第六十話 人と亜神と科学者 2/3
淡々とした声だった。エイルは我が耳を疑った。
「え?」
「わかった。お前はそういう事をもみ消せるだけの力を持ってるって事やな。この町の上の人間だけやのうて、さっき見たように、外部の有力者にも相当のコネがあるっちゅうことや」
「そうね」
「本人の同意と覚悟の上、やな?」
「嘘じゃないわ。意味はないけど、一応本人自書の念書もあるわ。見たいなら見せてあげるけど」
エルデはそれには及ばないと首を横に振った。
「それで、成功した二例について、問題はないんか?」
エルデの声は落ち着いていた。怒りが収まったのか、あるいは怒りを通り越してしまったのか。さすがに表情だけではエイルにはわからなかった。
「問題って、副作用の事ね?」
「それを含めて、わかってる事を教えるんや」
「一言で言うと、できあがったのは不安定なルーナー。力を制御できないルーナーと言った方がわかりやすいかもしれないわね。だからできるだけルーンは使わないように言ってあるわ」
キセンの話を聞いたエルデの顔が歪んでいるのをエイルは見逃さなかった。力の制御ができないルーナーとは、幼い頃のエルデ自身の事でもあった。そしてシグ・ザルカバードの下で共に学んだ多くの仲間を失う事になった出来事、すなわちユート・ジャミールが放った制御不能のルーン……。全てはルーンに翻弄された者が生み出す悲劇であった。
「それから、だんだん感情の起伏が無くなってきてるわね。ペンドルトン君は施術してまだそれほど経ってないから大丈夫だけど。ああ、それから血の効き目は永続しないのよ。だから定期的に補充が必要。完全に切れたら……」
「切れたら?」
「それはまだわからないわね。怖くてまだ試してないから。それともう一つ」
「なんや?」
「時々、体中に我慢できないくらいの激痛が走るらしいのよ。発作は数時間続いて、放っておくと自分で自分を傷つけちゃうの。いろいろ試したけど普通の鎮痛剤じゃ効かないから、特別な薬でそれを抑えているわ」
「特別な薬?」
「ニアレーよ」
エイルはその名の薬を知らなかった。だが……
「……とんでもない事をしてくれたもんやな」
当然ながらハイレーンであるエルデはその名に反応した。いや、反応したという生やさしい状態ではなかった。エルデを一目見れば、それがわかった。エルデの露出している肌が、全て鳥肌になっていたのだ。
「多少なりとも安全な所から入ってみようとしてシンセミアも試してみたけど、案の定そっちはダメでね。そもそもファランドールに自生している大麻ってそういう特性がないみたいね。で、例の本に載っていた薬を作ってみたってわけ」
「外道が」
エルデは吐き捨てるようにそう言った。
「ニアレーって?」
「この世のものとも思われへんような快楽をもたらすといわれてる禁断の薬や。そうか、あの匂いはニアレーやったんか……」
「市井の文献からは製法どころか、もう名前すら消えているわね。四聖という言葉もそうだけど、正教会の仕事って言論統制というか言葉狩りみたいね」
「麻薬……なのか?」
「フォウではそう言うわね。ファランドールでは麻薬という言葉がそもそもないの。でも、ニアレーがないともう彼らは生きられないわ」
「なんて事を……」
ニアレーの正体を聞いて、エイルはさすがに絶句した。
「実験もええけど、亜神として一つ忠告しといたる」
エルデは薄桃色の、自らの血液が含まれた液体の中でたゆたう《深紅の綺羅》を見つめながら言った。
「ルーンをもてあそぶな。ルーンは本当に操る力がない者が手を出してええもんやない。ましてやエーテルは理屈で完全制御できるもんやない。ルーナーが能力以上のルーンを制御でけへんのと同じや。ましてや自らの体でエーテルを纏って、一体化し、意思を乗せるルーナーと違うて、単純に結果を得るためだけにその力を持つ触媒をいじくり回すような真似は、危険すぎる。アンタはこの場所を守る事に専念したらええんや」
「守るだけではダメなのよ」
「やかましい。部外者風情が勝手な事を言うな!」
「部外者ですって?その言葉は聞き捨てならないわね」
「これは、ファランドールの住民、つまりウチらの問題や。妙な事になる前に、ウチがきっちり話つけたるさかい、お前はそれまで誰もここに近づけんようにしっかり守ってくれたらそれでええ。これ以上いらんことすんな!」
「話をつけるって……まさか《黒き帳(くろきとばり)》に遭うって事?それで話合いをするって?」
「ウチに考えがある。ガタガタ言うな」
「そうか……。ルーンって言うのは、まるでフォウでオレ達がもてあましてる核みたいな物って事なんだな」
「『核』?」
「ああ、使いようによっては毒にも薬にもなる技術の事だ。ただ、その毒も薬も桁違いに強すぎて、その気になればあっという間にフォウを壊滅する事だってできるんだ。オレ達はそんなモノがある世界で、なんとか均衡を保ちながら細い尾根道をふらふら歩いてるようなものさ」
「ふ……確かにね」
キセンはそう言うと小さくため息をついた。
「たとえは今ひとつだけど、確かにルーンと核は似てるところがあるわね。いえ、エーテルと核、なのかもしれないわね。制御ができないという点ではルーンだけど、兵器になり得るという意味ではフェアリーもそうだわ。そもそも人間が扱ってはいけないもの、という点では全く同じね」
だが、その言葉を聞いたエルデは憮然とした表情をキセンに向けた。
「本来エーテルは人と渾然一体になって人を形作るべき要素の一つや。扱ったらアカンとか、そういうモンとちゃう」
「あなたはこの世界、つまりファランドールの人間だから、いえエーテルの存在を否定できない亜神だものね。そうとしか言えないわ」
「なんかムカつく言い方やな」
エルデはそう言うとエイルを見た。同じフォウの人間であるエイルはキセンの今の言葉をどう思っているのか。そんな視線をエイルに投げたのだ。
「核とエーテルを同じように考えるのはどうかな。核は人間が弄くりまわして作り出したものだけど、エーテルは大気と一体化した目に見えない世界の構成要素みたいなものだろ?だったら全く違うモノだとオレは思う。ただ……」
「ただ、何?」
「エーテルもしくは精霊波というヤツの力を使える人間と使えない人間がいる。いや、使える人間の方が圧倒的に少ないじゃないか」
「そうやな。フェアリーはどんどん減ってるし、ルーナーは保護動物みたいなもんやしな」
「オレはここに来てまだ二年だけど、この世界で一番気になってるのはそこなんだ」
エイルはそう言うと顔を曇らせた。その変化をエルデは訝しんだ。
「どういう意味や?」
「エーテルの力を使えない人間が、エーテルの力を自由に使う人間を見て、どう思う?単純にすごいとかうらやましいとか、それだけか?」
「それは……」
「お前の立場だと、そう言う人間がどう思ってるかなんて考えた事がないのはよくわかる。オレだって剣を扱うのが下手な人間を見て、なぜこんな当たり前の事がもっとうまくできないんだって思っていたからな……」
エルデはその一言でエイルが顔を曇らせた意味を理解した。同時にエイルの言いたい事も想像ができた。
「わかった。もうええ」
だがエイルは首を横に振った。
「気を遣ってくれてありがとな。でもオレはたぶんもう、あの事は乗り越えてると思う。この剣を抜く決心ができたのは、そういう事だと思うんだ」
「でも、アンタは実際にまだ抜いてへんやろ?」
「抜くさ。そして剣を剣として使う。そもそも枝や棒は使ってたろ?あれは要するに言い訳だったんだ。剣じゃなきゃいいんだって自分をごまかしてたのさ。わかっちゃいたけど、認めたくなかった。一線は越えてない……オレは本当は人殺しじゃない、もう剣では人を殺さないって。剣で殺さなきゃ人を殺した事にならないなんて、オレもたいがい卑怯な性格だよな。……情けなくて死にそうだ」
「別にええ。ムリに剣を抜く必要はない。ウチがその気になったら人間とか一瞬で灰にできるんや。アンタがムリして……」
「それが嫌なんだ!」
エイルはエルデの言葉を遮って叫んだ。
その剣幕にさすがのエルデも一瞬ひるんだ。
「すまん。お前を怒鳴る事なんてなかったな」
エイル自身も自分の声に驚いていた。すぐに我に返るとうなだれた。
「エイル……」
「お前には……エルデにはこれ以上人を殺して欲しくないんだ。お前の力は圧倒的過ぎる……。それはやっぱり核と同じだよ。強大すぎる力は……誰も幸せにしないと思う」
エルデは開きかけた口をすぐに閉じて、口を突いた質問を飲み込んだ。聞いても意味のない質問だった。たとえそれがどんな答えであったとしても、エルデはそれをエイルから聞きたくはなかったのだ。
だが、飲み込んだ答えをエルデは反芻していた。
(……誰が?幸せになれないのは一体誰?)
「アトリの少年」
二人のやりとりをじっと聞いていたキセンがエイルに声をかけた。
「君の言いたい事はなんとなくわかるわ。でもね、科学者はそこに可能性があれば試さずにはいられない。そこに力があれば使わずにはいられなくなるのと同じ事ね。それはみんな人間の性みたいなものよ。でも、君は一つ大きな勘違いをしてるわ」
キセンの言葉にはエイルだけでなくエルデも反応した。
「え?」
「勘違いやて?」
「だから、こういう話をすると長くなるって言ってるでしょ。今の一言は君がその件について気になって気になって仕方なくなるように私がかけた呪いの言葉よ」
「プロット先生……」
「ゆっくり時間がある時に尋ねていらっしゃい。エーテルが大気と一体化しているこの世界の『当たり前』について、君の考えが根本から間違ってる事を教えてあげるから。でも……」
「なんです?」
「あなたとはファランドールではなく、もっと早く……そう、フォウで出会いたかったわね。そんな気がするわ」
そう言ったキセンの顔に、いつものにやにや笑いはなかった。
真顔のキセンはそれだけ言うとエイルの問いかけを遮るように部屋の一隅を指さした。
「さ、いくら夜明けまでに時間があるからってのんびりしてたらお仲間の方が動き出して会えなくなるかもしれないわよ。私はなんだかんだいって保身の為に、ヴェリーユの連中の要求に応えないわけにはいかないしね」
キセンの指さす方向、そこには彼らがこの部屋に入ってきた時に使ったものとは別の扉があった。
「あの扉は私の部屋の一つ……第一高級学校の教授棟につながっているわ。ペンドルトン君がそこで待っているはず。扉の向こうはルーンで作った隠し通路だから、例のスフィアを持っている人間だけが通れる仕組みよ。ペンドルトン君にはあのスフィアは渡してないから、道中の扉はあなたたちのスフィアを使ってね」
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