取り戻したにも関わらず、それは殺意の喪失にはつながらなかった。むしろエイルは確実にキセンの命を奪う方法を考え続けていたのだ。もしあの時、闇雲に切りつけていたならば、まだ隠されている可能性がある仕掛けによって返り討ちに遭っていたかもしれないのだ。

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