第六十一話 亜神を滅するもの 2/3
おかしな話ではあるが、冷静に計算する時間を与えてくれたそのキセンに対し、エイルは感謝すらしていた。
エイルとしては、キセンにはいろいろと聞きたい事があった。その口ぶりからしてもファランドールとフォウ、いやプロット4との間に何らかの関係があるのはもはや間違いない。キセンはその点についてエイルに正確な説明ができるはずだった。
フォウに戻る術についても同様だ。おそらくキセンはいくつかの方法を考えているに違いない。キセンの事である。既に実践して失敗したものは数多いだろう。だがそれでも現状のキセンの持ち駒では試す事すらかなわない方法が、まだいくつもあるに違いない。
エイルは『アトリ』なのだ。移動混信点と言われる特異な存在である。それがフォウ側ではなくファランドール側にあるという事は、二つの世界を結ぶ為の経路を開けるための鍵になりはしないか? 少なくともエイルの存在はキセンにとっては新たな可能性のはずだ。おそらくキセンは頭の中で既にその為の実験をいくつも構築しているに違いない。
そしてキセンから要請があれば、エイルとしては迷わず協力するつもりだった。ほんの一分前までは。
だが今のエイルの胸に去来するものは、キセンに対する憎しみのみであった。フォウに戻る道筋など、エイルにとってはもはや何の価値もなかった。エイルにとって大切な存在であったエルデを実験材料としてしか見ない青緑色の髪の女を、両方の世界から消滅させる事が自らの生まれてきた意味に違いないとさえ思い込んでいたのだ。
「さて、おしゃべりはこれくらいにして、先に『これ』の処理をしておかないとね」
人間と違い亜神はその命が尽きると、あまり時間を置かずに灰になって消滅するのだという。それを防ぐ方法は、その亜神の血で体表面を覆う事。それが《深紅の綺羅》の事例に依ってキセンが得た亜神の特徴の一つだった。
エイルは自分が得た知識を得意げに話すキセンに対し、思わず怒鳴り声をあげた。
「エルデを『これ』とか『化け物』とか呼ぶな!」
亜神の持つ特性など、どうでもよかった。そんな事よりも何よりもエルデの遺体を物扱いする言葉を、エイルは許すわけにはいかなかった。
しかしその叫びは、二人の価値観に埋められない広く深い溝がある事を浮き彫りにしたに過ぎなかった。
「あなたにとっては大事な人の亡骸でしょうけど、普通の人間にとって化け物の死体なんて、モノ以下よ。そして私にとってはただの素材」
キセンは小さく鼻を鳴らすと馬鹿にしたような調子でそう言い、まるでエイルを挑発するかのように横たわるエルデの頭を靴のかかとで軽く蹴って見せた」
「やめろ!」
エイルは押さえていた怒りが再びみぞおちあたりからこみ上げてくるのを感じた。
「その汚れた足でエルデに触るな!」
「あらあら。あなたがどう思っているかしらないけど私はこう見えても血も涙もある人間よ。今、その証明をしてあげようとしているのに」
そう言うキセンの顔からは、先ほどまで見せていた感情的な部分が再び消え去っていた。
(証明だと?)
エイルは口に出しては答えなかった。既にキセンと会話をする事自体に嫌悪を感じていたのだ。
「ほら、ごらんなさい。そっぽを向いてるあなたの大事な人の顔をちゃんとあなたの方に向かせてあげるわ」
キセンはそういうともう一度、今度は強くエルデの頭をつま先で持ち上げるようにして蹴り、エルデの顔の向きを変えた。
「ぐぅ……」
エイルは言葉にならない声を漏らした
そこには認めたくなかった残酷な事実があった。
目の前に、エルデの顔があった。
それは自らの血で顔の半分を赤黒く汚した小さな顔だった。白かった頬には赤黒い血と共に長い黒髪がべったりと張り付いている。
そして……
そして、黒目がちの目が開かれていた。
それはただ、開かれたままだった。
開いてはいる。だが、精杖が背中に突き刺さった瞬間から、おそらくその瞳には何も映ってはいないのだろう。
「く……」
慟哭がこみ上げてきた。
だが、エイルは歯を食いしばって耐えた。
エイルにはたった今目的が出来たのだ。新たな目的を果たす為には感情にまかせて泣き叫んでいる時間は無かった。
「ふん」
キセンはそんなエイルには目もくれず、エルデの状態を確認した後、軽くため息をついた。彼女自身もエルデの死を確認をしておきたかったのだろう。固定ルーンはエルデの体にもかかっていたはずである。術者だけが固定対象物を操作、つまり動かす事が可能なのだ。エルデの体を固定したあとで、その死を確認する為に近づいてきたのだ。そして万が一息があったとしても、そこでとどめを刺すつもりでいたのだろう。
どこまでも周到なキセンの態度に、エイルはもはや何の迷いも持たなかった。
エルデの死をエイルは受け入れはしなかった。だが、死の事実を認識してしまったのだ。それは憎悪と怒りによる殺意を加速させるのに充分だった。
そう。エイルの今の目標はキセンを殺す事だった。
無駄だと知りつつも、なんとか手を伸ばそうとエイルはもがいた。もう何も映していないエルデの目を閉じてやりたかったのだ。そしてその美しい顔についた血をぬぐってやりたかった。
だがそれがかなわぬ事を知ると、こみ上げる嗚咽をこらえながら、涙でぼやけつつある視線を再び部屋の奥へと注いだ。
エイルの視線の先……そこにあったのは精杖ノルン、いや、白のスクルドだった。そのスクルドとエイルを結ぶ直線上には、キセンの足があった。
エイルは唇を噛んだ。
(まだだ)
エイルはさらに強く唇を噛むと、はやる心を落ち着かせる為にいったん目を閉じた。まぶたの開閉と声を出す事だけが、今のエイルに出来る事だった。
悔しさと憎悪と怒りで醜く歪んだ今の自分自身の顔をエイルは容易に想像が出来た。そしてそれがさらに醜く崩れようとかまわないと自らに言い聞かせた。
そして少し鼓動が収まるのを待って、ある言葉を口にした。
「一つだけ、頼みがあるんだ」
それは全ての感情を押し殺したような、低く、そして弱い声だった。
白衣を脱ぎ、床に流れた血をそれに染みこませる作業をしていたキセンは、エイルの問いかけに反応した。
「なあに?」
「こうなったらオレはあんたに協力する」
「へえ……」
意外そうな声を上げて、キセンはエイルの言葉に手を止めた。
「まったく信じられないわね、その言葉。それに私は君の意思がどうあれ、協力してもらうつもりつもりだから」
「だから、精杖を……」
「精杖?」
「ああ。あそこにあるそいつの精杖を、形見として、オレにくれ。頼む……」
エイルは絞り出すようにそれだけ言うと、目を伏せた。
「ああ、あの精杖ね。二段階に変形する精杖なんて見た事も聞いた事もないわ。不思議な精杖だから、後でよく調べさせてもらうつもりでいたのよ。えっと……」
エイルの願いを聞き入れるつもりなどさらさら無いのだろう。キセンが興味の対象物を他人に渡すはずがなかった。だが反対に、調べ上げた末、興味を無くしたなら、惜しげもなくうち捨てるに違いない。
だが、エイルはそれを狙っていたわけではない。エイルには「今」しかなかったのだ。
だから、これは賭であった。キセンがどう動くかの。
果たしてキセンは、エルデの体を赤黒く染まった白衣で包み終えると、立ち上がってあたりを見渡した。明らかに意識はエイルではなく、違うものに向かっていた。
そう。次の興味が精杖に移ったのだ。
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